じもとのnecoの目指すもの

necoの玄関(2018年 1月)
necoの玄関(2018年 1月)

じもと地域に戻った人の居場所として、子育てを終わった人の遊び場となるような企画と場所を2006年から提供しています。

      活動地域は、埼玉西部地域(鶴ヶ島を中心に、川越レインボウ、比企郡)です。

 

英語教室、料理教室、パソコン教室のほか、読書会、歴史を楽しむ温故塾や経済の話題を取り上げる会などが行われています。

 

さらに地域の情報発信を進めていく活動を、

LLPじもとメディア、NPO広報じもと にも参加して、じもと地域のまちづくりの活動をしています。

 

ご興味を持たれた方はご連絡下さい。   お待ちしております。

 

2017年

10月

23日

20171017

第73回 温故塾「火付盗賊改」

 

 2017年10月17日、今回は今井塾長の得意分野で、話し出したら止まらない。その一端を紹介します。

 

●火付盗賊改とは?

 池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵の役職として有名になっている。

火付盗賊改は、正規の幕府職制上の役職ではなかった。その役は主として先手頭(さきてがしら)の役職にある者の中から出役させたので、先手頭の「加役」とよばれ、やがては火付盗賊改を加役とも称するようになった。火付盗賊改の名称も、盗賊考察、盗賊改、火賊考察、火賊捕盗、博徒考察、博奕改、捕盗、捕盗加役などのさまざまな名称が使われ、いつのころか「火付盗賊改」が通称となった。火付盗賊改が幕府の職制上、正式な地位を与えられたのは幕末の文久二年(1862)のことで、このとき始めて専任の役職となったのである。

 

 

●職務と権限

 火付盗賊改を略して〃火盗改〃という。その任務は江戸市中を巡回し、放火犯、盗賊、博徒を見つけ出し、または探索して隠れ家に踏み込み逮捕することである。先手頭は若年寄支配であるが、火付盗賊改となると老中支配に代わった。役高は千五百石、役扶持百人扶持。配下として与力十騎、同心三十人がついた。布衣を許され、席順は先手頭の上席であった。

 

 火付盗賊改は火付、盗賊、博奕の刑事専門の特別捜査機関であった。その権限は大きく町人地、武家地、寺社地のほか江戸近郊にまで及んだ。犯罪者が武家地や寺社地に逃げ込むと、町奉行では手が出せなかったが、火盗改は場合によっては旗本屋敷へ踏み込んで逮捕することもできたし、相手が刃向えば容赦なく斬り捨ててもよかった。

 

 

〃鬼平〃長谷川平蔵宣以は実在の人物

 ●青年時代 

 延享二年(1745)平蔵宣雄の長男に生まれ、初名を銕三郎、諱を宣以(のぶため)といった。十五歳で元服したが、将軍に御目見えしたのは明和五年(1768)の二十三歳であった。御目見えが遅れた理由は宣以の生母が家女(武家の娘でなく農民の出身)であったという事情に関係していたとみられる。これが平蔵(以後は宣以のこと)の素行が修まらなかった一つの原因である。

 二十九歳の時、父宣雄の京都西町奉行就任に同行し、平蔵はその名裁判ぶりを直に見聞したであろう。父の没後、家督を継ぎ小普請入となった平蔵は、父親が「貯え置きし金銀を遣いはたし、遊里へ通ひ、剩(あまつさ)へ悪友と席を同じうして、不相応の事など致して、〃本所の銕〃と仇名される遊蕩児」だったと『京兆府尹記事』にある。

 

 安永三年(1774)四月、平蔵は西の丸書院番となり、翌年進物番になった。進物番は容姿端麗、行儀作法にすぐれ、堂々と押し出しがよい者でなければ勤まらない。男前で挙措動作にすぐれ、口も腕も達者な平蔵には、さぞ適役であったにちがいない。天明四年(1784)、西の丸徒頭(かちがしら)となり、家禄四百石に足高六百石が加えられる。

 二年後の天明六年(1786)七月、番方の最高位の先手弓頭に進み、翌七年九月、火付盗賊改の加役を命ぜられる。平蔵四十三歳であった。加役には百人扶持を給せられたが、費用のかかる役職にしてはあまりにも少なく、よほど財力に余裕のある旗本でなければ務まらなかった。普通の任期は、一、二年であったが、平蔵は火付盗賊改に八年間も在職した。これは火付盗賊改としては最長で異例なことであった。

 

●人足寄場の経営

 打ち続く凶作や災害で地方の農村は荒廃し、多くの人口が大都市の江戸へ流れ込んできた。しかし、職に就ける技もない者はしぜん無宿者となり、あれこれ罪を犯しかねない。また、軽犯罪を犯して、入墨・追放した者も手職がなければ再犯者となりかねない。そうした無宿者・犯罪者の更生施設が「人足寄場」であった。建議者は長谷川平蔵である。

 

●松平定信の平蔵ぎらい

 平蔵が苦心惨憺して「人足寄場」の経営を軌道にのせた寛政四年(1792)六月、平蔵は人足寄場の役を外され、火付盗賊改に専念させられる。その功労にはたった金五枚の賞賜であった。人足寄場経営の成功をみて、定信は平蔵から取り上げたのである。寛政五年(1792)七月、定信は老中を罷免された。定信は平蔵の火付盗賊改の功績、人足寄場の労苦に何ら報いることがなかった。定信は平蔵の田沼意次的な感覚(貨幣経済主義)を嫌ったらしい。

 

寛政六年十月、幕府は平蔵の長期にわたる火付盗賊改の功労を賞して、時服を賜与した。そして、翌寛政七年(1795)五月十日、不帰の客となったのである。平蔵が突如として病に倒れると、十一代将軍家斉から御側衆加納遠江守を遣わされ、貴重薬瓊玉膏を賜ったと『寛政重修諸家譜』にある。享年五十一。

 

 

2017年

7月

12日

20170711

第8回 阿部プロのビジュアル写真教室

 

2017年7月11日に阿部英明プロの写真教室が行われました。

 

過去に撮影した建物、部屋の写真を見せながら、その撮影テクニックを説明しました。

光をうまく使って撮影するのが重要で、後の修正作業のためにも、5段階の露出の撮影することを勧めていました。

特に体験談として興味深かったのは、光がない場所での撮影。建築中の某ホールの撮影では、まだ照明設備ができてなかったので、電灯を持ってホールを走り回って撮影したとのこと。スローシャッターで撮ると、光が当たったところが順次写るので、明るい室内を撮ったような写真になるそうです。花火を撮るのもこの原理の応用だそうで、この夏の花火大会が待ち遠しい。プロの撮影テクニックが学べるこの教室は凄いとの評価です。

2017年

4月

18日

20170418

第68回 温故塾

「一向一揆とは?」

 

4月18日(火)午後2時から今井塾長の雑談からスタート。今回のテーマは各種資料を読み込んで、分かりやすく説明するのに苦戦したとのことであった。

教義の解説をするのではなく、その発展経緯、信長との攻防などの歴史的な出来事を解説した。また、4月7日に実施した歴史ツーリングで高田派本寺 専修寺を訪れたのはタイムリーであった。

一向一揆とは何か?

親鸞開祖の浄土真宗(真宗)はいくつかの諸流に分かれた。主な本願寺歴代宗主の

略歴はつぎのとおりである。

 

○開祖親鸞(しんらん) 承安三年~弘長二年(1173~1262)

九歳で得度し、比叡山で堂僧を勤めていたが、二十九歳のとき山を下りて京

都六角堂に参籠。聖徳太子の夢告を得て、法然の門下に入り、専修念仏の道を

歩む。三十五歳の折り、〃承元の法難〃にあい、越後へ流罪となる。このとき

愚禿(ぐとく)と称し、非僧非俗を自らの信条とする。五年後赦免となったが、京

都へは帰らず、常陸国稲田(笠間市)を拠点して、以後二十年間、関東・東北の各

地に布教した。結果、多くの門弟が生まれ、高田の真仏、鹿島の順信、横曽根

の性信坊らは、のちに高田派門徒、鹿島門徒と呼ばれる原始教団を形成した。

この間に親鸞は『教行信証』を著し、その思想体系の樹立に努めている。

三世覚如(かくにょ)1271~1351年

父は親鸞の娘覚信尼の子覚恵。親鸞墓所(御廟)の留守職となり、ついに本願寺を創立し、後世、飛躍的に伸張する本願寺派の素地を築いた。

 

八世蓮如(れんにょ)1415~1499年

 蓮如は琵琶湖西岸の堅田門徒を足がかりに、湖東・湖南の教化に乗り出したが、危機感を抱いた山門衆徒(比叡山)が1465年1月、突如、襲い掛かって大谷本願寺の堂舎をことごとく破壊した。蓮如は1471年、北陸門徒の拡張を目指し、越前と加賀の国境である吉崎の地に入った。吉崎には門徒が群集し、一、二年で二百軒近く立並ぶ大寺内町が出現した。吉崎御坊である。

 しかし、1474年、加賀一向一揆が蜂起すると、蓮如は難を避けて翌年、吉崎から河内(大坂)へ移る。1479年「さながら仏国の如し」と称えられた華麗な山科本願寺を建立した。1488年6月、加賀国では一向一揆が守護の富樫政親を攻め滅ぼし、ついに「百姓のもちたる国」となる。

 1497年、石山坊舎(のち石山本願寺)を完成。1499年、山科に帰り、八十五歳で歿した。蓮如は戦乱の時代に本願寺教団を統括して強大な組織につくり上げた。

 

十一世顕如(けんにょ) 1543~1592年

 諸大名とは融和方針をとり、武田信玄、六角義賢、朝倉義景らと盟約を結んだ。1570年、信長の近江侵攻から対立し、その後、天正八年まで十五年間にわたって激しい闘争を繰り広げた。

長島一揆、越前一揆、石山合戦は苛烈をきわめ、信長をしばしば危地に陥れた。しかし、盟約を結んだ信玄の死、朝倉氏滅亡によって、信長包囲網は破れ、長島、越前・加賀の一揆勢は壊滅した。最後の砦・石山本願寺も、1580年三月、天皇の勅命による講和という形をとって降伏し、顕如は大坂を立ち退き、紀州へ移った。

息子の教如は徹底抗戦を呼びかけて檄文を発したが、地方一揆のあいつぐ鎮圧に力尽き、八月初め、本願寺に火を放って放浪の旅に出た。

 その後、信長・秀吉は本願寺教団を弾圧せず、そのまま従属化させる政策をとった。顕如の跡は准如が十二世となって本願寺を継承したが、教如はのちに家康と結びついて、慶長七年、京の東六条に信浄院を興した。これが東本願寺である。

 

 

 

0 コメント

2017年

4月

11日

20170411

第4回 阿部プロのビジュアル写真教室

 

 4月11日(火)10時から始まった写真教室は、何やら工作教室の様子

阿部プロ手作りのライトスタンドを持ち込んでの撮影講義でした。

手づくり材料は、100円ショップで買えるプラスティック整理用のカゴに、アルミホイル、LEDライト、写真用のディフューザー(半透明のごみ袋でもOK)などで、実際の撮影に使えることを見せました。

 

光源の違いで写真の色味が変わる話は興味深かった。

また、料理写真には赤・白・緑を入れることで、目線が動き綺麗に撮れるなど実践的な話を織り交ぜ、直接のライトとディフューザーを使っての影の出方の違いなど、生徒に分かりやすく解説した。

0 コメント

2017年

2月

21日

20170221

温故塾 第66回

「鎌倉公方九代記 上」

 

足利尊氏は室町幕府を開くと、重要地域である関東鎮圧の必要性から、二男

の基氏を鎌倉へ下向させて、〃関東管領〃に任じ、上杉憲顕をその執事として

補佐させた。

 

 始めは関東管領と称していたが、基氏、氏満、満兼、持氏と続くうちに、しだいに〃鎌倉公方〃とか〃関東公方〃と呼称されるようになり、それに従い、鎌倉府の執事が〃関東管領〃と呼ばれることになった。

 

 鎌倉府は室町幕府の関東における出先機関で、武蔵、上野、下野、下総、上

総、安房、常陸、相模、伊豆、甲斐の十カ国を支配した。執事つまり関東管領

には、初期の基氏時代、高師冬、畠山国清が就いたが、その後は歴代上杉氏が

就任した。

 上杉氏は尊氏の生母清子の実家であり、上杉憲顕は清子の兄憲房の子である。上杉氏は山内、犬懸、宅間、扇谷の四家に分かれたが、山内、犬懸の両家に勢力があり、交互に関東管領に就任した。

 観応二年(1351)、足利家において尊氏の弟直義と執事の高師直が抗争し、直義が出家(恵源と号した)し、高師直・師泰兄弟が討滅されるという事件が起こる。

ついで尊氏と直義が不和となり、尊氏は直義を殺害(毒殺)し、鎌倉から直義党を一掃した。この時、直義党の憲顕は越後へ落ち延びた。この一連の騒動を観応の擾乱という。

 

 足利家の内紛に乗じて、新田義宗らの南朝勢力が武蔵・上野に兵を挙げ、尊氏軍と武蔵金井原・小手指原に戦ったが敗れた。その隙をついて新田義興・義冶が鎌倉へ乱入し、基氏は逃れて尊氏の石浜の陣に合流した。同年二月二十八日、尊氏は宗良親王を奉じた新田義宗と笛吹峠で合戦し、これを撃破し、義興・義冶も追撃して四月八日、鎌倉を回復した。

 延文三年(1358)十月、基氏は新田義興を謀略にかけて武州矢口ノ渡にて殺害。入間川に陣所を構えて、以降六年間も滞在し、関東諸将から〃入間川殿〃と称される。

 

貞治元年(1362)、基氏は越後に逼塞していた上杉憲顕を越後国守護とし、翌年には上野国守護に任じ、さらに関東管領に復職させた。この人事には越後守護職の宇都宮氏綱、守護代の芳賀禅可高名が激怒し、憲顕が鎌倉へ向う途中を襲撃せんと上野国板鼻に布陣した。その報に接した基氏はただちに禅可らを討滅せんと鎌倉を発し、禅可の子高貞・高家の軍勢を比企郡岩殿山、苦林野で激戦のすえ討ち破り、敗走する芳賀勢を追って下野に進撃し、ついに宇都宮氏綱を降伏させた。

 

●足利氏満 延文四年~応永五年(1359~1398)

 幼名を金王丸。九歳で基氏の跡を継いで鎌倉公方となる。上杉憲顕が引続き管領として補佐した。応安元年(1368)一月、京都三代将軍に義満が就位し、憲顕が氏満の名代として上洛した。その隙を衝いたように平一揆(へいいっき)が川越城に立て籠もって蜂起した。平一揆とは平氏の流れをくむ河越氏、高坂氏を中心とした一揆である。これに呼応して宇都宮氏綱もふたたび兵を挙げた。憲顕は急遽、鎌倉へ帰ると、上杉一族を結集し、上杉朝房を河越へ、上杉憲春を下野へ兵を進めて、ことごとく反乱を鎮圧した。

 

応永十八年(1411)、山内上杉憲定に代って犬懸上杉氏憲(禅秀)が関東管領に就任した。が、禅秀はわずか四年で辞任する。

○禅秀の乱

 応永二十三年(1416)十月、禅秀は突如挙兵した。この乱の背景には、将軍義持の弟義嗣(よしつぐ)がからんでいた。義嗣は父義満に溺愛され、次期将軍と目されていたのに、兄義持が実権を握ったことに不満で、秘かに禅秀に叛乱を勧め、東西呼応して立ち上がる計画であった。応永二十四年一月、武蔵・相模での防戦に失敗した禅秀・満隆らはたちまち追詰められ、鎌倉鶴岡八幡宮の別当宝性院で一族・従者百余人とともに自殺した。

 

○永享の乱

 正長元年(1428)、将軍義持が歿した。義持の嫡男義量は早世していたので、後継者がおらず、幕府は義持の弟たちの中から青蓮院義円を籤引きで選び、還俗させて「義教」と名乗らせ六代将軍に就けた。

足利持氏は義教を〃還俗将軍〃と侮り、将軍就位の祝賀式に使者を送らず、正長二年九月に改元された永享の年号も用いず、義教への敵意をあらわにした。

 持氏は一色直兼に憲実追討を命じ、自らも武蔵国府中の高安寺に出陣した。憲実の通報を受けた幕府は、いちはやく駿河の今川、信濃の小笠原らに出兵を命じ、陸奥の伊達、芦名、結城らの諸将にも動員令を下し、後花園天皇から追討の綸旨と錦の御旗を申し受けて、ここに永享の乱の火蓋が切られた。

 追討軍の総大将は上杉持房(持憲ともいう)である。持房は犬懸禅秀の子で、父敗死後、京都へ逃れ、将軍義持・義教に仕えていた。いわば敵討ちの当事者を幕府は差向けたのである。

憲実は持氏の助命を幕府に嘆願したが、義教は許さずに処刑を命じた。永享十一年二月十日、憲実はやむなく扇谷上杉持朝、千葉介胤直らに永安寺を攻めさせ、持氏は稲村御所満貞ら近臣三十余名とともに自害。続いて嫡子の義久も自害し、鎌倉公方は断絶状態となったのである。

 ○結城合戦

 永享の乱は、関東の諸豪族の間に拭いがたい亀裂を生じさせた。とくに関東管領の上杉憲実が幕府軍を引き入れて、関東公方持氏を滅亡に追い込んだことは、関東旧豪族の大きな反撥を招いた。反幕府、反上杉の狼煙を揚げたのは、下総北部の結城氏朝・持朝父子である。

永享十二年三月、持氏の遺児春王、安王を結城城へ迎え入れ、持氏の旧臣に挙兵を呼びかけると、宇都宮等綱、小山広朝、那須潤朝、岩松持国、桃井憲義ら北関東から信濃にかけての諸豪族が次々と応じて参陣した。その数二万余という。驚いた義教は、直ちに結城一党の討伐命令を下し、総大将上杉持房と副大将上杉清方とした先鋒部隊を差向けた。

 

翌嘉吉元年(1441)四月十五日、焦燥にかられた上杉清方は一気に勝敗を決すべく、総攻撃に転じた。幕府軍に内応して城内に火を放った者があり、ついに結城城は炎上し落城した。氏朝は落城が近づくと、春王・安王を女装させて脱出させたが、見破られて捕えられた。氏朝・持朝父子は落城とともに自刃して果てた。

春王と安王は、京へ護送されることになった。春王十三歳、安王十歳といえ、関東公方持氏の遺児であり、あの冷酷な将軍義教が許すとは思われない。幼な心にも二人は覚悟を決めていた。護送隊が箱根を過ぎたころ、義教から「春王・安王の兄弟を途中で殺せ」という命令が届いた。二人の首は京へ運ばれて首実検の後、処刑地の美濃国垂井の金蓮寺に葬られた。いま一人の持氏の遺児で四歳の永寿王は、信濃国に匿われていたが、発見されたのが同年六月二十四日、義教が赤松満祐邸で暗殺された後だったので、からくも一命は救われた。(加須市龍興寺に持氏・春王・安王の供養墓がある)

 この永寿王が数年後、鎌倉公方として迎えられるのである。

 

0 コメント

2017年

2月

16日

20170216

neco論で経済 NO.15

 

「今、物流が熱い」

 

人手不足で注目を浴びている物流業界の話。この日はアスクルの倉庫が大火事で世間を騒がしていた日でもありました。

 

 貨物輸送の主力が自動車59%はそうだろうなと思ったが、37%が国内海運というのは認識不足でした。

 

 ネット通販の成長とともに、宅配の取り扱いも増え2015年には37億個と、15年間で2倍になった。また、宅配はその内容も顧客の荷物を運ぶだけでなく、大手のヤマトの羽田クロノゲートでは、顧客からDMパンフレットのデジタルデータだけを受け取り、印刷=包装=配送までを一貫してこなすなど進化してきている。

 また、物流倉庫にはロボットの導入など人手不足対策が進む。国内だけでなく沖縄に物流拠点を設け、東南アジアの主要都市に翌日配達体制をつくるなど国際化も進展している。

 日本郵便は2015年3月期に宅配便市場で前期比13%増の4億8500万個に取扱個数を増やしたが、シェアはまだ約13%台。メガ物流局を2018年度までに全国20カ所に開設する積極投資でヤマト、佐川を追撃する。

 セブン&アイグループやイオングループが進めるオムニチャネルの最後の決め手は物

流体制である。「顧客が欲しい商品を欲しい時に、欲しい方法で受け取れる」のがオムニチャネルの基本コンセプトで、顧客が確実に購入できることを実現するIT環境(販売・在庫管理、決済機能などの情報処理システム)と物流機能を欠かせない。

 日本の賃貸向け物流不動産市場は米系デベロッパーのプロロジスとシンガポール系のグローバル・ロジスティック・プロパティーズ外国勢が切り開いた。

物流会社などに倉庫を自前で持たずに借りる「身軽な経営」を提案し、両社は

系列の不動産投資信託(REIT)を上場させ、開発した物件をREITに売却して次の物件開発の資金を得る形で事業を拡大している。

 

競争相手のキリンとアサヒが、2017年1月から貨物列車を使ったビール系飲料の共同輸送を始めた。

トラック輸送を軽減するのが狙い。アサヒが吹田工場(大阪府吹田市)、キリンが神戸工場(神戸市)で生産した製品をJR貨物の吹田市の駅から金沢市のターミナルまでまとめて運ぶ。

 

再配達のロスを減らす取り組みとして、宅配ボックスの取り組みも始まり、政府も助成金を支給する取り組みを始めた。

航空業界はLCC交え競争は激化している。

LCC(格安航空会社)は少ない機材を効率的に使い、低価格運賃で着実に利益を出す事業モデルで、日本では12年に3社体制でスタートし、2015年の国内旅客シェアは9.3%である。

 

海運業界

 海運業界は1960年代半ばに深刻な海運不況に、政府主導による構造改善を進め、これを機に6グループに再編。その後90年代末には3社(日本郵船、商船三井、川崎汽船)に集約された。日本の輸出入貨物の6割強の輸送を海運大手が担う。日本の商船は3社合計で2561隻だが、その船籍はパナマなど外国籍が92%で、国際化が進む。

 2011年3.11の福島事故で原発が全面停止、代替エネルギー源としてLNGへの意依存度が急速に高まったため、大手3社はLNG船を安定収益事業と位置づけ、重点的な投資を進めている。ここ数年の各社の中期経営計画を見ると、日本郵船、商船三井は事業規模の大幅拡大を見込み、両社とも運航規模は100隻を超える見通しである。

内航海運でも高齢化、人手不足が大きな経営課題で、60歳以上の船員比率は26.6%で9年前の2倍になっている。海運3社は17年7月に共同出資でコンテナ船事業を統合する、18年4月からサービスを開始する予定である。

0 コメント

2017年

2月

14日

20170214

第2回 写真教室 

 

2月14日(火)バレンタインデイに行われた第2回の教室では、前回話題になったプリントされた写真のデジタル化を実習しました。

 

阿部さんは、ライトやスキャナーを持ち込み、三脚にセットしたカメラと被写体のカメラ位置などを説明しました。

 

 

 

 

 生徒からのホワイトバランスに関する質問から、同じ太陽の光でも朝方、正午前後、夕方で色が変わると解説した。

 一眼レフを持っていてもオートばかりで映している生徒の一人は、ホワイトバランスの中に、蛍光灯、さらに白色蛍光灯、電球色蛍光灯などがあるのを初めて知りました。

 

カーテン越しの光でも晴天モードでよい時もあるなど、細かく解説。

ライトの当て方や光を柔らかくする方法なども。

最後に生徒が持参した77年前(昭和15年)のセピア色した写真をスキャナーで撮り、フォトショップで補正するところを実演し、その出来栄えに拍手でした。

(左記の上段が元の写真でデジタル印刷したのが下段です。)

 

あっという間の2時間で、続きを要望し、次回はカラー写真のデジタル化となりました。

0 コメント

2017年

1月

19日

20170119

2017年1月19日(水) 16時より2017年最初のneco論で経済が始まりました。

今回は2017年ニュース全般についてですが、この日も米国トランプ大統領の話題が中心になりました。世界は米国、英国の動きに連動したものになりそうですね。

■日本的な雇用慣行が非正規労働定着の温床に

▼終身雇用などの慣行がない米国では、雇用調整はレイオフが一般的。勤続年数の短いものから順番に一時帰休にというルールで対象者に身分的な格差はない。

▼日本の場合は正規労働者の解雇には抵抗が強いので、いきおい雇用調整は(労働力と賃金の両面で)非正規労働者に集中しがちに。00年以降のデフレの長期化で同一労働同一賃金の本場である欧米の労働組合なら到底認めないような“身分的格差” が定着してしまった。

 

欧米の場合は「自由貿易+移民」が増幅。

▼EU離脱を決めた英国の国民投票では、地方の労働者がポーランドなど東欧諸国からの移民急増に反発。グローバル化の波に取り残されてEUへの負担感ばかりを募らせた格差意識が底流にあったといわれる。

▼米国でも同様の現象がみられる。企業の海外移転や移民の増大で貧困層に追いやられたと感じている白人の労働者階層が、経済のグローバル化(日米が主導したTPP交渉など)や移民受け入れに反対するトランプ氏を共和党の大統領候補に押しあげた。

 

 

 

日本の本当の試練はオリンピック後の20年度以降に来る。25年度には「団塊の世代」が全員75歳以上となり医療や介護の支出が膨らむことが目に見えている。

 

■年金の支払い原資、年金積立金(厚生年金と国民年金の合計)は目減りする一方。 現在の積立金残高は約150兆円。向こう10年間の平均収益率を1.4%、賃上げ1%と仮定すると、積立金は38年に消える。賃上げゼロなら32年に積立金はゼロになる計算。 04年度の年金改正で政府は賃上げが名目で2.5%、積立金の運用利回りが4.2%との前提で「100年安心年金プラン」を組み立てたが、その前提は大きく崩れた。

第4次産業革命が新たなグローバル化の駆動輪に

 

■政府は16年5月末にまとめた「日本再興戦略2016」で、「第4次産業革命」に約4割の紙幅を充て、成長戦略の中軸に据えた。

 第4次産業革命では、IoTやビッグデータ、人工知能(AI)など、最新のICTを動員して産業を活性化、20年のGDP目標600兆円に向け、30兆円(増加分の3割)を担う、という戦略。 主戦場はデータの収集と処理をめぐる総合技術のグローバルな競争に。

 米国では、GE、インテル、シスコなどが率いるIoT推進団体(IIC)が日本など海外企業を巻き込んで世界基準作りを目指す。

 ドイツは政府主導で「インダストリアル4.0」の推進組織が。 日本でも官民合同の「IoT推進コンソーシアム」が15年10月に始動。日米独による標準化作業も課題に。 スマホ、自動車など移動体通信を使ったBtoC市場での実用化は足が速い。

日本の経常収支の中身が変貌

 15年度の経常収支は18兆円だが、内訳は第1次所得収支が20.5兆円で黒字の太宗を占め、貿易収支はリーマン以降は赤字基調。輸出産業が海外生産に転じた結果で、主力の自動車では海外生産比率が65%を上回っている。見返りに、所得収支が大きく伸びている。

80年代まで、日米間は産業構造の進展に応じて貿易摩擦を繰り返した。

60年代は繊維製品、70年代後半は鉄鋼製品、80年代は半導体、電機、自動車と時のリーディング産業が対象となった。相手はいつも日本だった。

85年に米の対日収支赤字が500億㌦を越えたところで、米通商代表部(USTR)は「不公正」な貿易相手国と行為を特定し、改善がなければ制裁を科すスーパー301条を導入。日本、インド、ブラジルが対象に。

その後、日米間の貿易交渉を重ねて日本側が輸出を自主規制するなどの合意が成立し、90年には301条の対象外となった。

トランプ大統領の次の一手は最大の赤字相手の対中戦略だ。

Brexit、トランプ旋風が欧州大陸でも吹き荒れる?

 

■EUの立て直しには独仏の協調エンジンの復活が必須条件。メルケル首相が4期目を確保し、フランス大統領選で共和党のフィヨン氏が勝つことがカギ。

 

ドイツ(17年秋、連邦議会・下院選)

メルケルは16年11月にCDF党首として下院選に出馬を表明。難民受け入れに反対するAfDが第2党に。メルケルの地元では地方選の得票率でCDFを上回る

 

 フランス(17年4月、大統領選挙)

中道・右派代表のF.フィヨン氏とEU離脱と移民排斥を明確に掲げる国民戦線(FN)のM.ルペン党首との一騎打ちに。

 

 オランダ(17年3月総選挙)

反イスラムを標ぼうする極右政党の自由党が10年の選挙で下院の第3党に。ウィルダース党首が16年6月にオランダのEU離脱を問う国民投票の実施を呼びかけ。

 

イタリア(16年12月、憲法改正は国民投票で否決された)

上院の権限を大幅に縮小する改憲を拒否されたレンツイ首相は辞任。グリッロ氏が代表する五つ星党が難民・移民の排斥を掲げて人気第1位に。

 

 

<気になるその他のポイント>

 

*トランプはTPPからの撤退のほか、EUに次ぐ成果を上げたNAFTA(北米自由貿易協定)の破棄も表明している。場合によってはWTO(世界貿易機関、加盟164ヵ国)の在り方にまでも影響が。

 

*世界のサプライチェーンは90年代以降の20余年間でグローバル化が急速に進み、様相が大きく変わった。欧米では多国間協定による自由貿易圏でEU、NAFTAがチェーン構築の推進役を果たした。アジアでは、中国の人的資源と国策による産業振興、韓国の強力な海外市場攻略策などで、東アジア圏域に協定なき自然発生的集積が形成された。

通信の最先端、IoTに対応する次世代型通信の5Gに5兆円を投入し、この分野での主導権を狙う。

 

*最大手の中国移動通信集団(チャイナモバイル)は世界の40社以上と5G技術を共同開発、19年から中国の100万カ所以上ある4G基地局を5G用に更新。中国政府は25年に完全自動運転車を実現し、30年には完全自動運転車を新車販売の1割程度にする方向で検討を進めており、5G通信網はその基盤となる。

0 コメント

2016年

11月

24日

20161117

第12回 neco論で経済

 

「米大統領選とグローバル化の行方」

 

 2016年11月17日、アメリカの次期大統領がトランプ氏に決まったのを受け、今後の世界、日米間などの展望を望月講師から解説いただき、論議を行いました。

 

 トランプ氏はグローバル化を背景にした格差拡大や製造業の疲弊、移民問題など、現代のアメリカが抱えている病根を突き、「アメリカ第一主義」という内向きの主張を掲げて当選を果たした。

冷戦終結とともにグローバル化は急進展したが、トランプ氏の登場は「89年のベルリンの壁崩壊に匹敵する重要な出来事」(イアン・ブレマー氏)ともいわれる。トランプ氏のインパクトがどこまで世界を揺るがすか、現段階では見極めにくいが・・・。

 

 

トランプ・リスク どこまで?

 

イデオロギー的変質は?

ポピュリズム(大衆迎合の政治)の蔓延=閉塞感から強い指導者を待望するファッショ的風潮への抵抗力が欠如。

理念より実利を=冷戦時代の名残りである「民主主義と人権の守護神」という十字軍的な発想を捨てて、実利に即して行動。(戦後の自由世界をけん引したミッション意識が・・・)

アンチ・グローバリズム=自由と多様性を基軸にする成長路線に代えて、保護主義的な立てこもりに陥る危険が。

 

 

 

経済・外交政策では?

*TPPを白紙撤回=自由貿易を推進してきた米国のベクトルが真逆になる。米国内で政権と国際企業の間に軋轢が。世界貿易に縮み志向が。環境規制もからみ自動車業界には差し迫った問題が表面化も。

*防衛・安全保障問題=同盟離れや孤立主義は軍事介入など直接行動のリスクを高める。対日ではまず在日米軍の負担問題が浮上。安倍政権の防衛論悪乗りも懸念される。

*基軸通貨ドルの地位=戦後の自由貿易はドルの流動性が裏打ちしてきた。トランプの言う強いアメリカが強いドルにつながるか、国際市場でのドル供給に支障はでないか。

トランプ・フィーバー、サンダー

ス旋風の背景に中間層の没落

 

中間層の後退に製造業の地盤沈下。

 ピュー・リサーチセンターによれば、00年から14年の間で中間所得世帯のシェアが大きく落ち込んだのは、オハイオ州やノースカロライナ州、ミシガン州など歴史的に製造業主体の地域。

 

 反対に、テキサス州やコロラド州ではアッパーミドルクラス層が増えている。ここはエネルギーやIT、ヘルスケア、バイオなど新産業が伸びている。産業の新陳代謝が中間層ありようを変えていることをうかがわせる。

 

ラストベルト地域が反エスタブリッシュメントに

 

 鉄鋼や石炭、自動車などかつての主要産業が衰退してしまった「ラストベルト」(錆びた産業地帯、米国の北東部、ウィスコンシン州、ミシガン州(GM、フォードが本社)、オハイオ州、ペンシルベニア州などの諸州)で白人労働者の不満が鬱積。

 

 グローバル化や技術革新に振り落とされた人々が今回の大統領でトランプやサンダース支持。

 

■グローバル化が先進国内の所得格差を広げる

グローバル化が進行すると途上国の賃金が上がり、先進国の賃金が抑えられる「要素価格均等化の法則」が働いて、労働者の賃金水準は国際的な平準化がゆるやかに進む。

 

■欧米の場合は「自由貿易+移民」が増幅。

▼EU離脱を決めた英国の国民投票では、地方の労働者がポーランドなど東欧諸国からの移民急増に反発。グローバル化の波に取り残されてEUへの負担感ばかりを募らせた格差意識が底流にあったといわれる。

▼米国でも同様の現象がみられる。企業の海外移転や移民の増大で貧困層に追いやられたと感じている白人の労働者階層が、経済のグローバル化(日米が主導したTPP交渉など)や移民受け入れに反対するトランプ氏を共和党の大統領候補に押しあげた。

トランプの経済改革 実現度は日本は非正規雇用が格差拡大

 

■国税庁「平成26年分 民間給与実態統計調査」によると、14年(平成26年)末の平均年収は415万円。安倍政権誕生の13年以降、若干は上向いているものの、ピークの97年(平成9年)比では11.2%減と低迷が続く。

■賃金水準が戻らない最大の要因は雇用格差。年収がピークとなる50代前では非正規の賃金は正規の約4割、総平均でも6割という大きな格差が。

現在進行形の自由貿易圏作りを直撃トランプの経済改革 実現度は

 

❖大幅減税:先進国で最高の法人税を引き下げ。

2兆㌦に達するといわれる米大企業の海外滞留資金の還流を狙う。05年に時限立法で還流資金の税率を下げた際、同年は海外留保資金が3千億ドルも米国に戻る。

⇒ドル買い需要でドル高要因に

❖財政支出の拡大で景気を刺激。

10年間で1兆㌦は戦後最大のインフラ投資となる。

⇒減税と歳出増が重なれば財政赤字は一気に膨れがる⇒国債利回りの上昇⇒金利負担増、ドル高要因

❖関税引き上げ。(対中45%、メキシコ35%には放言?)ドル高を織り込んでも引き上げ幅いかんでは物価上昇要因に。⇒インフレと金利上昇は景気の足を引っ張る。

⇒保護主義的なスタンスの基調にインフレが加わるとドル安(円高)要因が重なる。

❖通商協定の見直し。

TPPは白紙撤回か全面見直し。NAFTAに手を付けるとなると、メキシコを対米輸出拠点にしている日本車への影響は大きい。

❖環境対策から手を引き、パリ協定を破棄。

もともとパリ協定は米国が対中アプローチの道具として使ったいきさつがあり、米国内で論議が十分こなれたものではなかった。

現在進行形の自由貿易圏作りを直撃する。

 

「一帯一路」路線を標榜する中国が主導する形で好都合な組成に動く可能性がある。

 

■日本の本当の身の丈が問われる時代になる。

 

米をめぐるパワーバランスの変化の速度と度合は、トランプ政権のやり方いかんにもよるが、対外コミットメントは一段と先細りに。それを前提にした対応が必要になる。

ただ、日本は非核宣言国のほか、地政学的にも完全に自立した安全保障体制を築くのは現実的には難しく、身の丈に合った方策を探るという難しい課題に直面する。

0 コメント

2016年

11月

15日

20161115

 

文禄・慶長の役 
●起因

 秀吉の大陸侵攻の野望は、天正十四年の九州平定の頃からである。九州平定後、対馬の宗義智に命じて、朝鮮国の来朝を要求させた。天正十八年(1590)七月、関東・奥羽を平定し、天下統一を成した秀吉のもとに、朝鮮国の使節がやってきた。そこで、秀吉は朝鮮王に対して、「明国(中国)侵攻のための道を朝鮮に仮()りたいので、貴国は率先して道案内をせよ」(『仮道入明』)という、とんでもない要求を突きつけた。朝鮮は明国の封をうけていて、いわばその属国であったから、当然、こんな要求に応じるわけがなかった。明・天竺(インド)までも征討して東亜の盟主になろうという、秀吉の誇大妄想的な野望はこうして始まったのである。

文禄の役
 
 ○日本軍の進撃
 天正十九年八月、秀吉は諸大名に「唐入り(からいり)」、すなわち明国征討を発表し、玄海灘にのぞむ名護屋(佐賀県松浦郡鎮西町)の地を遠征軍の本営と決定した。本営の工事には黒田長政、小西行長、加藤清正ら九州の諸大名を動員して、同年十月着工、わずか五ヶ月余りで完成した。全域17万平方メートルという壮麗広大なもので、当時、大坂城につぐ規模の本格的城郭であった。
 翌文禄元年(1592)、遠征軍の出発を三月下旬ときめ、陸海諸部隊の名護屋集結を命じた。一番隊は小西行長、松浦鎮信、有馬晴信ら一万三千七百人、二番隊は加藤清正、鍋島直茂、相良長毎ら二万二千八百人、以下、十六番隊と番外二隊あわせて約二十五万人、船手衆約四千人、秀吉の旗本三万人、総計二十八万数千人という編成である。

・・・・・・・・・・

 

○京城無血入城

 京城(漢城・ソウル)に日本軍来襲が報らされたのは四月十六日、国王はただちに李鎰(りいつ)を慶尚道巡辺使に任じて、日本軍の北進を防がせようとしたが、軍官六十余人に農民兵一千人ではなすすべもなかった。忠州の郊外・弾琴台には都巡辺使の申立将軍が八千の兵で待構えていたが、これもまた日本軍の敵ではなく、申将軍は水に投じて死に、斬首された者三千余人、捕虜数百人、漢江に落ちて溺死する者無数という惨敗であった。

 京城内は恐慌状態となり、国王は二十九日、城門を出て開城に退避した。京城の防衛を命ぜられていた留都大将李陽元、都元帥(全国軍事の総督)金命元も、日本軍が近づくと一戦も交えずに王都を捨てて逃げ去った。かくして五月二日、日本軍は京城に無血入城した。

 

・・・・・・・・・・

 

○平壌占領

 九日、一番隊は平壌の前面にある大同江の南岸に達した。日本軍の急追に、十一日、朝鮮王はまたしても平壌を捨てて寧辺へ向った。平壌防衛に尹斗寿を城将として留め、金命元とともに一万の兵をあたらせた。十五日早朝、宗義智の陣を襲撃した一隊が、行長や黒田長政の援兵に背後から攻撃されて大敗し、残兵はからくも城内へ逃げ込んだ。その際、浅瀬のあることが分かったので、同日、この渡河点の対岸を占拠した。これで平壌防衛が困難と弱気になった尹斗寿、金命元は、その夜、ひそかに城内の軍民を外に出し、順安に遁走した。

 

 十六日、日本軍はまたしても無血で平壌に入城した。このとき城内の十万石の貯蔵食糧を確保している。こうして京城・開城・平壌の朝鮮の三大都市はすべて日本軍の手中に帰したのである。黒田の三番隊は担当守備である黄海道へ転進し、小西の一番隊は城内に土塀をめぐらした日本式の城塞を構築し、しばらくここに駐屯する態勢をとった。

 

・・・・・・・・・・・・

 

○李舜臣、日本水軍を撃滅

 陸上で快進撃をつづける日本軍の背後で深刻な事態が起った。日本水軍は開戦当初、慶尚道の朝鮮水軍を撃滅したが、その後は、もっぱら釜山・対馬間の警備にあたって、全羅道方面へ進出しなかった。全羅道左水使の李舜臣は日本水軍との戦いを決意し、五月四日、八十五隻の艦船を率いて、根拠地の麗水を出航。巨済島の東方に進出し、玉浦に停泊していた藤堂高虎らの五十隻の船隊を外洋に誘き出し、これに潰滅的な打撃を与えた。この海戦で李舜臣は、日本の艦船二十六隻を火箭(ひや)で焼き沈めている。

 

 同二十九日、泗川の停泊地で輸送船十三隻を全滅させ、六月一日、弥勒島の亀井玆矩の艦船二十一隻を襲い、大半を焼き沈めた。さらに唐項浦に集結していた加藤清正の水軍(輸送船)の大小三十三隻を襲撃して、これを焼き尽くし、ついで六日には、巨済島の南端の海上で、来島道久の水軍を全滅させた。その戦果は甚大で、日本軍は制海権を消失し、陸上部隊への補給ルートを断たれるという危機を迎えた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

日本の船隊は「安宅船」と「関船」が主力で、安宅船は二層の櫓を備えた大型船(全長三十メートル)で、いわば戦艦。関船は中型で巡洋艦であるが、堅牢な朝鮮の艦船にくらべて燃えやすく、脆弱であった。李舜臣の戦術・操船の巧みさもあったが、朝鮮水軍の発明した亀甲船が無類の威力を発揮したことである。亀甲船とは、船の上に亀甲のように板を敷き、尖鉄を植え、甲板下には両舷に各六挺、舳艫に各一挺の大銃を備え、櫂を操る水夫も甲板下においたもので、船の前後進退はたいそう軽快であった。

 

○平壌、奪回さる

 八月下旬、平壌の小西行長のもとに、明の沈惟敬なる者が和議の話を持ち込んできた。行長は和議の成立を望んでいたから、これを応諾した。惟敬は明の北京との交渉には五十日はかかると言って去った。十一月下旬、ふたたび平壌を訪れた惟敬は、いつわって明の講和使がまもなくやってくると言って去ると、行長はこれを真にうけて、さっそく開城で諸将と和議の意見交換をしている。こうして、戦意がゆるんできた日本軍に、突如、明の大軍が襲いかかった。

 

 文禄二年(1593)一月五日、李如松が率いる十万の大軍が、平壌の三方から包囲した。日本軍は一万五千で防衛についた。七日、明軍の総攻撃が開始された。攻城軍は大将軍砲、仏郎機(フランキ)砲、霹靂砲など、日本人が見たこともない大砲で城門を砲撃し、火箭も射かけた。城壁をよじ登ってくる明兵を日本軍は得意の鉄砲で狙撃し、累々たる死体の山を築いたが、明軍は屈せずに次から次へと繰り出してくる。

 

日本軍は食糧庫と兵舎を焼かれては、とうてい持ちこたえるができず、その夜、ひそかに大同江の氷上を渡って、南方に敗走した。

 

・・・・・・・・・・

 

 ○講和・日本軍の京城撤退

 京城の日本軍と開城付近の明軍は対峙したままであった。三月下旬、またも沈惟敬が小西行長を訪ねてきた。すでに提督李如松は戦意に乏しく、本国の兵部尚書(兵部長官)の石星も如松の意見を入れて、講和使を日本に派遣することを同意していた。行長は惟敬と、明より講和使を日本に派遣する、日本軍は京城を撤退し、明軍も遼東へ引揚げる、二王子は朝鮮に返還する、等の諸条項を約定し、秀家や三奉行もこれを承諾した。

 

 四月十八日、日本軍は二王子と明使の謝用梓・除一貫を伴って、京城から撤退した。

 

和議の進展
 和議問題の代表者は日本側が小西行長で、明国側は沈惟敬であった。両人の交渉は文禄元年八月に平壌で会見して以来、日本側から明国に「封貢」を求めるという妥協案で進行していた。「封」とは、明国に秀吉が日本国王と認めてもらうことで、「貢」とは貢物をして交易を許されることである。もっとも、これは小西行長の一存で進めている交渉で、明国も秀吉が封貢だけで納得するのかという不安があった。
 じっさい、秀吉の講和の条件は次のようなものであった。
 一、明王家の娘を迎えて、わが国の后妃とする。
 二、勘合貿易を復活し、官船・商船を相互に往来させる。
 三、日明両国の大臣はお互いに誓紙を交換して通好が続くことを誓う。
 四、朝鮮の四道(慶尚・全羅・忠清・京畿)を日本に割譲し、他の四道と京城      は朝鮮に返還する。
 五、朝鮮王子と大臣一、二人を日本に人質とする。
 六、生け捕りにした二王子は朝鮮に返還する。
 七、朝鮮の大臣はいつまでも日本に叛かぬことを誓う。
 秀吉は日本軍が連戦連勝であるから、明国ではこのくらいの条件は認めるだろうと思っていた。真相を知らされていないのだ。むろん、小西は秀吉の条件などは明国には一切隠し、二の条項の勘合貿易の件、つまり「封貢」の一本槍で交渉を押し進めようとしていた。

・・・・・・・・・・・・・・

和議決裂
 文禄四年(1595)一月十三日、明の使節一行は北京を出立した。冊封正使李宗城、副使陽方亨は四月二日京城へ到着したが、日本軍撤退の交渉に時をついやし、釜山へ着いたのが十一月二十二日。明使は日本軍撤退を待って、翌慶長元年の四月三日、いよいよ日本へ渡るという前日、正使李宗城が脱走してしまった。そのため明では陽方亨を正使に、沈惟敬を副使として、六月十四日、日本船で釜山を出航、閏七月四日堺に到着した。
 九月一日、秀吉は大坂城で明の使節を謁見した。秀吉は使節が冊封使とは知らず、全面講和使と信じていたから大いに歓待し、明から贈られた衣冠を着けて、印章や国書を受け取った。が、秀吉には明の国書が読めない。翌日、僧承兌らに読ませたところ、それには「特に爾(なんじ)を封じて日本国王となし、これに誥命(こうめい)を錫(たま)ふ」とあったから、秀吉は烈火の如く怒り、ここに和議は決裂し、翌日明使は堺から追い返され、ふたたび朝鮮出兵を決意した。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

●慶長の役

 慶長二年二月二十一日、秀吉は朝鮮再征を決意し、軍を攻撃部隊と守備部隊に分け、次のように部署を命じた。

 

 攻撃隊の先鋒は、一番隊・加藤清正一万人、二番隊・小西行長一万四千七百人、三番隊・黒田長政一万人、四番隊・鍋島直茂一万人、五番隊・島津義弘一万人、以下八番隊まで、十二万七千人。守備隊は二万四百人、釜山浦城、安骨浦城、加徳城などに配置した。総勢十四万八千余人で、文禄の役よりも少なかったが、今回はいわば復讐戦で、秀吉は「赤国残らず悉く成敗せよ。青国その外の儀は成るべく相働くこと」と軍令を下した。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

蔚山城の死闘
 慶長二年十二月二十二日、未完成だった蔚山城は、突如、明軍五万七千人、朝鮮軍一万二千五百人の大軍に包囲された。加藤清正は西生浦城にいたが、すぐに駆けつけて城に入った。城内の食糧は二、三日分しかなく、守城の準備はまったくできていなかった。明軍の攻撃は凄まじく、千人以上の戦死者を出した。そのうえ、寒気に襲われ凍傷で手足を失うもの、凍死するものも少なくなかった。清正は疲労困憊の士卒を励まし、籠城兵の士気は少しも衰えなかった。明鮮軍もその頑強な反撃に驚愕し、明国の記録にも「清正、全然懼れず、惟だ死守して以って釜営(釜山)の救いを俟つのみ」と、その勇戦ぶりを称賛している。清正の才幹についても「酋(敵将)中において最も強悍、厳厲(げんれい)にして謀あり」「才能は行長に勝ること数倍なり」と評価している。

・・・・・・・・・・・・・

 

九月二十日、蔚山城攻撃の東路軍は、城兵を郊外に誘き出そうとしたが、清正はその手に乗らず、膠着状態になった。十月六日、泗川城を攻撃した中路軍が勇猛な島津軍に潰滅されたと知って、慶州へ退却していった。島津軍が挙げた首級三万八千七百余という。西路軍は順天城に迫り、水軍五百隻もこれに呼応して攻撃したが、どうしても落せず、陣地を撤収し、水軍も封鎖を解いて去った。こうして明鮮軍の大攻勢はことごとく失敗におわり、大いに気をよくしていた日本軍に、秀吉死去の訃報がもたらされた。秀吉は明鮮軍の総攻撃以前の八月十八日、すでに伏見城で死去していたのである。


 在鮮軍の撤退は、秀吉の遺言として徳川家康ら四大老の名で行なわれた。秀吉の死を知った明鮮軍の水軍は、順天にいた小西軍の撤退を拒もうとしたため、島津義久・宗義智の兵船と、露梁海峡で交戦。この海戦で明鮮水軍は敗れ、救国の英雄と仰がれていた李舜臣提督はあえなく銃弾に倒れた。

 こうして、足掛け七年におよんだ文禄・慶長の役は、朝鮮の国家と人民に甚大な惨害をあたえたのみならず、明国にしても日本にしても何ら得るところなくして、この無謀な侵略戦争はその幕を閉じた。明国は度重なる出兵に国力が疲弊し、やがて北方に興った金(清国)に滅ぼされるのである(1662)

 

0 コメント

2016年

10月

18日

20161018

第63回 温故塾

 

<関ヶ原戦記>

 

東西両軍二十万が激突した関ヶ原の実相を探る。

 

秀吉の死後

慶長三年(1598)八月十八日、豊臣秀吉は享年六十二で死去した。豊臣政権は秀吉の遺言で五大老に託されたが、次期政権の担い手として五大老筆頭の徳川家康に対する声望が大きかった。五大老とは、家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家であったが、その封地といい、戦歴・経験・実力といい、誰一人、家康に対抗できる大名はいなかった。

 

●石田三成・五奉行

 秀吉の生存中、その信任をうけて政権運営に携わったのは五奉行という執行機関だった。その筆頭は石田三成で、ほかに長束正家、増田長盛、前田玄以、浅野長政かいた。石田、長束、増田の三人は共に近江出身であり、算勘・数理に明るい吏僚派である。自然、浅井氏の血を引く秀頼の生母淀君を中心とする近江閥を形成していた。

 一方、加藤清正、福島正則、浅野幸長らは尾張出身であり、みな歴戦の武闘派である。かれらは育ての母ともいえる秀吉の正室高台院(ねね)を取巻く尾張閥をつくっていた。

 

ここで五大老の封地を比較すると、家康は関八州二百五十万石、前田利家は加賀・能登・越中を入れても七十六万五千石、毛利輝元は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲で百十万五千石、上杉景勝は会津九十一万九千石、宇喜多秀家は備前五十七万四千石であった。ほかの有力大名では、常陸の佐竹義宣が八十万石、奥州の伊達政宗が六十万九千石、薩摩・大隈・日向の島津義弘が六十三万石であった。

 

●石田三成の戦略

 三成の狙いは豊臣恩顧の大名を糾合し、反徳川の包囲網を築いて家康の野望を打砕くことである。三成に同意したのが盟友の上杉景勝の家老直江兼続であった。近江閥の増田、長束もそれに引きずられた。加藤・福島と不仲の小西行長、宇喜多秀家も賛意を示した。毛利輝元を大坂城に入れて総大将に担ぎ、その軍事力に期待した。四国の長曾我部盛親、薩摩の島津義弘も巻き込むことに成功した。その計画は、会津の上杉景勝が再三の大坂城参内を拒んだので、大老筆頭の家康が征討軍を率いて関東へ下る。その隙を衝いて大坂にいる諸将の妻子を人質にし、京坂地区の徳川方勢力を討ち滅ぼし、秀頼の命令を下して徳川家康討伐の帥を発し、上杉軍と家康を挟撃するというものであった。

 

家康は大老の毛利輝元、宇喜多秀家などと相談し、景勝が上洛に応じないため、ついに会津討伐に踏み切った。六月十八日、伏見を発向した家康は、近江、伊勢をへて東海道を下り、七月二日、江戸城に帰った。家康の江戸下向を待って、ついに石田三成が行動を起こした。

 

西軍の主なる大名は、毛利輝元、毛利秀元、吉川広家、宇喜多秀家、島津義弘、小早川秀秋、鍋島勝茂、長曾我部盛親、小西行長、蜂須賀家政、生駒親正、脇坂安冶、高橋元種、秋月種長、相良頼房らで、総勢九万三千七百人。たいそうな人数だが、この中には領国の地形上、仕方なく西軍に投じた者や、形勢を観望して、当面を誤魔化した者もあり、二股を掛けた者もあり、敵に内通している者もあった。十万近い人数があっても、いわば烏合の衆であった。

 

●小山会議

 西軍の活発な動向を知った家康は下野小山において、諸将を招集し軍議を開いた。席上、家康は「西上して石田、大谷らの逆徒を討たんと思う。諸候には大坂の妻子が気掛かりな者もあろう。それぞれ思いのままに行動されても些かも恨みには思わぬ」と告げた。そのとき、福島正則が立ち上がり、「わしは身命を投げ打って、内府(内大臣・家康)にお味方つかまつる」と宣言した。豊臣恩顧の大名中、猛将で知られた正則の一言で、黒田、浅野、細川、池田ら諸将の旗幟(きし)は決った。続いて、山内一豊が「わが掛川城を内府へ明け渡す。心置きなく東海道を上られよ」と言った。これで東海道に居城のある大名は次々と家康に城を差し出すことになった。従軍のほとんどの諸将が家康の指揮下に入ったが、真田昌幸・信繁父子は長男の信幸と別れて、上田城へ帰った。

 

●決戦、関ヶ原

 関ヶ原は中山道が東西につらぬき、北へ北国街道が北上し、南へは伊勢街道が南下するという諸街道の結び目のようになっている。こうした地形を古来兵法の術語では「衢地」(くち)といい、大合戦のおこなわれる場所とされてきた。

 九月十四日の夜、大垣を出発した西軍は、十五日午前一時ごろから未明にかけて、各諸隊は関ヶ原に布陣した。石田三成は笹尾山の麓に陣取って、北国街道を押さえ、前衛に島勝猛、蒲生郷舎を配した。兵数七千(秀頼の黄幌衆を含む)。島津維新隊は、石田陣から一丁半(150m)ほどの右に陣取り、兵一千三百を四段に構えた。小西幸長隊は兵を前後の二段に分け、島津隊の右隣に陣を布いた。兵四千。大部隊の宇喜多秀家隊は最後に到着し、中仙道を押さえる位置に布陣した。兵一万八千。大谷吉継隊は宇喜多隊の右に陣を布いた。兵二千。兵数が少ない木下頼継、平塚為弘、戸田重政隊は大谷隊に合流。さらに松尾山下に脇坂安冶、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠の四隊を配した。兵五千。

 松尾山の小早川秀秋隊は一万三千。南宮山の山頂に毛利秀元、吉川広家の一万六千。南宮山の東下に長束正家の一千五百、安国寺恵瓊の一千八百、長曾我部盛親の兵六千六百があった。兵数総計七万九千という。

 一方、東軍の配置は、石田隊に対して右翼の黒田長政、細川忠興、田中吉政、加藤嘉明、戸川達安、生駒一正らの二万六千余、宇喜多隊には松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、福島正則、寺沢広高、京極高知らの一万八千余。家康は旗本三万を率いて桃配山に陣取った。背後の南宮山の毛利秀元、吉川広家に備えて池田輝政、浅野幸長、山内一豊らの二万六千。この二万六千を除けば、関ヶ原に出た東軍の総数は七万四千となる。

 

・・・・・・・・・

 

奇妙な行動に出たのは島津隊である。西軍が敗走する中、島津隊は少しも陣所を動かず、もはや周囲は東軍の兵で取り囲まれていた。維新(義弘)は戦死を覚悟し、「これより敵中を突破し、島津の武名を後世に伝えん」と一千三百の兵に檄を飛ばした。島津隊は十重二十重の包囲の中に死に物狂いで突進した。福島、小早川、本多、井伊の諸隊がこれを追った。島津豊久は乱軍の中で本多の兵に討ち取られ、島津兵の多くが戦死し、維新に付従う者わずかに八十余名であった。維新らは牧田川を越えて、多良方面へ向って去った。

 

この合戦で家康麾下の旗本三万は働いていない。徳川の譜代大名では井伊直政、松平忠吉、本多忠勝が参戦しただけであり、忠勝は五百の兵しか率いていなかった。中仙道を進んでくるはずだった秀忠の三万八千は、上田城の真田昌幸・信繁父子に足止めを喰らって、関ヶ原合戦には間に合わなかったが、まったく手つかずであった。

 関ヶ原で戦ったのは、互いに豊臣恩顧の大名たちであったのである。

 

●関ヶ原合戦とは何だったのか?

 全国の大名を東西の二つに分けて、二十余万の将兵が「天下の覇権」を賭けて争ったといわれる〃関ヶ原合戦〃は、わずか六時間ばかりで決着がついてしまった。いったい何故だろうか?

 

 一つは、秀吉死後の豊臣政権の継続に、多くの大名が拒否反応を示しており、次期政権に徳川家康を待望していたことである。西軍に属しながら、家康に内応、裏切りを通知する大名がいかに多数であったかで分かる。

 

 二つは、この合戦は豊臣恩顧の大名同士の戦いであったことだ。石田三成、増田長盛、長束正家、安国寺恵瓊の吏僚派と福島正則、浅野幸長、黒田長政、細川忠興らの武闘派の対決だった。

また一面、秀頼生母の淀君と秀吉の正室高台院(ねね)の確執もあり、吏僚派は淀君、武闘派は高台院を軸にして派閥を形成していた。加藤清正、福島正則は秀吉死後、高台院から「今後は内府(家康)を頼みとせよ」と諭されているし、去就に迷った小早川秀秋も「家康殿に味方せられよ」と言われていた。

 

 三つは、石田三成の思い上がり、錯覚である。秀吉死後の流れを読めず、五奉行の権力を振るおうとしたこと。三成は秀吉あっての秘書課長であり、亡き後は一大名にすぎない。副社長や専務・重役に向って指図するようなもので、当然人々の反感を買った。その性格も問題だ。島津義弘に対する対応をみれば分かる。とても大軍を指揮する器量はない。関ヶ原合戦では幼君秀頼の威光を借りて、西軍の諸将を勧誘したが、三成の人望に引き込まれたのではない。

 

 四つは、三成と呼応して挙兵した上杉景勝、直江兼続の消極的な戦いぶりである。伊達、最上勢に背後から衝かれるかもしれないが、乾坤一擲の勝負を挑んだならば、なぜ、江戸を目指して攻撃しなかったのか? 結局、伊達・最上勢と小戦闘をやっただけで、百二十万石を三十万石に減封されている。

 

 

0 コメント

2016年

10月

15日

20161015

necoの読書会 特別編

「谷根千ウォーク」

 

 読書会100回記念のまち歩きが、白寿記念となった。

 

 千駄木駅からスタート、団子坂を登って行くと左手に「森鷗外記念館」、10時オープンのため5分ほど待って中へ。入り口に置いてあった下町マップが、その後のウォーキングに役立った。

 

森林太郎は明治維新前夜、津和野藩の典医として生まれ、医者になり、軍人になった。そして文人になった。本人の努力・才能はもちろんだが生まれた場所、時代、職業に恵まれたことが、森鷗外を作ったと強く感じた。

森鷗外記念館の裏手を歩いて、夏目漱石の旧居跡にいる「吾輩は猫」に会ってから、根津神社へ。

 

根津神社ではお祭り、出店が出たり、鼓笛隊の演奏などにぎやかだった。不忍通りを横切り、裏通りのヘビ道を歩いて谷中銀座へ

 

 

 

 

**銀座は駅近くの商店街として、どこにでもあった。狭い路地をコロッケなど買い食いして、「夕やけだんだん」のふもとで地ビールを味わう。

 

カフェに入ろうとしたがどこも盛況で入れず、やむなく日暮里から上野へでて休憩した

最期は世界遺産ル・コルビュジェの作品群の一つ「国立西洋美術館」へ

65歳以上は常設展無料を活かし、ゆっくりと建物を見学した。

 

0 コメント

2016年

9月

20日

20160920

第62回 温故塾

 

信長の合戦

 

革命児・信長

 応仁の乱(1467~1469)以後、百年以上も続いた戦国乱世に終止符を打った革命児・織田信長は、天文三年(1534)五月、尾張の勝幡城に生まれた。父の信秀は、尾張下四郡の守護代織田大和守の三奉行の一人であった。

 

 道三と信長の聖徳寺で会見が有名である。その日、道三は前以って「尾張の大うつけ」と評判の信長を垣間見ようと、街道沿いの家屋に潜んでいると、やがて信長一行がやってきた。「袖をはずした湯帷子を着て、半袴をはき、腰には火打袋などさまざまな袋を吊り下げ、髪を茶筅に結い、赤糸、萌黄糸で巻き立てる」という、〃かぶき者〃である。異風、珍奇好みというか、反俗的性向が異装となって表われ、一種の覇気が漲っている。足軽には三間余の朱槍の長柄五百本、新兵器の鉄砲五百挺を担がせていた。その信長が会見の席上に、すらりと正装して現れて、道三を驚倒させた。会見の後、舅の道三は「わが子供らは、あのたわけが門外に馬を繋ぐべくこと、案の内にて候」と嘆いたという。

 

 信長の行動からある特性が窺われる。

一つは、旧例・古格にとらわれずに行動する。

二つは、織田家旧臣よりも土豪、浮浪人、闇商人との交流している。

三つは、すでに大量の鉄砲を揃え、三間余の長槍部隊を持っていたことである。

    (鉄砲が諸大名に普及するのは永禄年中である)

 その財力の源は、伊勢湾の交通路の要地・津島神社の経済力である。いったい尾張地方は、農業経済よりも商工業が盛んで、流通経済が発展していた。商工業社会では、なによりも〃銭〃の力がものを言う。

 

それに信長の兵制改革は、意図的に銭で雇う兵士、つまり、傭兵専業軍団を創りあげたことだ。当時、まともな人間はすべて何らかの組織(集団)に属していた。農民は村落共同体に、商人は座に、僧侶は寺院に、といった具合である。各地の大名の軍隊は、それぞれの領地の主が軍役に応じて、その支配する村落共同体から壮丁(兵)を動員して連れてくる集合体だった。

 

●桶狭間の合戦(永禄三年五月)「正確な情報こそ、戦功一番」

1560年 五月、駿河の太守今川義元が上洛の軍勢を催した。総勢二万五千。これに対し、信長が動員できる兵力は四千人前後しかない。義元は十二日駿府を出発し、十八日には沓掛に達し、鷲津、丸根の織田方の諸砦を攻め落し、十九日には桶狭間に進出、本陣は田楽狭間に休止した。

永禄三年五月十九日午の下刻(午後一時)、信長は敵の先手を回避し、ただ今川義元本陣を目掛けて、主力部隊の二千人を一挙に突入させた。

戦後、論功行賞があった。義元に一番槍をつけた服部小平太は五百貫、首をあげた毛利新介は一千貫であったが、〃戦功一番〃と賞されたのは、義元の本陣の位置を正確に伝えた梁田政綱で、沓掛城と三千貫の土地が与えられた。つまり、信長は正確な情報こそ、合戦の死命を決することを織田軍全体に知らしめたのである。

 

●姉川の合戦(元亀元年六月)「律儀な盟友、徳川家康」

 1570年、信長はしきりに鉄砲を調達する一方、美濃と近江の国境を守る浅井方の部将たちを誘降した。六月、信長は浅井氏の小谷城城下を焼き払い、支城の横山城を囲んだ。すると長政は援軍の朝倉景健と出陣してきた。約一万八千余である。信長軍は駆けつけた家康軍と合わせて三万四千。両軍は姉川をはさんで対峙した。〃姉川の合戦〃である。

 戦いは同月二十八日早朝から始まり、織田軍は十七段構えの陣を十一段まで破られる苦戦におちいったが、徳川軍が川を押し渡って力戦し、浅井・朝倉軍に大勝した。

 

●三方原の合戦(元亀三年十二月)「復讐に情けは無用なり」

 1572年 十一月、信玄が甲府を出陣し、遠江へ入り、家康の居城浜松城に迫ったのが下旬である。信長は三千の援兵を送り、「戦ってはならぬ」と伝えた。だが、家康は目の前を武田軍が通過するのを看過できなかった。短気な家康は突出し、三方原で戦いを仕掛けて無惨な大敗を喫した。

●長篠の合戦(天正三年五月) 「強敵は遠くから鉄砲で殺せ」

 信玄の子武田勝頼は士気旺盛な強みの大将である。遠江高天神城、美濃苗木城を落として、意気盛んである。

1575年 五月、三河長篠城に攻めかかった。城将奥平貞昌は家康に報告し、家康また信長に救援を要請した。信長は麾下の諸将に鉄砲を集めさせ、足軽に丸太を担がせてやってきた。主戦場は連子川をはさんだ設楽原である。信長は丸太で馬防柵をつくり、鉄砲足軽をずらりと並べた。その数三千挺。兵を柵内に止めて討って出ない。

 一方、勝頼は海内無双の騎馬軍団で猛然と突撃してきた。一斉に鉄砲の火が吹き、武田軍はバタバタと倒れた。勇猛な山県昌景、原昌胤、内藤昌豊らの諸将は、敵兵と槍も合わせることなく、名もない足軽の射手の銃弾に撃ち抜かれた。死者一万といわれ、勝頼はわずか六騎で甲府へ逃げ去り、二度と立ち上がれなかった。鉄砲の集中使用という信長のアイデアの勝利であった。

 

●石山本願寺の合戦(天正四年~八年) 「鉄の大船で海戦を制す」

 1576年、信長は琵琶湖畔に安土城を築城した。

この年、石山本願寺が毛利輝元と結んで、積極的に敵対した。背後には備後鞆ノ津に居住する義昭がいる。信長はいよいよ一向一揆の総本山・石山本願寺と本格的戦争となった。本願寺には雑賀衆が加わり、その鉄砲の射撃術に織田軍はしばしば苦杯をなめた。信長は付け城を築かせ、兵糧攻めにした。が、毛利水軍は木津川河口で織田水軍を撃ち破り、難なく兵糧を運び入れた。敗因は毛利水軍の巧みな操船技術と、焼玉、焙烙弾、火舟によるものであった。

1578年 七月、完成した鉄の大戦艦を木津川河口に待機させ、こんどは来襲した毛利水軍六百隻を壊滅させた。雑賀衆が信長に降り、兵糧調達も困難になった石山本願寺は、1580年 八月、天皇の勅命によって信長と和睦(実体は降服)し、顕如上人は紀州鷺の森へ退去した。

 

●本能寺の変(天正十年六月) 「ビジョンなき光秀の三日天下」

1582年 三月、信長は甲州へ出陣し、武田勝頼を攻め滅ぼした。武田討伐の理由があるとしたら、長年かれのために律儀に尽くしてくれた家康に対する「はなむけ」であろう。その家康が御礼言上に安土へやってきた。五月十五日のことで、信長は光秀に供応役を命じた。

 折から、備中高松城を水攻めしている秀吉から救援の要請がきた。高松城の後詰に毛利の全軍が出てきた。信長は〃天下布武〃の成否をかける一戦とみた。自ら出陣して総指揮をとるつもりで、まず光秀に出動を命じ、五月二十九日、僅かな手勢を率いて上洛、本能寺に入った。六月一日、信長は本能寺において茶会を催した。余裕というか、一瞬の油断が生じた。

六月二日早朝、光秀は本能寺を襲撃した。信長は近習に「何者か?」と問い、明智光秀の謀叛と聞くと、「是非もなし」と言ったという。まもなく本能寺に火焔があがった。革命児・信長の最期の瞬間だった。

●信長という革命児

性格

 信長の性格は、決して短気ではなく、じっと辛抱強く耐えることができた。その上、執念深かった。

 

人事

 浮浪人を集めて、戦闘専門の傭兵軍団を組織した信長は、徹底した実力主義、競争主義でどしどし出世をさせた。明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益らはみな出自も定かでない浮浪人であった。傭兵ならば「銭」の力で、いくらでも集めることができる。戦国の世は主家を失った武士や土豪、浮浪人をたくさん輩出したのだ。信長の旗印「永楽通宝」が、なによりも銭の軍団・織田軍を表徴している。

 

軍事

 信長軍の兵は弱かった。弱兵ならば鉄砲で遠くから敵を撃てばいい。一発必中の鉄砲名人は不要だ。百挺の鉄砲で十発当ればよく、一千挺の鉄砲ならば百人を殺せる。これが信長の思考回路である。

 

 

 

0 コメント

2016年

9月

16日

20160916

neco論で経済 第10回

 

  フィンテック

 

日本のフィンテック投資は大きく立ち遅れている。

コンサル会社アクセンチュアが世界のフィンテックベンチャーなどへの投資額を集計したところ、15年の世界の投資額は過去最高の222億6500万ドルで、14年の約2倍に拡大した。

国別では米国が全体の約6割を占めた。2位はタックスヘイブン(租税回避地)の英領バミューダ諸島の20億ドルで、以下、中国の19億7千万ドル、インドの16億5千万ドルと続き、日本はわずか6500万㌦。

ビットコインは通貨の発行上限を2100万BTCに抑えている。

09年にサトシ・ナカモトが考案。金兌換(だかん)券に似せて、発行限度額を設定。世界の利用者は1400万人とされる。

ビットコインは、銀行口座の「預金」と違い、その価値を認めあう所有者同士のみの決済手段として有効。値上がりを狙う投機家も。

 

ブロックチェーンは金融機関の生命線である「信頼できる台帳」の実現を可能にする技術。その要件は。

①取引データの適正、整合性の確保(資金の出入り、付け替え、残高管理)

②不正取引、改ざんの防止(セキュリティ)

③いついかなる時でも円滑に利用できる(利便性、安定性)

 

金融機関はこれまで、この要件を持続的に保証するため、勘定系のシステムに莫大なコストを費やしてきた。ブロックチェーンは極めてシンプルな手法で、「信頼できる台帳」の維持管理コストを劇的に削減する。「host(server)-client」型の大規模な金融ネットワークの支配構造を根底から変えてしまう可能性を持っている。

 

■大企業、公的機関などなどが抱える大規模システムを無用の長物にする可能性は大きい。

 金融機関は勘定管理コストを劇的に引き下げるシステムを研究中。

 電子取引を介在するマッチング業者(アマゾン、楽天など)を不要にする。

 いつでもどこからでもデータの受発信をというIoTの特性を活かして、少量で多発す

る取引を処理する際に、分散管理システムが威力を発揮。例えば米UJO社は音楽著作料を利用者が著作権者に直接支払う仕組みを開発。IBMとサムスンは洗濯機の洗剤の使用状況を常時監視し、補給時には自動決済で補充するシステムを開発中。

 

■ブロックチェーン技術の応用範囲。経産省が予測する潜在市場は67兆円。

サプライチェーン:原材料から製造過程、流通、販売までを一貫してブロックチェーンで管理。1つの製品の製販に関わる全ての工程を統一IDで管理し、各工程に関わる事業

者すべてがリアルタイムで各段階の在庫状況、不具合など、全体のフローを把握できる。

 

契約取引:企業間の取引で取引に関わる複数社の基本台帳を生成し、相互にチェック。

 

C2C:個人間のネット売買など、不特定多数が行う商取引をカバー。最大のポイントは個人認証。ガイアックスなどVB8社は従来ホストサーバーに掛けてきた莫大なセキュリ

ティ費を軽減するため、ブロックチェーンを応用したスマホ向け認証アプリを開発中。

 

仮想通貨の特徴

①通常のネット環境があればコストをかけないで店舗に支払決済システムを導入できる。

②資金移動は誰から誰に金が動いたか、分散された元帳に履歴を残すことで実行される。

③個人、業者の区別なく、参加者が相互に送金できるなど、自由度が高い。

 

電子マネーの特徴

①非接触型のICカード(ソニーのフェリカなどの書き込み・読み取りシステム)を利用して、円など通常通貨による決済機能を提供する。

②単一の発行体(TTP)が全ユーザーの残高を管理。

③TTPとしては、流通系が販促と顧客囲い込みのツールとして、交通系が小銭取り扱いの排除、路線乗り継ぎ時の自動精算システムとして、それぞれ普及。

③プリペイド方式(交通・買い物カード)と後払い方式(預金引き落としなど)がある。

 

ポイント集めが市民権を得る時代に

 普通預金の利率は0.001%、定期預金でも0.01~0.03%に対し、電子マネーのポイント

制度は100円の購入で1ポイント(1円)以下が相場。キャンペーンでは3~5%も登場、ポ

イントの共用性が高まるほど、事実上の値引きに近い効果が出てくる。

 となれば、預金するより実質的な“利回り”ははるかに高い。電子マネーの場合、入金の手間をかけても、メリットがある。新生銀行が振り込みやATM利用にTポイントを付ける、などの動きも出てきた。

 

■電子マネーのスマホ決済の仕組み

スマホ本体をかざす方式(お財布携帯):

スマホに内蔵したICチップの情報を読み取って決済する。NTTドコモが04年に携帯電話に非接触ICカード機能(Felica=電波による双方向通信)を搭載したのが先駆け。

 

スマホの画面を見せる方式:

専用の読み取り機が不要なので店舗が導入しやすい。利用者がスマホのアプリで「QR

コード」を表示、店側がタブレットでコードを読み取って利用者を識別。アリペイ(中国)はこの方式で年200兆円を決済。

 

■グーグルが電子決済サービス「アンドロイドペイ」を16年秋に開始。

 

■9月16日に発売する新型「iPhone7」にお財布携帯のフェリカ機能を搭載、まず10月から「スイカ」の電子マネー決済ができるようになる。JR東日本がアップルに技術協力して実現。

 

■公共料金、通販代金など各種の請求内容をスマホにバーコードの形で表示。コンビニに備えた読み取り機にコードをかざすだけで決済が。収納用紙をなくすことで決済や集金の手間を省く狙い。 コンビニ3社で扱う収納案件は年間で8.6億件、9兆円弱にも上る。ペーパレス化による作業合理化効果は大きい。

 

0 コメント

2016年

9月

03日

20160903

 

第15回 あつ子の料理教室

       ”料理で happy !”

 

9月の料理メニューは、ドライカレー、豆腐と大根のサラダ、フルーツ・ヨーグルトかけと太巻き祭りずしです。

 

今回の太巻き祭りずしの絵柄はわかるかな?

正解:サザエです。

 

料理は楽しく、おいしく、がモットーのあつ子先生とのおしゃべりも、楽しみの一つ。作った料理を味わいながらのトーク、会員の職業がバラバラなので、未体験の職場の話しで盛り上がっていました。

 

0 コメント

2016年

7月

21日

20160721

neco論で経済 第9回

 

「英国EU離脱のインパクト」

              望月直躬

 

2016年6月23日のイギリスのEU残留・脱退を問う国民投票で、脱退派が約4%ポイント上回り多数をしめ、全世界がその結果驚いた。

 

91年の冷戦終結後、世界を突き動かしてきたプリンシプルは、グローバル化とナショナリズムだった。

矛盾する2つのベクトルが相容れないところにまでヒートアップしてきたのが、近年の世界情勢だ。

グローバル化がもたらした先進世界での格差拡大に、民族紛争や移民問題などが重なり、事態は複雑化。

トランプ氏の異様な台頭ぶりもその縮図の一つだが、

Brexitは半世紀もかけて積み上げてきた欧州の構図に現実的な転換を迫るだけに、収拾策が注目される。

 

 

EUは域内分業が深化。

◆EUでは当初は地域特性に応じた産業間分業が進展すると予想していたが、逆に同一産業内での水平的、垂直的な取引が進行。

◆域内では産業内貿易が約60%を占め、内訳は垂直的な取引が水平的な取引を上回っている。自動車メーカーなどが域内にサプライチェーンを広げてきたことを物語っている。

◆とりわけユーロ導入以降、域内での為替取引リスクが解消されたことで、企業のアウトソーシングが国境を越えて域内に広がり、これが産業内貿易を膨らませた。

 

統一通貨、ユーロ(28カ国中19ヵ国で導入)の問題点

 ユーロ体制下では多国間協定で金融機関の資産状況を管理する体制を敷いているため、各国の金融機関はこれを遵守しようと財務体質には過敏。いったん事が起こると、欧州経済の信用収縮が増幅されやすい。

 ユーロ圏の中央銀行は国をまたがっているため、国情に応じたきめ細かい金融政策が難しく、財政政策と組み合わせた機動的な景気対策も取りにくい。

 

通貨に国の実力が反映されにくい。

 生産性の格差や財政共通化を棚上げにしたまま金融政策だけ一本化した。ユーロという通貨システムの設計に無理がある。

 ドイツにとってユーロは割安なレートになるし、ギリシアにとっては実力以上の水準に。通貨が持つ自動調節機能が減殺され、生産性が低くても一種の隔離状態のように温存されてしまう

 

英国が不満を募らせたEUのくびき

 

■『単一市場』の見返りに『移民の自由』を規定

英国は域内の国境審査を廃止した「シェンゲン協定」に加盟していない。しかし、EUは自由な移民の受け入れを基本原則として貫いており、英国も職を求める移民を拒めない。

■EU法とEUの財政構造(国家主権と財政負担)

英国内でEUへの不満が高まった要因として、EU法と財政負担が指摘されている。

EU法は原則として加盟国の国内法より優先される。例えば「労働時間指令」は週間労働時間の上限(時間外を含めて48時間)や年次有給休暇(4週間)などを定めている。食品や環境規制などの分野でも細かな規制、指令があり、これが英国人の感情を逆なで。

EU予算は原則、経済規模に応じて各国が負担。加盟国のインフラ整備などに充てる。14年に英国がEUに払った拠出金は約140億ユーロ(約1兆5600億円)。一方、英国への分配金は約70億ユーロと、純給付額が最大のポーランドに比べて半分以下だ。

160622 みずほ総研リサーチ

 

重大な選択を国民投票に委ねたキャメロン首相は無謀な賭けに負けた。

 保守党内の離脱派を抑え込む目的で、13年に国民投票の路線を打ち出した。

15年の総選挙での圧勝を受けて投票実施へ。

 16年2月には国民投票に備えて、EUとの協議した。一定の譲歩を取り付け、EU残留の条件を整えたはずだったが、結果は敗北。

 

EU法によると、

離脱国は通告から2年間経つと自動的に加盟国としての権利、義務を失う。 従って、2年内に離脱交渉がまとまらなければ、英国は各国と直接新たな交易交渉を結ばなければならなくなる。

 

メイ首相は16年中には離脱通告はしないと明言。

メイ氏は事前交渉を含め、「移民制限」と「EUの単一市場への参加」の両方を勝ち取りたい考え。だが「いいとこ取りは許さない」(メルケル独首相)というEUの硬い姿勢を突き崩すのは難しい。

 

EUに加入しないモデル

<ノルウェー方式>

★欧州経済領域(EEA)に加盟 メリット:物品やサービスを関税なしにEUと輸出入できる。人の移動は制限なし。 デメリット:EUの分担金や移民の受け入れ。

<スイス方式>

★EUと120以上の個別協定を結ぶ

メリット:一部を除く物品を自由に輸出入できる

デメリット:分担金、EU規制の受け入れ。金融サービスの取引は制限。人の移動制限なし。

<トルコ方式>

★EUと関税同盟

メリット:EUへの工業製品の輸出は関税ゼロ

デメリット:農産品やサービスの輸出は自由化の例外。人の移動の自由は制限あり。

<カナダ方式>

★自由貿易協定を結ぶ メリット:100%近い関税の撤廃率 デメリット:個別条件の積み上げで、交渉が10年単位になる可能性。人の移動は制限あり。

 

英EU離脱がもたらした不安は、リーマンショック時に似た円高を呼んでいる。

 投資家の不安心理が「安全通貨」としての円買いを誘い、日本経済の実体に関わりなく円高が進んでいる。

 今年年初、中国経済の成長鈍化、米金融緩和策の足踏みなどをきっかけに、それまでの円安基調が円高地合いへと転換した。英のEU離脱はこれに追い打ちをかける材料に。リーマン時のような深刻な金融リスクはまだ見られないが、先行きの不透明さに市場が過敏になってきている。

0 コメント

2016年

7月

19日

20160719

第61回 温故塾

         2016年7月19日

「家康と16武将」

 

仏教由来の”四天王”など数字を用いた表現が良く使われる。こうした風潮は古来、和歌や学問などさまざまな世界にももちいられており、つまり、ある同時代に活躍した偉人・英傑をある数字で括り、人々の記憶に印象づけるという意義であったろう。

”四天王” : 須弥山の中腹で、東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に多聞天王が住み、この〃四天王〃が仏法を守護している。

さて、徳川家の家臣はどう呼ばれていたか?

 

”四天王” と呼ばれる家康の家臣は、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政。

”三傑” は、井伊直政、本多忠勝、榊原康政。

 

”家康十六武将” は”四天王”に、内藤正成、高木清秀、蜂屋貞次、服部半蔵、渡辺半蔵、米津常春、鳥居元忠、鳥居元春、松平康忠、大久保忠世、大久保忠佐、平岩親吉の十二人を加えたもの。

 

人数を揃えて偉人・英傑を称賛するのは、海外を問わず、実に数多い。戦国時代に限れば、武田二十四将、尼子十勇士、賤ケ岳七本槍、上田七本槍、小豆坂七本槍などである。

 

 しかし、このような数合わせて人物を列記すること自体、とうぜん無理が生じる。数合わせでは、実態の分からない人物や活躍した時代がズレている人物なども入っているし、決してこれらを鵜呑みにはできない。

 

 さて、家康をめぐる十六人の武将型臣僚はどうであろうか。武将型というから、謀臣の本多正信・正純父子は入っていないし、本多重次、天野康景、高力清長の三奉行(仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野康景)も入らない。

 

 

酒井忠次 大永7~慶長1(1527~1596)

 忠次は家康の父広忠に仕え、その妹碓井姫を娶った。広忠の死後、今川義元の人質となっていた竹千代(家康)に近侍し、永禄三年(1560)家康が岡崎城に入り自立すると家老となって補佐した。永禄六年の三河一向一揆などに力戦し、翌年三河一国を統一すると吉田城主となり、東三河の諸士の旗頭に任ぜられる。

 忠次はさまざまな合戦で戦功を挙げたが、外交にも政治力を発揮した。今川家没落後の遠州経略では諸豪を徳川傘下に集めたり、天正十三年に、宿将の石川数正が秀吉の許へ奔るまで、忠次と数正は、家康の両翼として徳川家を代表する家臣であった。

 

忠次には有名なエピソードがある。

 天正七年、信長から家康の嫡子信康の謀叛が疑われたとき、安土に赴いた忠次は、なぜか弁明しなかった。結果、信康は自刃させられるのだが、家康はそのことについて、ずっと沈黙してきた。

 天正十八年、関東入りした家康が、忠次の子家次に三万石を与えたが、忠次は不満で、さらなる加増を願ったところ、家康は、「おまえでも、わが子が可愛いのか」と言ったという。

 忠次が信長に弁明しなかった理由は、若い信康と旧臣たちの確執があり、信長の謀叛の疑いに積極的に抗弁する気はなかったようだ。いわば、徳川家内部の問題でもあったのだ。

 

本多忠勝 天文17~慶長15(1548~1610)

 通称を平八郎。永禄三年に十三歳で初陣。以後、五十七回の合戦に出陣し身に傷痕を止めなかったという徳川家随一の猛将。十九歳で騎士五十人を付属せしめられたほどの逸材で、戦功は数え切れない。姉川、三方原、小牧長久手合戦における奮戦振りは、敵方にも轟きわたり、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称えられた。

 

 天正十年三月、武田家が滅亡し、信長は甲州から南下して駿河へ出て、東海道を西上して天竜川を渡河するとき、忠勝を招いて戦功を賞美し、侍臣を振り返って、「これは三河の本多平八郎という花も実も兼ね備えた勇士である」と紹介した。まさに忠勝一代の名誉であった。

 

 天正十八年八月、家康の関東入国後、忠勝は上総大多喜十万石を与えられた。これは榊原康政と同列で、この両将を超えたのは上野箕輪十二万石の井伊直政だけである。

 

榊原康政 天文17~慶長11(1548~1606)

 榊原氏は、伊勢壱志郡榊原村に興り、康政の祖父清長が松平広忠に仕えたというから岡崎譜代になる。康政は初名を小平太、叙任を受けて式部太輔。永禄三年、大樹寺(松平家菩提所)において家康に拝謁し、この時から側近として仕えた。

 永禄六年、十六歳で一向一揆の平定に初陣し、元康(家康)の一字を貰って「康政」を名乗った。つねに先陣に立ち、姉川、三方原、長篠、高天神の戦に従軍して戦功を挙げ、本多忠勝と並び称される猛将だった。

 

 天正十二年の小牧長久手合戦では、敵の士気を挫くべく秀吉弾劾の「檄文」をバラ撒いた。いわく、「秀吉は野人の子であり、信長公の恩寵によって大封を得たのに、信長公卒するや忽ち主恩を忘れ、先に信孝公を殺し、今また信雄公と干戈を交える。まことに大逆無道の振舞いである。秀吉に従うものは、みな義を知らざる者なり」という内容だった。秀吉はこれを聞いて激怒し、「康政の首を斬った者は、恩賞は望みしだいである」と陣中に触れ回した。

 

 御家人の忠勝、康政に知行が少なかったことを憤っていたらしい。晩年、病床にあった康政に家康から見舞いの上使が来たとき、蒲団の上から下りもせずに、「康政は腸が腐って、やがて死すると言上してくれ」と素っ気無かったが、秀忠からの上使には、蒲団を下りて礼服に着替えて深く御礼を述べたという。

 

井伊直政 永禄4~慶長7(1561~1602)

天正三年二月、家康が鷹狩りの際、浜松城下の路辺で直政を見つけ、召し連れて家臣(小姓)にしたという。直政十二歳だった。

 初陣は翌年二月の遠州芝原で武田勝頼と対陣したときで、軍功を立てたという。天正九年三月の高天神城戦では、直政は間諜を忍ばせて水の手を切落とし、軍功をあらわしたという。どうも家康のお気に入りだったようだ。天正十年六月、本能寺の変後の伊賀越えにも扈従しており、岡崎へ帰着後、その功労を賞されて孔雀の尾で織った陣羽織を与えられている。

 

 直政の活躍はこれ以後、ますます大きな働きを示す。武田家滅亡後の旧臣百二十名を配下に加えられ、甲冑・旗槍を赤一色で統一された。この年、兵部少輔を称する。天正十二年には井伊谷三人衆(菅谷忠久、近藤秀用、鈴木重時)を配属になる。徳川家の先鋒の家柄とされるのは、この頃からであろう。

 天正十八年、関東入国後は上野箕輪城十二万石。慶長三年には和田へ移り高崎城と改称した。関ヶ原の功により、近江佐和山で十八万石を与えられたが、慶長七年二月、関ヶ原の戦傷がもとで死去。四十三歳だった。

大久保忠世 天文1~文禄3(1532~1594)

 大久保家は岡崎南方の上和田を本拠に勢力を伸ばした一族で、子孫は繁栄し分布した。大久保彦左衛門の『三河物語』に「代々、野に臥し、山を家として、かせぎ、かまり(物見)をして、たびたびの合戦に親を討ち死にさせ子を討たせ、伯父・甥・従兄弟・又従兄弟を討ち死にさせて、御奉公を申上げ……」とあるように、大久保党は粉骨砕身、終始主家を裏切らず、家康の天下覇業に邁進した。

 

 忠世を中心とする大久保党の戦功はめざましく、長篠合戦では忠佐と共に信長から大いに賞されている。天正十二年の小牧長久手合戦にも戦功を挙げたが、その後は武将型というよりも、信濃経略などに政治力を発揮した。天正十八年、小田原城四万五千石の領主となり、文禄三年九月、六十三歳で死去。

 

内藤正成 享禄1~慶長7(1527~1602)

通称を四郎左衛門。甚五左衛門忠郷の二男。弓矢の達人で数多くの戦功をあらわした。金崎城攻めの退陣の途中、六本の矢で六人の敵を射殺し、高天神城攻めでは一本の矢で二人を倒した話が伝えられる。  関東入国後、武蔵埼玉郡内で五千石の所領を与えられ、慶長七年四月、七十六歳で歿した。典型的な武将型家臣だった。

 

高木清秀 大永6~慶長15(1526~1610)

 

 服部半蔵 天文11~慶長1(1542~1598)

半蔵は通称で名は正成という。父の半三保長は足利義晴の臣だったが、三河に来て松平清康・広忠・家康の三代に仕えた。先祖は伊賀国服部郷を領する服部氏の一族。正成は家康と同年であった。半蔵は弘治三年、十六歳で伊賀の忍びの者七十人を指揮して戦功をあげたが、むしろ、豪勇の士として知られ、〃鬼の半蔵〃と称されていた。

天正十年の本能寺の変後、家康一行は危険で難路の伊賀越することになり、半蔵が案内を勤めた。半蔵は甲賀、伊賀の地侍に呼びかけ、家康を護衛して、加太峠を越え、無事に伊勢の白子浜へ抜けた。危地を脱したのは、甲賀衆・伊賀衆のおかげだった。かれらはのちに徳川家に召し出され、伊賀郷士二百人に千貫の禄を与え、半蔵をその頭領とした。これが〃伊賀組〃の起こりである。

 慶長元年十一月五十五歳で歿。知行は八千石だった。半蔵には正就、正重の二子があったが、正就は大坂の夏陣で戦死し、正重は過失があって改易された。

 

渡辺半蔵 天文11~元和6(1542~1620)

 通称を半蔵、忠右衛門といい、名は守綱である。弘治二年以来、家康に仕えて数々の功名を挙げた。永禄五年の三河八幡合戦で槍先の功名著しく、〃槍の半蔵〃の異名を得た。

 天正十八年、関東入国後、武蔵比企郡(東松山市野本)で三千石を領した。

 〃槍の半蔵〃は関ヶ原合戦の五十九歳まで、足軽頭であった。勇武絶倫というか、個人的勇気で政治性がないところが、単純でサバサバしている。鬼の半蔵の子孫の不運に比べて、槍の半蔵の子孫は幸せであり、和泉伯太一万三千五百石の小大名として明治維新を迎えている。

 

鉢屋貞次 天文8~永禄7(1539~1564)

平岩親吉 天文11~慶長16(1542~1611)

 

鳥居元忠 天文8~慶長5(1539~1600)

 慶長五年の関ヶ原合戦では、松平家忠らと伏見城に籠城し、同年八月、同地で戦死した。いわば関ヶ原合戦の勝利の捨石となったのである。

 

鳥居直忠 (生没年不詳)

米津常春 ?~慶長17(~1612)

 

0 コメント

2016年

6月

16日

20160616

第8回 neco論で経済

 

消費増税再延期と財政規律

 

6月16日 望月さんからレジュメに基づきテーマに関する解説が行われた。

 

テーマに興味を持った女性たちも参加し、活発な意見が交わされました。

消費税延期に賛成の人はわずかで、女性も含め反対の人が多数だった。

やはり気になるのは、1000兆円を超える国の借金と社会保障の行方でした。

 

・安倍首相は5月末に開かれたG7『伊勢志摩サミット』で、右のグラフを使い「世界経済にはいま、リーマン・ショック時に近い危機が迫っている」と主張した。しかし、参加首脳の多くからは明確な賛同は得られなかった。

 

・『社会保障と消費増税の一体改革』というこれまでの基本線が崩れる。

政府は2020年に国家財政の収支を均衡させる(国債依存をゼロに)目標を掲げ、税制改革と社会保障の見直しを進めてきた。歳入面での柱は安定税源となる消費税の引き上げ。

 

・社会保障の問題は世代間対立の問題ではなくなってきている。 厚労省の試算によると、年金制度に手を付けないまま放置すると、年金会計は50年には600兆円以上の赤字になる。 試算によれば、崖っぷちにある年金制度を2050年までもたせるには、支給額を42%カットするか保険料を35%引き上げるしかないという。

 

・EUが定めている財政規律

①年間の財政赤字をGDPの3%未満に。

②公的債務残高をGDPの60%未満に

 

・政府の骨太の方針では、「第4次産業革命」の項目にかなりの紙幅が割かれ、新ビジョンの目玉と位置付けられている。

第4次で総称される戦略は、インターネット・オブ・シングズ(IoT)やビッグデータ、人工知能(AI)など、最新のICT(情報通信技術)を動員して産業の活性化を図り30兆円を生むという着想。

 

主戦場はデータの収集と処理をめぐるグローバルな競争になる。日本の強みとする健康・医療、FA(自動製造・管理)のほか、最近は自動運転、建設や鉱山作業の無人化などに脚光が。

産業別にみると、ICT「を駆使した製造業のサービス化、サービス業の高度化により、雇用力が高まると見込んでいる点が目新しいところ。

 

0 コメント

2016年

6月

13日

20160604

第11回 あつ子の料理教室

       ”料理で happy !”

やりました!

  ついに1組決まりました!!

 

 結婚が決まった二人が、やって来て、あつ子先生に、幸せ一杯の報告。

独身者限定で始めた料理教室の目指すものが、初めて実現しました。あつ子先生大喜びで、料理教室が始まりました。

6月の料理メニューは、

とりもも肉と野菜のエスニック蒸し、

マグロのつみれ汁、

アイスクリームのいちごシロップかけ、太巻き祭りずしです。

 

久しぶりに参加したメンバーも、手際よく料理を作っていました。

海外で日本の料理として、太巻き祭りずしを紹介したいと話していたメンバーもいて、真剣に学んでいます。

 

料理は楽しく、おいしく、がモットーのあつ子先生とのおしゃべりも、楽しみの一つ。今回はデザートもあり、コーヒーを飲みながら話しが弾んでいました。

 

1 コメント

2016年

4月

21日

20160421

第6回 neco論で経済

「Internet of Things 」

 

モノのインターネットは、どこまで広がっていくのか?をテーマに、望月講師より、資料に基づいたプレゼンが行われた。インターネット環境の歴史をたどり、現在のネット環境を活用した、事業会社の戦略を解説した。

Tワールド:すべては情報のデジタル化から始まった。

 

ITワールドではあらゆる信号を「0」と「1」の符号に変換して伝送・処理する。

文字も音声も映像も、共通した“0と1のバイナリー信号”で表わすことにより、表現形

態の区別なく、同時、並列的に横一線で処理、加工できる。

 

⇔アナログ信号ではそれぞれに相い容れない排他的な表現・処理技術。

 

IoTって、ふつうのITとどこが違う?

 

1.物理的には通信ケーブル(有線)のくびきから解き放たれる。

データのやり取りは無線が基本。公衆無線電話回線、WiFi(無線LAN)、Bluetooth(赤外線通信)などを状況に応じて使い分ける。

 

2.どんなデバイス(装置)にもほぼ無制限にアドレスを付けることが可能。

IP(インターネットプロトコール)がIPv4(125.065.022.001)からIPv6に進化したため、アドレス・ソースが飛躍的に拡大。

 

3.どんなデバイスでも高度な情報処理機能を持つコンピューターと直結。

(貧しい)自前の情報処理機能を備えたスタンドアローン(自立型)の装置に代えて、ネットワーク上で飛躍的に高度な演算能力を持つ機器と直結。

 

IoT(モノのインターネット)展開を活用基盤から整理すると

 

サプライチェーン (素材・部品から組み立てまで製造工程をつなぐ。)

•ドイツのインダストリアル4.0(水平、垂直両方向の情報化を統合)

•オムロン(工場内の全制御部品をIoT化、通信機能を付ける)

•米シスコとファナック連携による工場の効率化。(ロボ+センサー)

 

デマンドチェーン (ユーザー企業の使用現場や流通末端とつなぐ。)

•GEのインダストリアル・インターネット。

•コマツのKOMTRAX(メンテ)、スマート・コンストラクション(オペレーション)。

•インテリジェント(知的)なPOS(販売時点管理)システム。

 

社会インフラ (公共・生活の場に広く浸透。)

•エネルギー効率を追求するスマートハウス、スマートシティ。

•医療情報システム。(検診・診断から治療までマイナンバー化)

•自動運転を頂点とする交通システム。

 

自動車もカーIoTに

インターネットに接続できる通信機能を備えた車。車両の状態を示すデータや周囲の情報を取得・分析して運転者への情報サービスを高度化。

すでに事故時の緊急通報、地図情報の更新などで実用化。

 

生活の場ではスマホが様々なIoT活用を媒介。

スマホの最大の強みは

①インテリジェント(情報処理機能)端末の機能

②遠隔と近接領域との両方の通信機能を兼ね備えている。

 

プライバシーに課題も!

 

日本は第4次産業革命で立ち遅れ鮮明

米国ではGEが数年前から「インダストリアル・インターネット」のコンセプトを製造業の核に据えると宣言。ドイツではSAPなどが11年春に「インダストリー4.0」を提唱、13年には産業各分野のリーダー企業、地方企業を巻き込んだ官民推進組織が発足した。

日本はといえば、日立、コマツなど先進的な有力企業の個別的な試みはあるものの、中堅・中小企業をすくい上げる産業界レベルの動きにはなっていない。

 

0 コメント

2016年

4月

19日

20160419

第58回 温故塾

「坂本竜馬暗殺の謎?」

 

●龍馬は何をしたのか? 

龍馬は天保六年(1835)十一月十五日、高知の豪商坂本直足の二男に生まれた。生家は才谷屋といい、金融業と質屋を兼ねた裕福な家庭であった。名は直柔、変名を才谷梅太郎と名乗った。

 

 

嘉永六年(1853)、十九歳になった龍馬は剣術修業を名目に私費で江戸に行き、北辰一刀流千葉定吉の門下となった。

 

当時の龍馬は尊皇攘夷の意志が強く、文久元年(1861)九月、武市瑞山を首領とする土佐勤皇党に加わり、翌年三月脱藩。九州各地などを遊歴して、八月江戸へ下った。幕府軍艦奉行の勝海舟を斬りに行き、反対に説き伏せられて門下生となった話はよく知られているが、その真偽はともかく、海舟に会って、龍馬が土佐勤皇党とその政治的傾向を異にしはじめたのは間違いない。

 文久三年、海舟に従って上京。神戸海軍操錬所開設の資金援助の使者に立つなど、海舟の手足として東奔西走した。

 

龍馬は塾頭として、操錬所の運営に当っていたが、元治元年(1864)十月、海舟が失脚し江戸へ召喚されると、同時に神戸操錬所の閉鎖を命じられた。そのため塾生を率いて長崎へ移り、海舟の斡旋で薩摩藩の後援を得て、「亀山社中」を結成した。この時点から、龍馬は独立独歩の道を歩み始める。

 

亀山社中は薩摩の汽船を長崎から鹿児島へ運航して人や物資を運んだり、伊予大洲藩の汽船いろは丸を借りて、長崎から大坂へ積荷を運んだり、さかんに海運業を行なった。その頃、諸雄藩は汽船を購入しても熟練の操縦者がおらず、亀山社中はどこでも歓迎された。龍馬は今でいう社長、経営者だったが、報酬は社中全員と同額の三両二分で、主な担当は諸藩から仕事をとってくるセールスマンだった。(武器商人グラバーの番頭ともいう)

 

土佐藩重役の後藤象二郎は、亀山社中を〃海援隊〃という藩の外部団体にしてくれた。

 これで脱藩浪人の集団が、晴れて土佐藩御用の看板で営業できることになった。海援隊は藩の海軍別働隊ではなく、藩御用の海運貿易商社のようなものであった。

 

龍馬は長州の中岡慎太郎と共に薩摩と長州の調停に奔走し、長州が必要とする武器弾薬を薩摩名義で亀山社中が購入し、これを長州へ運んで長州の米と交換するという商談を成功させた。

 

第二次長州征伐で幕府軍は敗北した。龍馬はこの頃から大政奉還の構想を描き始める。慶応三年六月、長崎から京都へ向う船中で、後藤象二郎に説いたのが、有名な〃船中八策〃である。後藤はこれを山内容堂に伝え、土佐藩の「大政奉還建白」案となり、将軍徳川慶喜がこれを受け容れて、同年十月十三日、ついに「大政奉還」の運びになった。

 

●龍馬暗殺犯人は誰か?

○見廻組説

今日の史学界では、坂本龍馬の暗殺は京都見廻組の佐々木只三郎らの犯行というのが定説になっている。

○新選組説

○薩摩藩説

○土佐藩説

 

いろいろな面から龍馬暗殺を追ってみたが、やはり、定説化している京都見廻組七人の犯行に落ち着く。

 見廻組は幕府の御家人から徴募したもので、武芸に秀逸な者が選抜されたという。つまり、会津藩預かりの新選組とは違い、最初から幕臣で構成した。四百名ぐらいいたという。鳥羽・伏見の戦いの「京都見廻組戦死者名簿」を見ると、佐々木只三郎は組頭兼頭取、三十三歳。渡辺吉三郎は肝煎、二十六歳。桂準之助は肝煎、二十八歳。高橋安次郎は伍長、二十七歳。桜井大三郎は見廻組並、三十三歳。土肥沖蔵も見廻組並、三十六歳とあって、今井信郎(二十六歳)のほかはみな戦死している。

 

今井はその後、古屋佐久左衛門と衛鋒隊をつくって東北各地で官軍に抗戦、明治二年、箱館五稜郭で降伏した。龍馬暗殺の自供はこの時である。今井は直接手を下さなかったので、禁固三年の刑となり、明治五年に赦されて静岡藩へ引き渡された。中條金之助らの牧の原開墾地に入り、一時静岡県に出仕したが、晩年は敬虔なクリスチャンとなり、榛原郡初倉村の村長などを務めた。  大正九年、七十八歳で没した。

 

 

 

 

 

 

0 コメント

2016年

3月

17日

20160317

3月のショッパーに載った昨年11月の写真
3月のショッパーに載った昨年11月の写真

第5回 neco論で経済

 

「グローバル化が促す内外の大型再編」

 

<望月講師の資料から抜粋>

2015年の世界のM&Aは前年比42%増、約4兆7千億㌦(約555兆円)と8年ぶりに過去最高を更新した。

 

ファイザーのアラガン買収は医薬業界で過去最大規模。ダウ、デュポンの経営統合も化学業界では最大規模。

2016年も、ゼネラル・エレクトリック(GE)が米家電事業を中国の海爾集団(ハイアール)へ54億ドルで売却すると発表。

 

日本企業の15年はイン・アウト型M&Aが活発に

東京海上HDは過去9年間で2兆円弱の海外M&Aを手掛けたが、うちHCCインシュアランスは最大規模。

旭化成は米スリーM社と連携し「共同分割案件」を実現。

 

ビールは世界1位のABインブベが2位のSABを買収。

世界のビール市場の約3割を握る巨大企業に。食品業界では過去最大のM&Aとなる。

インベブは北米や南米で高シェア、SABはアフリカ開拓で先行する。インベブはSABを傘下に収めることで、成長率を確保すると同時に、年14億㌦の経費節減効果を。

 

中国、国有企業の再編急ぐ

過剰設備を処理し経営効率を高めて、世界で戦える巨大企業を。

・15年6月、二大車両メーカーである旧・中国南車と旧・中国北車が合併し、世界の地下鉄シェアで5割を占める中国中車が誕生

・二大海運会社である中国遠洋運輸集団と中国海運集団を経営統合。世界4位の海運会社に。

 

日本の石油大手、再編相次ぐ見込み

JX+東燃ゼネラル 14兆3千億円  (2014年の売上を単純合算)

出光+昭和シェル  7兆6千億円

 

新日鉄住金が17年3月をめどに日新製鋼を買収。

鉄鋼大手は合併を繰り返し、JFEホールディングス との2強体制

 

ファミマ・ユニーが統合合意

コンビニは、セブンイレブン、ファミマ、ローソンの3極体制

 

日生、トップ死守へ再編策を繰り出す

日本生命は16年3月までに三井生命を買収し、子会社化。保険料収入トップの座を、第一生命から奪い返す見込み。

 

サントリーHDは海外企業の大型買収など、積極策が効果を挙げ、14年12月期の連結決算で売上高2兆4552億円と食品トップに躍進した。(キリンHDの同期は2兆1970億円)

0 コメント

2016年

3月

15日

20160315

2016年3月のショッパーに掲載された2015年の温故塾の様子
2016年3月のショッパーに掲載された2015年の温故塾の様子

第57回 温故塾

「修善寺物語」

 

2016年3月15日に行なわれた、温故塾は頼朝の嫡男頼家の悲劇、修善寺物語でした。北条氏の政権奪取の策謀で滅ぼされた、有力武蔵武士の比企頼員、畠山重忠の悲運の話でもありました。

 

『吾妻鏡』は北條氏が執権となり政権を簒奪したことを正当化するために編纂されたものであるから、ことさら頼家の誹謗の記事が多い。しかし、頼家は暗愚で凡庸な人物ではなかったようだ。

以下、今井敏夫塾長のレジュメ抜粋

 

<修禅寺物語・年表>

 

正治元年 1月、源頼朝死す。頼家、継嗣となる。

(1199)   4月、問注所相論の将軍直裁を重臣13人の合議制に改めようとした。

     10月、和田義盛ら、鶴岡八幡廻廊に参集し、梶原景時を弾劾する。

     11月、梶原景時一族、鎌倉を退去し、相模一ノ宮に閉居。

 

正治二年 1月、梶原一族、駿河清見関で地侍たちに討たれる。

(1200)   3月、北條時政、従五位下遠江守となる。

     12月、頼家、全国の田文(所領地の名簿)を出させて検討中であった

       治承・養和以後の恩賞地の下令を、三善康信が諫止した。

 

建仁二年 1月、頼家の鞠会を母の政子が中止させた。

(1202)   7月、頼家、従二位征夷大将軍に任ぜられる。

建仁三年 1月、将軍の世子一幡の鶴岡公式参拝に、巫女が憑依して、不吉な神

        託を下した。

     2月、北條義時らが扈従して千幡(頼家の弟)の八幡宮社参を行なう。

     5月、阿野全成(今若)が謀叛の疑いで捕われ、翌月誅される。

     6月、八幡宮の鳩の異様な死が続き、人々に不詳の前兆を抱かせた。

     7月20日、頼家にわかに発病した。頼家の病状が重態なので、卜筮が行なわ

                             れ、霊神の祟りとあった。

     8月27日、頼家の病中、全国の地頭職を分割して、一幡と千幡に譲るという

                             発表をした。

     9月2日、時政は仏会と称して比企能員を招き、これを謀殺。政子の命をうけた

                           義時その他の重臣らは、世子一幡の小御所を襲撃して、比企一族を

                           全滅させた。一幡とその母若狭局も死去した。

              9月7日、政子は頼家を落飾させた。同日、千幡に征夷大将軍の宣下があった。                   10日、時政は千幡を自邸に移し、外祖父として執権の地位を示した。

                15日、政子は義時に命じて千幡を父の自邸から取戻した。

            9月29日、頼家は伊豆修禅寺へ送られる。

           10月8日、千幡は後鳥羽上皇から「実朝」の名を賜って、元服式を行なう。

               翌9日、政所始めが行なわれ、時政は執権となる。

           11月6日、頼家の近侍者を召したい要求を政子は拒否、以後の文通を禁じた。

 

元久元年 7月19日、頼家は時政の命をうけた刺客団に殺害された。行年二十三歳
(1204)    

 

元久二年 6月22日、畠山重忠が謀叛の罪で、相模二俣川で討たれる。

 

●頼家の将軍就位

1199年1月13日、源頼朝が亡くなった。前年12月27日、相模川の橋供養(開橋式)の帰途に落馬したことが死因と言われているが、即死ではないし、日数も経っているのに遺言らしきものもない。その死にはやや訝しい点が無いでもないが、結局、狭心症か脳出血による急死と考えられる。

 18歳の頼家が家督(鎌倉殿)を継いだその年の4月、はやくも有力な御家人十三人が問注所相論(所領争い)の将軍直裁権を合議制に改めようとした。頼朝の在世中は不満ながらも承服していた重臣たちの強い意志表明であった。

 

●梶原景時の追放

 頼家は弓術にすぐれ、蹴鞠なども得意な覇気ある青年であった。その頼家の側近の梶原景時を追放しようという計画が起った。『吾妻鏡』によれば、1199年10月28日、三浦義村、畠山重忠、和田義盛、結城朝光、小山朝政ら多くの御家人らが鶴岡八幡の廻廊に集り、梶原景時弾劾の決議し署名を行なって、新将軍頼家に訴状を提出した。

梶原は御家人たちの圧迫に耐えかね、鎌倉を引き払って所領の相模一ノ宮(神奈川県高座郡寒川町)へ引揚げた。さらに翌1200年1月、梶原景時、景季らは一族を率いて上洛を目指したが、途中、駿河国清見関(静岡市狐ヶ崎)で地侍たちの襲撃をうけ、全員戦死を遂げた。

 

●北条氏の不安

北條時政は、頼朝が伊豆流罪になった当初からの庇護者であり、また頼朝の妻政子の実父であった。当然ながら鎌倉幕府内でも隠然たる勢力を持っていた。しかも、将軍頼家・千幡の外祖父であり、時政とその一族の勢力は盤石で、少しのゆるぎないものに見えた。

 ところが、北條一族にとって大きな障害があった。頼家の妻・若狭局の実父の比企能員の存在である。能員は頼朝の大恩人比企尼の甥であり、頼家の正嫡一幡には外祖父にあたる。頼家に万一のことがあれば、この一幡が三代将軍となる。とすれば、北條一族はその政治基盤を縮小されかねず、比企能員が外祖父として台頭してくるのは間違いない。時政・義時父子はやがてやってくる北條一族の危機を感じた。これに対抗するには頼家と一幡を排除し、頼家の弟千幡を擁立するほかにない。

 

1203年8月27日、頼家危篤につき、全国の惣地頭職を分割し、関西三十八ケ国の地頭職を千幡君(11歳)に譲り、関東二十八ケ国の地頭ならび惣守護職を一幡君(6歳)に充てると発令した。これに外祖父比企能員が秘かに千幡に譲られたことを恨み、千幡と彼の外家(北條氏)に叛逆を企てようとした、と『吾妻鏡』にある。

 

●比企一族の滅亡

 1203年9月2日、時政は仏像供養にことよせて比企能員を自邸に招いた。能員は敵対関係にある時政の招待に危惧したが、まさか仏像供養に於いて、暗殺するような振舞いはないだろうと、わずかな従者を連れて名越の時政邸を訪れた。門を入るやいなや、能員は待構えていた天野遠景、仁田忠常らに左右の手を押えられ、たちどころに殺害された。〃能員討たれる〃との報せを聞いた比企一族や郎党は、一幡君御所(小御所・比企ケ谷)に立て籠もった。すかさず、これを謀叛だとして、尼御台所(政子)の命令で追討軍が押し寄せた。

 防戦一方の比企方はついに力およばす、「舘に火を放って各(おのおの)若君の御前に於いて自殺す。若君も同じく此の殃(わざわ)ひを免れ給わず」(『吾妻鏡』)と、一幡も母の若狭局とともに亡くなったとある。能員の与党も探し出されてことごとく滅ぼされた

 

●頼家の弑逆

 1203年9月29日、頼家は伊豆修禅寺へ送られた。10月8日、千幡は後鳥羽上皇から「実朝」の名を賜って元服式を挙げた。翌日、実朝の政所始めが行なわれ、北條時政が執権となった。すべてが、北條氏の思惑通りに進んだが、修禅寺の頼家の存在が目障りである。

翌1204年7月19日、時政の命をうけた刺客団が浴室にいた頼家を襲った。

 

●畠山重忠の討滅

 京都守護職平賀朝雅と畠山重保(重忠の子)が酒宴の席で争いにおよんだ。朝雅は時政の後妻・牧の方の娘婿であり、また重忠の妻は時政の先妻の娘婿であった。争いの原因は不明だが、朝雅が牧の方に訴え、牧の方はこれを畠山重忠らの謀叛であると時政に讒訴した。

 

1205年6月20日、畠山重保が武蔵国から鎌倉へ出てきた。招き寄せたのは稲毛重成であった。22日、早朝から鎌倉中は大さわぎになった。将兵たちが謀反人を殺すのだといって、先を争って由比ガ浜方面へ走って行く。重保主従も何のことかと由比ガ浜に向ったところ、突如、時政の命をうけた三浦義村の兵に取り囲まれた。そこで、重保もはじめて謀反人が自分たちのことと知って驚いた。奮戦したが、多勢に無勢、主従とも殺されてしまった。

 畠山重忠は19日に菅谷の舘を出発し、この日、相模二俣川に着いたところであった。そこへ義時・時房以下の葛西清重、和田義盛の大軍が押し寄せた。重忠は百三十騎位しか引き連れていない。

 討伐軍の先陣は安達景盛であった。愛甲幸隆の射た矢が重忠に命中し、乱戦の中、重忠は首をとられた。時に四十二歳だった。

 

 こうして重忠父子は無実の讒言によって殺された。翌日、重忠父子を鎌倉へ呼寄せた稲毛重成が討たれている。そもそも、この事件は平賀朝雅が畠山重忠に遺恨があり、牧の方に讒言したので、時政が重成を語らって、鎌倉に変事が起きたと手紙で知らせてやったので、重忠が出てきて途中で非業の最期をとげたのである。

 

武蔵国惣地頭職・畠山重忠は、河越重頼、比企能員亡き後、武蔵国最大の豪族であり、その武功・人格とも傑出して評判もいい。北條氏が鎌倉執権として御家人層を支配下に置こうとするには、有力者重忠の存在は大きな障壁であった。また、畠山氏を除けば広大な武蔵国を手中に出来るし、相模国と鎌倉は安泰となる。重忠の討滅は、時政、政子、義時の北條一族が仕組んだ政治的謀略なのである。

 

 この後、政子・義時は父時政と牧の方を伊豆北條に幽閉し、平賀朝雅を京都で誅殺している。

 

 

 

0 コメント

2016年

2月

17日

20160217

第4回 neco論で経済

「今後の自動車業界」

 

テーマの自動車を始める前に、年明けから株、為替の乱調、マイナス預金金利と話題が多いので、まずそこから話を始めた。

 

下記講師資料から抜粋(日経新聞記事からの転載あり)

 

16年年初来の国際マーケット不安を受けて、円・株市場が大揺れ。

①中国経済の減速を映して上海の株価が大きく値崩れ。

②ブラジルなど新興国も景気後退、通貨安で世界経済のけん引力が弱体化。

③中東地域の政情混迷と原油価格の大幅下落。

⇒アベノミクスの2枚看板だった「円安・株高」に異変。

⇒日銀、追加の金融緩和策で歯止めを!!

 

 

第1次所得収支の増加基調はここ数年の対外投資を反映:円安換算の効果も。

貿易赤字:14年の10兆4千億円から15年は6434億円に減少。

サービス収支は過去最少の赤字で、旅行収支は1962年以来の黒字(1.1兆円)となった。知的財産権等使用料も2.4兆円の収入があり96年以来最高。

 

■15年の経常収支は16兆6413億円の黒字(前年比6.3倍)と、一気に反転した。

原因は、原油安による貿易赤字の縮小、インバウンド消費による旅行収支の黒字転換など、ここ1、2年に表面化した外的要因によるもので、持続力には疑問も。

 

国際収支、稼ぎ手に変化

 

直接投資収益:親会社と子会社との間の配当金・利子等の受取・支払

証券投資収益:株式配当金及び債券利子の受取・支払

その他投資収益:貸付・借入、預金等に係る利子の受取・支払

輸入が原油安で10.3%減ったのに対し、輸出は電子部品、自動車で1.5%増えた。

 

さて、本題の自動車業界について

 

自動車各社の生産・販売構造の違い、収益にも反映

 

際立つトヨタとホンダの戦略の違い。輸出量が大⇒円安の直接効果大。

トヨタは「年間300万台の国内生産を死守」(豊田章男社長)との方針で、開発部隊の温存も含め、国内生産を一定規模に維持。一方、ホンダは海外市場での現地生産を徹底。日産は年産100万台規模を国内生産の目安としているが、小型車の「マーチ」を全量タイで生産するなど、生産条件を勘案し、車種に応じて内外生産を振り分けている。

 

富士重の14年度1台当たり営業利益は45.2万円、2位トヨタを15万円上回る。

富士重は14年3月期も34万円で業界1位だった。同社は12年に軽自動車から撤退、SUVを主力とし、市場戦略では低価格の新興国には手を出さず、輸出は北米市場に絞った。選択と集中に加えて、輸出比率が70%と高く、為替差益も大きい。

 

「ミライ」は世界初のFCV(燃料電池車)実用車

トヨタは「ミライ」の発売時期を1年以上早めた。

当初、発売は15年以降としていたが、EV(電気自動車)の普及が予想以上に遅れているため、その間隙を縫って早めに市場形成を狙う。

 

トヨタ、FCVの特許を無償公開

FCVの市場形成に向けて思い切った決断をした。

トヨタは特許の無償公開の期限を20年末までに限定し、開発活動を促進。

パソコンのインテル、スマホOSのグーグルなど、基本的な技術を公開してその分野の関連技術の開発を促し、市場の成長を促進する、という行き方は、グローバル時代の新手法。

 

 

日産、ゴーン改革が成果上げる

■売上、利益ともリーマンショック後は一貫して上向き基調。中国市場で日本他社に先行。

14年度の世界販売台数は前年比2.5%増の531万8千台で世界市場でのシェアは6.2%。

国内の販売は同13.3%減の62万3千台で国内シェアは0.8ポイント減の11.8%。

米国140万台(同8.9%増)、中国122万台(0.5%増)

 

ホンダ、技術本位の力量を収益に結び付ける

世界販売は過去最高

ホンダは15年度で世界販売台数は480万台と過去最高となる見通し。北米、中国の世界2大市場での販売が好調。16年度見通しでも前年度比8%増と強気の計画。

 

電池メーカーのパナソニックは米中で車載電池の専用工場を建設

■中国では500億円投資。

中国政府が環境対策のエコカー計画でEV、PHVの補助策を強化(1台当たり5.5万元)。

15年1ー11月で生産台数は29万台、前年同期比4.4倍と急成長。25年には65万台に。これを見込んでパナソニックは中国でも新工場(20万台分)を建設。

 

■米国ではテスラと大型工場を建設中。

米ではEV専業大手のテスラと共同で、約6000億円を投じて大型一貫工場を建設中。16年中に一部稼働し、20年には年産50万台分の生産能力にまで引き上げる計画。

 

 

電動モーターを使った自動車の種類について

ハイブリッド(HV)

内燃エンジンとモーターの組み合わせ。電源は①エンジンで発電機を回す方式②ブレーキ制動のエネルギーを回生モーター(発電機に切り替わる)で回収(電気に変換)する方式③両方式の組み合わせなどがある。モーター駆動は燃費向上のために補助的に使用するのが基本。

 

電気自動車(EV)

蓄電池の電源とモーターだけで走行。専用の設備でリチウムイオン電池に充電したうえで走行。航続距離は200㎞が限度で、電池のコストダウンも課題。家庭の蓄電システムとの連結が近未来のテーマ。

 

プラグインハイブリッド(PHV)

比較的大容量の電池を内臓し、EVとHVの両方の機能を持つ。家庭用の電源から充電でき、電源がなくなってもHVとして使える。

 

燃料電池自動車(FCV)

水素ガスを原料として電気を発生させる燃料電池を搭載した自動車。蓄電池に比べて格段に長い距離の走行が可能。CO2の排出なし。

 

 

0 コメント

2016年

2月

16日

20160216

第57回 温故塾

        

「義経伝説」

 

源義経は不思議な人物である。歴史上確かに存在し、平氏討滅に最大の軍功を挙げた英雄でありながら、ひとたび「源九郎義経」「九郎判官義経」の名を口にすると、たちまち朦としたロマンの香りが立ち昇ってくる。

 世に〃判官ひいき〃という現象をもたらし、日本人好みの悲劇の英雄の典型となった義経は、しかし、その足跡を歴史上でとらえることは、まことに困難である。

●義経の生涯

 義経は平治元年(1159)に生まれた。同年の十二月、父義朝は平治の乱で敗れ、再起を期して関東へ向ったが、途中、知多半島で源氏の家人長田某に殺された。母の常盤は今若、乙若、牛若の幼子をつれて、一時、大和国宇多郡の叔父のもとに身を寄せたが、平氏の厳しい追及にあい、六波羅へ出頭する。清盛は三人の幼児の救命と引換えに、絶世の美女といわれた常盤を妾とし、一女を儲けるが、以後は寵愛が失せ、その後、常盤は一条長成に嫁している。

 兄弟の今若はのちに阿野全成、乙若はのちに義円といったが、全成は建仁三年(1203)の頼家の時代、謀叛の疑いで討たれ、義円は養和元年(1181)の美濃墨俣の源平合戦で戦死を遂げている。牛若(義経)は七歳で鞍馬山の東光坊に預けられ、禅林坊覚日の弟子となり、〃遮那(シャナ)王〃といった。(昼間は仏道修行に励み、夜は兵法修行に励んだと『義経記』にある)

 承安四年(1174)二月、金売り吉次と出会い、鞍馬山を脱出して奥州平泉を目指す。途中、鏡の宿で盗賊団に襲われるが返り討ちにし、この地で元服して、義経と名乗った。(熱田神宮の元服説もある) 艱難な旅を続けて平泉へ着き、奥州の覇者・藤原秀衝の庇護を受けた。以後、治承四年(1180)十月、黄瀬川で頼朝に対面するまで、義経は平泉で何をしていたのか、その行動はいっさい分からない。

 

治承四年、頼朝の挙兵を知った義経は平泉を出立し、十月二十一日、黄瀬川で頼朝に対面した記事は『吾妻鏡』にあり、ここに義経ははじめて歴史の上に登場する。義経二十一歳であった。翌年の七月、鶴岡八幡宮若宮の上棟式で頼朝から馬の引き手を命じられ、不服を申し立てて頼朝から大いに譴責を受けた。義経は「すこぶる恐怖した」とある。

 寿永三年(1184)一月、木曾義仲の討伐命令が下され、義経は勇躍して出陣した。総勢五万五千、大手は範頼軍三万、搦(からめ)手の義経軍二万五千。範頼軍は瀬田川を挟んで義仲軍と対戦し、義経軍は宇治川を押し渡って進撃した。義仲軍は実働兵力が少なく、たちまち戦い敗れて義仲は討死した(宇治川の合戦)。討伐(鎌倉)軍は入洛し、勝に乗じて、福原へ進出して京都奪還を窺っていた平氏軍に襲い掛かった。平氏軍は総勢六万。前に海、背後に山をひかえた要害一の谷に厳重な防衛線を構築し、東の生田に平知盛、西の木戸には平忠度、山上には平教経、平盛俊らを布陣し、攻略は容易ではないように見えた。

 範頼軍は大手の生田に攻めかかり、搦手の義経軍は鵯越道を西に進み、多井畑で土肥実平、熊谷直実らを西の木戸へ向わせ、義経は百五十騎ほどで鉄拐山の急峻な崖道を下って、一の谷の背後を急襲した。世にいう〃鵯越の奇襲〃である。平氏軍は本営(内裏)を急襲されて浮足立ち、争って軍船に乗って海の沖へ敗走した(一の谷の合戦)。

 この合戦の勝利で、範頼は三河守に任ぜられたが義経には何の沙汰もなかった。頼朝が義経を危険視したからだともいう。この間隙をついて〃大天狗〃といわれた謀略好きな後白河法皇は、義経を左衛門尉に任じて検非違使に補した。これは頼朝の推挙を得ずに任官してはならぬという鉄則を、義経が踏みにじったことになる。頼朝は激怒し、義経とともに叙任を受けた御家人たちの鎌倉帰還を禁じ、京都に止まることを厳命した。

 

・・・・・・・

 

義経は七年ぶりに平泉に到着したが、不運にも頼みとした奥州の覇者・藤原秀衡が文治四年十月二十九日に急逝した。秀衡は臨終のさい、国衡、泰衡、忠衡の三兄弟に、「義経を総大将に三人が結束して、鎌倉幕府に対抗せよ」と遺言したが、四代当主となった泰衝は、朝廷から義経追討の「宣旨」が下され、鎌倉からは強圧な使者が訪れるに及んで、ついに義経討伐を決意する。

 文治五年(1189)閏四月三十日、泰衡の家人長崎太郎大夫の率いる五百余騎が、突如として、衣川河畔の高館(たかだち)の義経を急襲した。義経の身辺にはわずか十余人ばかり、弁慶ら全員死闘のすえに斬死。義経は持仏堂にて自刃し、三十一歳の数奇波瀾の生涯を閉じた。

 

●義経は何故、頼朝に滅ぼされたのか?

 宇治川、一の谷、屋島、壇ノ浦合戦の大勲功者・義経は、何故、兄頼朝に疎外され、憎悪され、そして滅ぼされたのか。それはひとえに頼朝と義経の立つ位置が違っており、それを義経が理解できなかった不幸にある。

 頼朝の鎌倉政権は、平氏討伐の挙兵当時から東国武士団に擁立されて成り立っていた。頼朝と義経の父は同じ源義朝だが、頼朝の母は熱田大宮司藤原季範の女であり、その出生から言えば、明らかに「貴種」に属する。一方、義経の母は雑仕女(雑用をする下級女官)である。頼朝は三男だが、兄義平、朝長は平治の乱で討死しており、その貴種性からも義朝の後継者で源氏の嫡流と見なされていた。頼朝の挙兵に東国武士団が挙って馳せ参じたのも、武家の棟梁に相応しい血筋の持主と認めたからであろう。その鎌倉政権はいまだ盤石なものではなく、頼朝の立場は薄氷の上に立たされているようなものであった。

 だからこそ、鶴岡八幡宮若宮の上棟式で頼朝は義経に「馬引き役」を命じ、兄弟とはいえ、特別扱いせずにほかの御家人と同等な扱いをする姿勢を、麾下の武士団に見せつけたのである。しかし、頼朝は木曾義仲、平氏討伐に際しては、範頼、義経を自分の代官として東国武士団を率いさせているから、頼朝に兄弟愛がなかったとは思えない。

 

頼朝が恐れたのは、義経が後白河法皇に懐柔されて王朝政権に利用されることであった。鎌倉に武家政権の樹立を目指していた頼朝にとって、自分を擁立している東国武士団の手前、義経の行為は断じて許し難いものであった。

 屋島、壇ノ浦合戦は義経の目覚しい活躍で勝利したものの、頼朝から指示が届くのも待たずに勝手に帰洛してしまった。一方、範頼は大軍勢を率いて中国路を進み、北九州へ上陸して平氏の糧道と退路を断ち、壇ノ浦合戦後の戦後処理を着実に行なっている。(この年、西日本は大旱魃で大軍勢の範頼軍は糧食不足で困難な行軍を続けている)

 

・・・・・・

 

義経は武将としては天才であった。だが、大軍勢を率いる総大将の器ではなかった。況してや頼朝と東国武士団による新体制(武家政権)樹立のその意図さえ読めなかったろう。京へ帰った義経が頼朝打倒を叫んで挙兵しても、わずかな軍勢しか集らなかったのは、京周辺の武士たちも旧体制(王朝国家)への回帰を望んでいなかったのである。義経は所詮、旧王朝国家に生きた公家風の武将に過ぎなかったのである。

 

・・・・・・・

 

 ●義経生存伝説はどうして生まれたか?

 栄光と落魄の差があまりにも大きな義経は、当時から人々の愛惜と同情を集めてきた。室町時代に入って『義経記』が創られると、そこから謡曲「安宅」「船弁慶」などが派生した。その人気は江戸時代にはさらに高まり、義経生存伝説が語られるようになる。

端緒は寛文・延宝の頃の『清悦物語』(著者不詳)で、小野太左衛門という者が寛永六年二月に平泉に於いて清悦に出会って兵法を授かった。清悦は常陸坊海尊の果物を食って仙人となったので、そのとき四百七八十歳であった。かれによると、義経主従は衣川で死なず、蝦夷へ落ち延びたという。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

義経伝説が息を吹き返すのは、明治十八年発行の『義経再興記』(内田弥八郎著)である。明治維新後、韃靼・蒙古混合説が喧伝され、その風潮に併せたかのように出現した。義経はついに成吉思汗(ジンギスカン)になったというのである。さらに昭和初期、小谷部余一郎の『成吉思汗は義経也』が出されて、一大センセーションを巻き起こしたのである。

 

昭和三十年代には、推理作家高木彬光が「成吉思汗の秘密」を書いている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

、蝦夷地の義経復活は源為朝の琉球復活説と好一対の伝説といえよう。悲劇の英雄に対する思慕の情が、こうした伝説創作の背景にあるのだろう。

 しかし、これら伝説が騒がれる時代背景も考えなくてはならない。義経蝦夷落説が起った頃、寛文九年(1669)七月、蝦夷人の酋長シャクシャインが蜂起し、商船十九艘を奪い、士商二百七十三人を殺すという叛乱があった。さぞ未開の地・蝦夷への関心がにわかに高まったことに違いない。

 『義経再興記』の出現は、明治維新後の清朝との対峙の中で、義経の清朝元祖説(寛政の頃)を再び蒸し返したものであろうし、小谷部の『成吉思汗は義経也』は、昭和初期、満州事変をへて大陸へ野望を馳せた当時の日本人に多大な興奮をもたらせたことであろう。

 言ってみれば、義経の蝦夷落説、韃靼に渡海し清朝元祖となった説、成吉思汗説は、いずれも確かな証拠もなく、その時々の人々の夢と願望が捏造・創作させたものと言えるだろう。

 

 

0 コメント

2016年

2月

06日

20160206

”おせっかいneco(ねこ)と古川あつ子の料理でHappy♡”

 

2月16日(土)に予定どおり、あつ子先生の料理教室が行われました。普段使われている食材も、ちょっとした工夫でおいしくなるのですね!

0 コメント

2016年

2月

03日

20160203

第91回 「necoの読書会」

 

テーマ本:満願

作者  :米澤穂信

 

短編が6つ収録されている。最後にあるのが「満願」であった。

 

面白いとの感想や始めの「夜警」から読み進めたらしんどくなったが、最後の「満願」を読んだら読み進められたなど、人により感想が違うのが面白い。

 

1番人気は、「関守」であった。途中からの意外な展開が人気を集めたようだ。また男性・女性の好みの違いもはっきりしていた。

 

作者は始めに課題設定、状況設定してから話を作り上げていくのではないか?

この作業を作者は楽しんで書いているとの話になった。 感想文はこちらへ

 

 

0 コメント

2016年

1月

19日

20160119

第55回 温故塾

 

「田沼意次の時代」

 

田沼意次は多くの人に誤解されているが、優秀な人物だったと今井塾長は語ります。そうでなければ老中格となった1769年から1786年の17年の長きにわたって政権を担うことはないし、江戸文化が花ひらいた時代を演出したのもその功績といえる。田沼を追い落とした、寛政の改革で有名な松平定信は6年で罷免されている。

●意次の出世

 田沼意次は享保四年(1719)に生まれ、幼名を龍助といった。父の意行は紀州家の家臣だったが、吉宗の八代将軍就任に伴って旗本に列した。享保十七年、十三歳になった龍助は吉宗に初お目見えし、享保十九年、十五歳で、西の丸の世子家重の小姓となる。俸禄三百俵。同年十二月意行が死去し、翌年三月、家督(六百石)を相続、元服して意次と名乗り、元文二年(1737)、意次は叙爵を受けて主殿頭(とのものかみ)と称した。

 

 延享二年(1745)吉宗が隠居し、家重が九代将軍となって本丸に入ったが、吉宗は大御所として、実際の政務を執っていた。意次が吉宗の薫陶を受けたのは、この大御所時代の六年間のことで、彼が国政運営の術を会得したのは、この頃であったろう。聡明な意次を吉宗はお気に入りだったらしく、翌年小姓頭取に昇進し、翌々年には知行千五百俵となり、さらに寛延元年(1748)には二千石に加増されている。寛延四年、吉宗が歿すると、家重はますます意次を重用し、その年には、御側御用取次となり、宝暦五年(1755)には五千石に加増された。

 

宝暦八年(1758)四十歳のとき、相良一万石を拝領して大名に列した。

明和六年(1769)八月、意次は側用人を兼帯で老中格となった。

 

●〃田沼時代〃とは?

 意次が二万五千石となり、老中格となった明和六年(1769)から天明六年(1786)老中を罷免されるまでを、世に〃田沼時代〃と呼ばれている。意次が抜群の手腕を発揮して、実際上、彼が推進力となって幕府の運営を担当したからだが、意次は一度も老中筆頭の座には就いていない。

 

田沼の諸政策

●対外政策

意次はまず、中国貿易において銀の支払いを止めて、銅を七分、俵物三分の割りで決済することにした。俵物とは、アワビ、イリコ、鱶のヒレ、ナマコ、昆布等の乾物をいう。

 

●通貨政策

秤量通貨から表位通貨に切り替えを図り、明和二年(1765)「五匁銀」を発行した。

 

●殖産興業の奨励

田沼は米作重視の農政ではなく、綿、たばこ、菜種、茶、藍などの換金農作物などの多角的農業経営を奨励したのである。

 

総じて田沼の時代は、貿易の拡大、諸産業の振興奨励、通貨の改革、学問文化の自由など、革新的な政策を積極的と次々と打ち出し、その成果が実りだした時代であった。

 

●田沼の失脚

天明六年八月、将軍家治が死去すると意次は老中罷免となる。同年十月、二万石を没収。さらに翌年八月、松平定信が老中となると、十月、意次は蟄居を命じられ、所領三万七千石を召上げられる。孫の意明が家督を継ぎ、奥州下村一万石に移封。同十一月、相良城は没収され破壊された。意次の五万七千石の所領はすべて取り上げられ、実収五千石ほどしかない下村一万石へ移封とは、ずいぶん苛酷な処分である。松平定信の意次へ執念深さが思いやられる。

 

     田沼政治           寛政改革

外交   開国を指向         鎖国政策の厳守

貿易   輸出奨励・外貨獲得     縮小方針

財政   拡大亢進          緊縮方針・歳出削減

貢納   金納税収をはかる      米納中心主義

農政   多角的農業経営許容     換金農作物抑制・米重点

工商   経済発展重商主義      重農主義、商工業抑圧

通貨   表位通貨制の創始      秤量通貨制の堅持

物価   安定政策          低物価政策

金融   銀行方式を指向       旧債放棄の棄捐令

開発   新田運河鉱山の開発     新規法度方針堅持

学問   向上発展的・出版奨励    異学の禁・出版統制

芸術   自由発展政策        愚民政策・美術抑制

医療   洋医学育成         漢方医重用・蘭医抑圧

人事   人材登用方針        家柄尊重・家格重視

娯楽   大衆娯楽黙認        取締厳重・贅沢禁止

 

 

 

0 コメント

2016年

1月

09日

20160109

”おせっかいneco(ねこ)と古川あつ子の料理でHappy♡”

 

正月気分がまだ抜けない、2016年1月6日にあつ子の料理教室が行われました。

新規参加者もいて、楽しいおしゃべりとともに美しい料理が出来上がりました。

0 コメント

2015年

12月

17日

20151217

第2回 n e c o論で経済

 

12月17日に、第2回「neco論で経済」が行われました。

 

今回のテーマは、爆買いなどで存在感を増している中国に関する考察です。

 

レポーター 望月直躬さんから16ページのレジュメを使って、1時間の解説がありました。コーヒーブレイクを入れてから参加者との意見交換を行いました。

 

 

<レジュメ概要>

 

大国中国のリスク

日米と欧州に共通する懸念

①経済の暴走=巨大な過剰設備が世界にデフレをまき散らす。

②格差、民族問題、腐敗などに起因する社会不安。

③領土問題や経済圏構築での強引な拡張路線。

 

*人口世界一をインドが急追 (中国 13.7億人 インド 13.1億人)

 このままでは数年内に人口が減少に転じる → 一人っ子政策の廃止

*貿易額(輸出入合計)は13年に米国を抜いて世界一(中国 4兆ドル 日本1.5兆ドル)

*GDPでは世界第2位の地位、米国を脅かす規模(中国 10兆ドル 日本 4兆ドル)

 

<中国の成長3種の神器>

*農村から湧き出る労働力

*割安な人民元で輸出拡大にまい進

*土地の所有権料売却で政府の財源は潤沢

 2010年に地方当局が土地の売却で得た収入は2兆元(約25兆円) 鬼城(ゴーストタウン)

 

中国発の素材デフレ広がる。(鉄鋼、非鉄金属、合繊原料)

爆買いを呼び水に本土攻勢を強める日本企業

 中間層を狙うコンビニ各社

 資生堂、ユニチャームなど、日本の生活用品メーカーが共同で中国のネット通販に出店

 

戸籍制度改革の成否が社会の安定度を左右(都市戸籍、農村戸籍の移動)

  農村戸籍の固定化は都市での非正規労働者を再生産する制度的な温床に。

 

反腐敗キャンペーンに乗じて政敵を排除

 

強引さが際立つインフラ輸出

 ラオスで「メコン長距離鉄道」を着工

 インドネシアでも、日本を出し抜いて破格の条件で鉄道建設を受注

 

AIIB(アジアインフラ銀行)シルロード構想は中華再興の要

 英国の真意(一帯一路の終点?)→ ロンドンを元の国際取引のセンターにとの思惑

 

FTA(Free Trade Agreement、自由貿易協定)の陣取り合戦、

 ASEAN各国の去就が焦点に → TPPとRCEP 

 

 

 

 

 

0 コメント

2015年

12月

02日

20151202

第89回 necoの読書会が、12月2日に行われました。

 

時代小説の第一人者、山本一力の直木賞受賞作品で、京都で修業して江戸に出てきた豆腐屋が江戸で認められるまで、人に支えられていることを描いている。人情に厚い、長屋住まいの庶民の姿が、心地よい。

 

by Etsuko.S 抜粋

この京や家族の周りの人物設定は大変面白く、江戸の時代ならではの仁義のようなものがあり、相州屋夫婦、江戸屋女将秀弥、棒手振の嘉次郎、因縁の人物傳蔵や鳶頭の政五郎は実に格好いい。また平田屋の庄六の小物ぶりもその姿が目に見えるようだ。

 

by Eiji.K 抜粋

落語に出てくる“はっさん、くまさん、ご隠居”の世界や時代劇に出てくる長屋の様子がリアルに目に浮かぶ身近なものとして感じられるのは小説としての表現力が優れていることによるのだろう。

 

詳しくは、こちらへ

 

0 コメント

2015年

11月

19日

20151119

【neco論で経済】


新たにスタートした、

経済に関する講話+懇談 の教室です。


今回のテーマは「アベノミクス 新3本の矢」


初回から、多彩な経歴の人が集まり、これからが楽しみ。

講師の望月さんは、13ページのレジュメを用意し、力が入っていました。

プロジェクターで資料を映しながら、約1時間の解説。コーヒーブレイクをはさみ、後半はテーマに沿った質疑、懇談が活発に行われました。

 少し内容が専門的になったきらいはありましたが、まずは順調なスタートとなりました。


以下、概要をお知らせします。





一億総活躍社会って?

ポイントは、安倍首相は国民会議の初会合で、「人口減少は国力衰退に直結する。今こそ真正面から取り組み、50年後も人口1億人を死守する」と決意を表明したこと。

1.希望を生みだす強い経済 GDP600兆円 (2014年実績 490兆円)

2.夢を紡ぐ子育て支援 出生率 1.8 (2012年実績 1.41)

3.安心につながる社会保障 介護離職ゼロ


GDP600兆円

・平均成長率3.3%が必要だが、?

・円安による輸入インフレを見込んでるのでは?の意見も

・2015年6月の大企業の年間内部留保増15兆円の内、14兆円は海外投資に向けられている

・国内投資控えが続き、製造業の設備年齢は、2013年時点で過去20年間で5年余り老朽化が進んでいる

・賃上げで60兆円を見込むが、3.3%の賃上が続くか?(円安メリットの大企業だけ?)


出生率1.8

・人口1億人を維持するには、出生率2.07以上が必要だが?(2060年で9千万人の予想)

・フランスは、94年に出生率1.65だったのを2008年に2.0台まで回復させた

 →2子以降に20歳まで、子ども手当を支給、子ども医療費の無料化、子どもが多いほど有利な所得税制など、国家の一般会計の支出の15%強を少子化に充てている。

・国庫支出と保険料を合わせた社会保障給付費 2015年 115兆円の増加傾向と配分をどうするのか?


介護離職ゼロ

・介護職の有効求人倍率は1.5を超え、離職率は18%と全産業平均の14%を上回る

・介護向けの給付費は2014年 10兆円 → 2025年 21兆円と倍増の見込み

 → 在宅ケア、応能負担へ(逆のベクトル)



0 コメント

2015年

11月

17日

20151117

第54回 温故塾 

【吉原細見記】

 

吉原の沿革は、慶長十七年、庄司甚右衛門(甚内)が遊廓の設置を願い出て、元和二年三月に許可され、同四年十一月から開業したという。幕府草創期、諸国から新興都市である江戸へ大量の人口が集中した。大名・旗本の武家屋敷、寺社の建設の整備がすすみ、諸国の商人や職人は競って江戸へ移り住んだ。

 戦国の余燼さめやらぬ猛々しい武士たちの性のはけ口として、遊女を置く女郎屋が雨後の筍のごとく出現し、たいそう繁昌を極めていた。当然、喧嘩、刃傷沙汰も多く、治安上からも幕府は対策を立てなければならなかった。そんな折、庄司甚右衛門の提案は、女郎屋を一箇所に集めて営業するというもので、幕府にとって管理・取締りが容易であったから、短期日に許可したものと考えられる。当然、怪しい者が遊廓に出入すれば、当局に密告する犯罪摘発の裏の役目も兼ねていた。庄司の前身は相州ラッパ(忍び)だったともいう。

 幕府から与えられた遊女町の建設地は、葭(よし)茅(かや)の生い茂った土地であったので、はじめ「葭原」と名づけ、その後「吉原」と改称した。吉原は葺屋町(中央区日本橋堀留二丁目付近)にあった。幕府公認の遊女町であったから一般の町屋との区別を明らかにし、周囲には堀をめぐらし一区画を成していた。入口には大門が構えられ、この大門のみが吉原の出入口で、他には出入口はなかった。この構造は新吉原に移転しても変らなかった。

 この吉原は明暦の大火(1657・振袖火事)の後、浅草観音の裏・千束の地に移転し、それまでの吉原を「元吉原」といい、移転後の吉原を「新吉原」といった。新吉原は、江戸、明治、大正、昭和と連綿と続き、昭和三十一年五月の売春防止法の成立によって、その三百年間の歴史に幕を閉じた。


●遊客の変遷

 元吉原・新吉原を通して、つねに廓内で目立った遊びをする遊客は、その時代を反映した景気のいい人間である。そんな遊客の面から吉原を眺めていくと、そこには江戸時代のある時々の経済事情が浮かび上がってくる。

 明暦以前の元吉原は、武士が主役の時代であった。関ヶ原、大坂の陣に勝利した武士階級はいわば戦争成金、にわか大名も出現して景気がよく、吉原では〃大名遊び〃の見栄を張って、多額の金銀を費やした。

 明暦以後の万治、寛文の頃は、旗本奴と称する連中が目立った。金の有無にかかわらず、華美な風俗で廓内を闊歩していた旗本奴も、寛文末から延宝になるとしだいに処分されてその姿を消していく。それでも吉原の遊客は武士が主流を占めており、なかでも代官や小普請方の役人が吉原をにぎわした。代官は年貢引負という錬金術があり、小普請方の役人は寺社建立などの普請にからんで御用商人と結託した。

 元禄から享保の時代は町人が吉原の主客となる。つまり御用商人の台頭であり、いわゆる紀の国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門の〃大尽遊び〃である。紀文、奈良茂は幕府の役人を吉原へ引っ張り出して歓待し、商売の利権を手に入れようとしたのであり、なにも無駄に金銀をバラ撒いたわけではなかった。

 享保期に吉原で名を馳せたのが、尾張の徳川宗春、安芸広島の浅野吉長、姫路の榊原政岑(まさみね)の三大名である。この三大名は落籍した太夫をお国入りの道中に伴ったというから、大名遊びの意地を見せたともいえる。しかし、倹約将軍の吉宗の忌避にふれ、宗春は蟄居、吉長は隠居、政岑は隠居の上、越後高田へ転封の処分が下った。以降、大名の吉原遊びが途絶えた。




・いざ吉原遊廓へ

 吉原のことを「里」といい、また「丁」ともいった。吉原は江戸町、角町、京町、揚屋町、仲ノ町の五丁(のちに伏見町と堺町が加わる)があったが、町の字は使わず、丁の字を用いた。それで「丁」とか「里」といえば、吉原遊廓のことをさした。ほかに「北州」「北国」ともいった。吉原が江戸市街の北方に位置していたからである。

 吉原へ行くには馬道から日本堤を通って行ったが、この日本堤が「土手八丁」である。実際には六丁半しかなかったが、土手沿いには葦張りの茶店、飲食店がずらりと並んでいた。見返り柳を左に衣紋坂を下ると吉原大門に出る。ここからが吉原遊廓になる。(左図参照)



●大見世、中見世、小見世、河岸見世

遊女がいる娼家は、規模の大小、格式、遊女の等級によって、大見世、中見世、小見世、河岸見世などがあった。


大見世 

店構えは大きく、格式が高く、高級遊女を揃えていた。○○太夫という最高級遊女はこの大見世しかいない。茶屋を通さないで直接見世にやってくる「ふり」「ふり込み」の客は決して登楼をさせない。ここには金一分以下の女はいなかった。店構えは惣籬(そうまがき)である。籬とは格子のこと。


中見世 

大見世より規模は小さく、格式は一段低い。店構えは半籬(はんまがき)で、半分の上部の籬がない。高級遊女も少なく、安価な遊女も交じっており、「交じり見世」ともいった。金一両から金二朱までの女郎である


小見世 

店は惣半籬で、格式はさらに下がる。高級遊女はおらず、金一分が最高の遊女で一人、ほかは二朱の安女郎ばかりである。


河岸見世  

江戸町一丁目、京町一丁目の西側のおはぐろとぶ河岸と、その反対側の東河岸には、最下級の女郎屋(局見世・切見世)が軒を並べていた。金二朱の女郎が最高で、西河岸の見世はまだ良かったが、東の河岸の見世は通称を〃羅生門河岸〃と呼ばれ、強引な客引きとボッタクリで有名だった。客層は職人や小商人が多かった。局見世・切見世は女郎を短い時間で切売りしたので、この名がある。部屋も板壁で仕切って狭く、布団は敷布団のみという粗末なものであった。


遊女の階級

太夫  〃大名道具〃ともいわれる最高級遊女で、揚げ代金一両二分。どのよ

    うな身分のお客にも応対できる教養があり、琴、三弦、立花、茶道、

    囲碁、将棋、舞踊から源氏、伊勢物語など古今の文学にも精通し、短

    歌、俳句もこなした。禿(かむろ)二人~三人、振袖新造、番頭新造な

    どの数人の眷属(取巻き)が付く。座敷持(二部屋続きの専用部屋)で、

    寝具も三段重ね蒲団である。有名な「高尾太夫」は三浦屋の抱えで、

    七代目まで続いた(後述)。一度の遊びに十両から二十両は掛ったとい

    うから、とても一般のお客には手が出せない。


格子  太夫の次の遊女で、揚げ代金一両。禿が二人ないし一人が付く。部屋

    持(専用部屋)である。大見世ではこの級の遊女が多かった。


呼出  金三分。見世にいて仲ノ町の茶屋へ出張りはしない。部屋持である。


散茶  昼夜金三分。吉原は昼と夜に分けて、女郎を売ったので、昼と夜で金

    額が異なる。どんなお客も振らないので、この名がついた。


振袖新造 十四歳ぐらいで売り出した新米女郎。座敷持の先輩遊女に付いている

     が、お客を取らないことはない。金二朱で振袖を着ている。


番頭新造 座敷持の華魁(おいらん)に付いて、華魁の世話をする。これはお客

     を取る者と取らない者がいた。


禿(かむろ)五、六歳から十二、三歳まで、先輩遊女に召し使われる童女。性質

     や利鈍を確かめながら、将来の高級遊女に教育する。華魁やお客の

     煙草・お茶の世話やお使いをする。


 座敷持や部屋持の遊女は、それぞれ自前の箪笥や鏡台、趣味趣向を凝らしているが、部屋持でない遊女は空き部屋へお客を引き入れる。中見世では、昼夜金二分の女郎が座敷持、これが華魁である。中見世では部屋持は壁の方の毛氈の上に坐る。毛氈を敷いてないのは金二朱の女郎である。大見世は茶屋を通じないお客は拒絶したが、中見世・小見世では「ふり」の客は、格子越しに女郎を見立てて、指名して登楼する。吉原案内に入山形に二つ星が座敷持の遊女で、二つ星のないのが部屋持の遊女である。




0 コメント

2015年

10月

20日

20151020

第53回 温故塾

【近世――毒婦・妖婦・悪女伝】

 

 高橋お伝、夜嵐お絹、花井お梅、蝮のお政――いずれも毒婦、妖婦、悪女と喧伝されて世情をにぎわし、草双紙、実録本、新聞小説、演劇、講談の好材料の種となった。

 しかし、彼女たちの犯した犯罪はそれほど凶悪なものであったろうか。また、その犯罪の背景には何があったのか。毒々しく虚飾に彩られた彼女たちの事件の真相を探っていくと、そこには時代の波に翻弄された女たちの悲しいまでの姿が浮かんでくる。

 

 


・高橋お伝  

お金を貸してくれない旦那を殺した罪で、斬首となった。

嘉永四年~明治十一年(1851~1878)お伝の墓は、谷中天王寺境内にあるが、明治十四年一月の三回忌に、仮名垣魯文が世話人となって建てたものである。魯文は『高橋阿伝夜叉物語』を書いて大いに売った。むやみにお伝を毒婦に仕立てた罪ほろぼしのつもりだったろう。建墓の協賛者は、新聞社、座付作者、俳優、講釈師、落語家などで、みんなお伝を飯の種にした者たちであった。


・夜嵐お絹  弘化元年(1844)~明治五年(1872)

夜嵐お絹については、明治十一年の岡本勘蔵の『夜嵐阿鬼怒花廼婀娜夢』(よあらしおきぬはなのあだゆめ)の反響が大きく、次いで「郵便報知新聞」が『夜嵐おきぬ物語』を連載して大評判となった。しかし、お絹の事件は上記のごとく、情人で役者の嵐璃鶴恋しさに、強欲な旦那の金平を毒殺したという、よくある犯罪の一つにすぎない。


・花井お梅  元治元年(1864)~大正五年(1916)

恨みから人を殺めたが自首した。情状酌量されて無期刑、特赦で出獄した。

花井お梅の峯吉殺しの芝居は、明治二十一年四月に中村座で上演された。河竹黙阿弥作『月梅薫朧夜』という題であった。その他、『苦物峯雨酔月』(くものみねあめのすいげつ)なども書かれた。晩年に「花井お梅懺悔譚」も新聞連載された。人の不幸を飯の種にする輩は跡を断たなかったようである。


・まむしのお政 元治元年(1864)~?

「蝮」という異名を被せられたお政だが、殺人罪は犯していない。前科十犯だが、放火一件のほか、詐欺取財、窃盗の小犯罪ばかりである。殺人未遂もあったが、これは見過ごされている。女だてらに前科十犯という累犯が世間の耳目を引いたのであろう。


0 コメント

2015年

9月

16日

20150915

第52回 温故塾


「真田三代軍記」


 戦国の世に登場し、生き抜いた信州小県郡(長野県)の小豪族「真田氏」の真実、俗説を今井塾長が解説した。

来年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公たちの物語です。


【真田三代軍記】


 信州小県郡の小豪族にすぎなかった真田氏は、戦国乱世の重大な場面で戦局を左右するような活躍を示し、その武勇をあまねく天下に轟かせた。世に知られる〃真田三代〃とは、幸隆・昌幸・幸村のことをいい、幸村の兄で松代十万石の藩祖となった信之は入らない。


 江戸時代を通して、もっとも人気が高かった戦国武将は、大坂冬夏の両陣で孤軍奮闘した真田幸村である。「日本一の兵(つわもの)」と称えられ、その六連銭(六文銭)の旗印は、誰一人知らぬ者がなかった。幸隆・昌幸・幸村の真田氏三代については、松代藩士河原綱徳編纂『先公実録』にその行跡が記録されているが、なにせ天保十四年(1843)完成のものだから、『甲陽軍鑑』『川中島五戦記』『沼田記』『滋野世記』『真武内伝』といった軍記類からの引用もあり、必ずしも正確な伝記とは言い難い。幸村にいたっては、『難波戦記』や講談類までに脚色されており、真田氏三代は史実とかけ離れて、伝説の方がより広く一般に知れ渡っている。それでは、謎と伝説に満ちた真田三代の軌跡を追ってみよう。




<レジュメ抜粋>

 

真田幸隆 永正十年(1513)~天正二年(1574)

 

 真田氏は信濃の古い豪族滋野氏から分かれた一族である。滋野氏は清和天皇の後胤といい、また『尊卑分脈』では滋野宿祢の流れともいう。信濃に下って政治にたずさわると共に良馬を育成する牧監(ぼくかん)であったと思われる。

 滋野氏は小県郡海野に住み、平安朝末期になって三家に分かれた。祢津に住んだ祢津氏、佐久郡望月に住んだ望月氏、滋野本家は海野氏を称した。真田氏の興りは明らかでないが、海野棟綱の娘が小県郡の豪族真田頼昌に嫁ぎ、幸隆、綱頼を儲けた。幸隆は真田氏を継承し、頼綱は矢沢氏を継いでいる。

 

 真田氏は東信濃に勢力を張っていた滋野一族に属し、鎌倉時代から真田地方に住んでいたのではないかといわれる。真田氏は滋野系の本家筋にあたる海野氏の嫡流を名乗っているが、実際には傍流であったという説が現在では有力視されている。とはいえ、海野氏、祢津氏、望月氏の有力な滋野一族が没落していった中で、真田氏はしぶとく戦国の世を生き抜いていく。

 天文十年(1541)五月、武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合軍が海野氏を攻撃した。幸隆は海野一族と共に海野平で迎え撃ったが敗北。海野棟綱は逃走し、嫡子の幸善は戦死した。幸隆は棟綱と鳥居峠をへて上州吾妻郡の羽尾へ逃避した。幸隆の妻が羽尾の海野入道幸善の娘だったので、吾妻郡は逃避地として最適であったろう。のちに真田氏が上州へ進出するのは、こうした土地の縁があったからである。

 

・・・・・・・・・

 

 武田軍が総力をあげて攻撃しても落ちなかった砥石城を、幸隆は独力であっさり攻略してしまった。天文二十年五月のことである。晴信の側近駒井高白斎の『高白斎記』に「五月十六日、砥石城を真田乗っ取る」とある。これは力攻めではなく、幸隆の得意な調略によるものであった。幸隆は前年九月の砥石城攻めにおいても、さかんに城内の村上方に調略を仕掛けて、村上方に動揺をもたらした。砥石崩れの後も、幸隆の調略は続けており、それが功を奏したのである。驚いたのは村上義清だけではなく、幸隆から「砥石城を攻める」と報せを受けて、応援に兵を進めようとしていた晴信も驚愕した。

 

*調略=敵方に利害得失を説き、身分保障や領地安堵、または褒賞を条件に味方に引き入れること。

 

 砥石城の落城で晴信の北信攻略は容易となった。天文二十二年四月、村上義清の本城葛尾城を攻め、義清は越後へ走って長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めた。こうして晴信と景虎は川中島をめぐって対決することになる。この頃、幸隆は昌幸を人質として甲府へ送り、引換えに上田近くの秋和に三百五十貫の地を得る。弘治二年(1556)、幸隆は晴信の催促で東条雨飾城を攻め、永禄四年九月の川中島合戦に幸隆・信綱らは武田方として参戦した。

 

 永禄七年、幸隆は上州長野原へ出陣。この方面の将として経略に務め、十月岩櫃城を落とし、岳山城も奪った。この頃、幸隆は〃一徳斎〃と号した。永禄九年九月、晴信は西上野へ進撃し、豪勇長野業政の嫡子業盛の守る箕輪城を攻め落し、西上野一帯をその勢力下に収めた。

 

 永禄十二年、晴信は駿河へ進撃を開始、今川氏真を追放し、西上への野心を燃やす。上野の最前線にいた幸隆の子信綱に駿河進入の武田軍に参加すべし、と晴信の命令が届く。

 元亀三年(1572)三月、幸隆の計略で上野白井城を落としたが、翌天正元年三月、上杉軍に奪還される。四月、武田晴信が三河から帰陣の途中、信州伊奈郡駒場で死去。幸隆も翌天正二年五月、六十二歳で歿した。

 

 

 ●真田昌幸 天文十六年(1547)~慶長十六年(1611)

 

 昌幸は幸隆の三男である。人質のかたちで甲府へ行き、晴信の側近として仕えた。一時、武田家ゆかりの武藤家を継いで、武藤喜兵衛を名乗った。父幸隆の跡は長兄源太左衛門信綱が継いだが、天正三年五月の長篠合戦で、二兄の昌輝とともに戦死したので、三男の昌幸が真田家を相続することになった。

 

 武田勝頼の衰退するなかで、昌幸は本領の小県郡真田郷に戻り、着々と北上州への活動を強めた。狙いは沼田城である。沼田城は北上州の要衝で、上杉謙信の関東経略の基地であったが、謙信死後、上杉家は景勝と景虎の家督争いがあり、上州方面への余裕がなかった。沼田城の上杉方守将の間にも両派の争いがあり、このどさくさに北条氏政が沼田城を奪い返し、猪俣邦憲を城将に藤田信吉、金子美濃守を副将としてこの城を守衛させた。昌幸は沼田城と利根川を隔てた名胡桃城を修築し、ここから沼田城を攻めた。

 天正八年(1580)五月、沼田城の守将藤田信吉、金子美濃守らは昌幸の軍門に下った。昌幸の調略であった。昌幸が沼田城に乗り込んだときの様子を、『加沢記』は次のように伝えている。

 

「昌幸は黒糸縅の鎧に信玄公から与えられた竜頭の兜を着け、三尺五寸の重代の太刀を帯び、一尺八寸の打刀、九寸五分の鎧通しを十文字に横たえ、望月黒という名馬に貝鞍を置かせ、金の馬せんを掛けさせてまたがり、六文銭を書いた胸赤の旗を先に立てて進んだ」。昌幸の将兵六千とあるが、これは過剰な数字で、その頃の昌幸の実力から考えて、せいぜい二千くらいであったろう。

 要衝の沼田城を得た昌幸の得意や思うべしである。昌幸は武田方に属していたが、すでに独立大名の実力を備えつつあったことがわかる。


○第一次上田合戦

 ・・・・・・・

 昌幸の裏切りに面子を潰された家康は激怒し、天正十三年閏八月、鳥居元忠、大久保忠世らを将として、甲斐、信濃の軍勢を合わせて七千の兵で上田城を攻めさせた。昌幸は上田城に籠り、嫡子信之を砥石城に、重臣矢沢頼綱を矢沢砦に入れ、城下町の諸所には柵木を食い違いに結んで待構えた。

 徳川勢は大軍を頼んで、上田城をひと潰しにしようと城壁の下へ押し寄せた。そこへ城中から猛然と鉄砲を撃ちかけられたので、大きな損害を受けた。そのうえ、諸所に隠れていた伏兵も激しく矢・鉄砲を浴びせたから、徳川勢はあわてふためいた。退却するにも迷路のような柵木に阻まれて、身動きがとれない。死傷者が続出し、徳川勢は押し詰められたところを追撃され、おりから増水していた神川へ追い落とされ、溺死者二千を出した。


○第二次上田合戦

 ・・・・・・・・

 上田城に帰った昌幸はすぐに戦備を進めた。兵力は三千八百人、合戦となれば領内の百姓も動員するから、総勢五千から七千人ぐらいだろう。九月一日、徳川秀忠率いる三万八千の軍勢は碓氷峠を越えて、二日、小諸に着陣した。秀忠の軍は榊原康政、大久保忠隣、酒井忠次、本多忠政らの徳川本軍で、真田信之もこれに加わっている。

 

 秀忠は上田城へ使者を送って昌幸の参陣を促した。昌幸は「秀忠公に敵対する気はない。明日にも城を明け渡しましょう」と返答した。ところが翌日になっても城を明け渡す気配がない。使者を送って督促すると、こんどは「太閤様のご恩は忘れがたく、当城に籠った上は,城を枕に討死し、名を後世に止めたく存ずる。願わくば当城を一攻めしていただきたい」と喧嘩腰であった。これは西上する秀忠軍を足止めする作戦だったといわれるが、じつは城内で、恭順か、合戦かの対立があり、昌幸は恭順するつもりであったが、強行派の幸村に押し切られたという。

 

 秀忠は大いに怒り、総軍を率いて上田城を包囲した。六日早朝、城兵の一隊と依田肥前守の一隊と小競り合いがあった。城兵はまもなく足並み乱して逃げ出した。これは昌幸の謀略だったが、寄せ手の牧野忠成ら徳川兵は勢いに乗って追撃。城兵はこれをあしらいながら退却し、大宮社あたりまで引き寄せたところで、急に伏兵が一斉に起り、牧野隊を急襲した。これを見て、牧野隊を救うべく徳川勢が援兵を繰り出し、乱戦となった。いよいよ接戦と見た大久保、本多、酒井の主力部隊が城兵を追って城下へ突入した。主力部隊が秀忠の本陣を離れた隙を突いて、突如、虚空蔵山の林から一隊の城兵が現れ、秀忠の本営を襲撃した。その猛烈な銃声に驚いた徳川軍のが乱れると、大手門がさっと開かれて鉄砲が一斉に火を吹き、その煙の中から幸村の一隊が突撃してきた。見事術中に陥った徳川勢は混乱状態となり、惨憺たる敗北を喫した。

 

・・・・・・・・

 

 関ヶ原合戦の勝利は徳川家康に〃天下人〃の地位を約束した。合戦の大事な局面で、秀忠軍に損害を与えて足止めさせた真田昌幸・幸村父子は、重罪として処刑されるのは当然であった。昌幸の長男信之は舅本多忠勝や井伊直政に助命を懇願し、本多、井伊も家康に懇請した結果、昌幸父子は死を許されたという。家康は昌幸に好感をもっていなかった。出来ればこの際成敗したかったが、本多、井伊の懇請もあって断念したようである。

 

 戦後、信之は本領の沼田城を安堵された上、昌幸の上田城を与えられている。重罪人の父と弟を出した割には、たいそうな厚遇といわなければならない。


真田幸村 永禄十一年(1568)~元和元年(1615)

 

 幸村は昌幸の二男に生まれ、幼名を弁丸、また源次郎といった。本名は信繁である。幸村の名が広く知れわたったのは軍記物語『難波戦記』に登場してからであり、本人が幸村を名乗ったことは一度もない。官位は左衛門佐(さえもんのすけ)であり、現存する書簡類には「左衛門佐信繁」の署名がある。

 幸村ほど虚構と伝説にみちた武将はいない。大坂冬夏の両陣での胸のすくような大活躍が、大坂(豊臣)ひいきの一般大衆の人気を煽り、いやが上にも数々の伝説と綺譚を創り出されていったのであろう。


・・・・・・・・・・・・

 

幸村の最期の武者ぶりは『薩藩旧記』の一節に伝える。

「五月七日、御所様(家康)の御陣へ真田左衛門かかり候て御陣衆追いちらし討捕申し候。御陣衆三里程づつ逃げ候衆は皆いきのこられ候。真田は日本一のつわもの、古(いにしえ)よりの物語りにもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」

 滅び行く豊臣家に殉じた幸村も、これだけ勇猛ぶりを称えられれば、さぞ満足であろう。幸村の子大助も秀頼に殉じた。十六歳だった。

 幸村の人物像を兄信之は「柔和にして怒り腹立つことなし」と述べている。日常は温和な性格だったが、ひとたび戦場に臨めば鬼神のような暴れ方をしたのだろう。


 真田三代の幸隆・昌幸・幸村を比べてみた場合、幸隆は外交・調略に手腕を発揮した武人であり、昌幸は権謀術数・智謀の武人と言えよう。だが、幸村には謀略家というイメージはない。戦場駆引きの巧い知将といったところか。幸村は戦国の世の終焉を告げた大坂夏の陣で、天下人・家康を震駭(しんがい)させる武者ぶりを示し、壮烈な戦死をとげた。人気のないはずがあろうか。



0 コメント

2015年

9月

05日

20150905

おせっかいneco(ねこ)と

古川あつ子の料理でHappy♡


第3回 あつ子の料理教室が、下記予定通り行われました。


日時:9月5日(土)13:00~16:30

場所:じもとのneco


まず始めは、豚肉と調味料を鍋に入れ、弱火で煮るだけの簡単で豪華な煮豚料理。

次いで季節の野菜を使ったラタトゥイユは、色合いがとても綺麗で、野菜のうまみがたっぷり出ていました。デザートは、かぼちゃを煮るだけで簡単にでき、トッピングにかぼちゃの皮をあしらい、見た目もかわいい冷たいムースができました。


 煮物をしている間に、あつ子先生から太巻き祭りずしの手ほどき。今回は卵焼きでくるんだ、つばきの花の祭りずしもつくり、作り手の個性あふれる形が出来上がりました。

 料理教室の雰囲気にも慣れて、料理後の食事会は楽しいおしゃべりがはずみました。


次回の祭りずしは、基本のお酢ご飯の作り方を勉強する予定です。



0 コメント

2015年

9月

02日

20150902

necoの読書会

 

「人間ぎらい人恋し」 著者:時実新子

 

初めて読んだ著者の本、こんな人が座談に入っていたら、小気味いい発言で盛り上がる楽しい会になると思えた。

 

「得手不得手」というタイトルのエッセイに載っていた川柳

「なわとびに入っておいで出てお行き」

私のお気に入り

読書感想はこちらへ・・・・・

0 コメント

2015年

7月

21日

20150721

 第51回 温故塾


【時代小説とは何か?】


今井塾長の得意分野で、師事した長谷川伸が登場する。

大菩薩峠、半七捕物帳、鬼平犯科帳など昭和の時代に、映画やテレビで見たことのある名前の時代小説の歴史を楽しんでください。

時代小説とは何か?


 時代小説は一名、〃剣の文学〃だといわれるが、その定義はあいまいでむずかしい。大雑把にいえば、過去の歴史を舞台にして、虚構の人物、実在の人物であろうと、その虚実を織り混ぜて創作されたストーリーといえようか。さて、一口に時代物というが、その時代とはいつのことか? 古代・奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸とある歴史の時代区分の中で、いったい、どの時代をいうのだろうか。

 〃剣の文学〃というからには、武士の出現以降であり、それも戦国末期から江戸時代全期と限定していいだろう。武芸の諸流派が生まれ、剣豪が輩出した時代と一致するし、歴史上の人物の言動や体温が我々に身近に感じられてくるのも、この時代からである。したがって、時代小説とは戦国末期から江戸時代を背景として創作された虚実混交の物語と規定できるだろう。

 

 ●時代小説の興隆

 今日の時代小説の嚆矢を中里介山の『大菩薩峠』とする説があるが、一方、そのルーツを速記講談に求める説がある。速記講談というのは、当時隆盛を誇っていた寄席で口演される講談を活字化したもので、これは明治末から大正期にかけての新聞の部数拡大や新雑誌の相次ぐ発行が背景にあった。

 むろん、新聞に小説の掲載はあった。しかし、それを読みこなせる読者は一定の教育を受けた知識階級であり、広範な大衆読者には難解な文体であった。そこで誰でも馴染みのある速記講談の掲載は、分かりやすく大いに受け入れられることになった。


 明治四十四年の「講談倶楽部」(野間清治)をはじめ、「講談雑誌」「講談世界」が創刊されたが、講談・落語に関するかぎり、すべての原稿を速記事務所から買い入れなければならなかった。ところが、「講談倶楽部」が浪花節を掲載したことから、気位の高い講談・落語界から猛反発がおきた。デレロン祭文語りと一緒にされてたまるか、というのがその理由だが、同時に速記講談・落語の実力者今村次郎から「講談倶楽部」への、原稿供給の独占権を要求してきた。野間は苦しんだ。浪花節の掲載を中止する気はない。といって講談・落語の原稿が入らなければ雑誌の編集は不可能である。当時は講談全盛であり、娯楽雑誌が講談を載せなければ、雑誌の体裁を成さなかったからである。

 そこで野間は苦しみ抜いた末、講談・落語にかわるべき原稿の入手を模索。これが〃新講談〃であった。その書き手として、伊藤痴遊、遅塚麗水、伊原青々園、中里介山、長谷川伸、平山芦江などの新聞ジャーナリズム出身者に向けられたのである。これが新文芸の発生の因となり、「大衆文芸」の誕生となっていくのである。


 ●虚無の剣客・机龍之助の系譜

時代小説の嚆矢ともいわれる中里介山の『大菩薩峠』は、大正二年九月「都新聞」に連載。以後、「毎日」「大阪毎日」「読売」「国民」の各紙に延々と書き継がれ、昭和十九年、作者介山の病死で中絶した未完の超大作である。

 主人公の机龍之助は甲源一刀流の使い手、御岳神社の奉納仕合で同門の宇津木文之丞を〃音無しの構え〃の一撃で倒し、その妻お浜を奪って江戸へ出奔する。剣の腕を見込まれた龍之助は浪士組の芹沢鴨、土方歳三らと交友し、ある夜、清川八郎暗殺を企てて一丁の駕籠を襲った。ところが、これが人違い、相手は剣客の島田虎之助だった。たちまち島田に斬り伏せられ、「剣を学ぶ者は、まず心を学べ」と諭される。龍之助は島田の剣の妙技に愕然とし、深い悩みに襲われる。その後、浪士組と京へ上るが、これまで斬殺した幾多の怨霊に祟られて正気を失う。幽鬼のように彷徨する龍之助は、一時、三輪明神の社家に救われるが、大和天誅組の乱に加わり、敗れて山中の山小屋にいたところ火薬が爆発、龍之助は失明する。

 無明の世界にありながらも人斬りの性癖はますます昂じ、次々と殺戮を重ねていく。この龍之助をめぐって様々な人々が登場――大菩薩峠の山頂で試し斬りにした巡礼の孫娘お松、龍之助を兄の仇と狙う宇津木兵馬、お浜と瓜二つのお豊、怪盗・裏宿の七兵衛、悪旗本の神尾主膳、生花師匠で妖艶なお絹、「伯耆安綱」の名刀を持つ馬大尽の娘お銀様などなど、龍之助の行く先々にからんで物語は複雑に展開していく。



 ●求道精神の国民文学『宮本武蔵』

 虚無・ニヒルな退嬰的時代小説の全盛期にあって、これを完璧に否定した名作が吉川英治の『宮本武蔵』(昭和十年・朝日)である。日中戦争から太平洋戦争へ突き進む社会情勢のなか、「この世をいかに生きるべきか」という大命題を、武蔵の生涯を通して作者吉川が託したものであった。中年以上の読者に支持され、特にふだん小説を読まない、将校・政治家・社長などが熱心に読んだといわれる。この点、戦後、大ベストセラーとなった山岡荘八の『徳川家康』、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』なども、大小の企業家やサラリーマン層に読者が多かったことと共通するものがある。『宮本武蔵』の映画化は、昭和十五年、片岡千恵蔵主演、稲垣浩監督が最初で、戦後、稲垣は三船敏郎主演で再映画化。東映は、中村錦之助主演、内田吐夢監督の六部作がある。


 ●半七捕物帳の系譜

 岡本綺堂の『半七捕物帳』は第一作「お文の魂」(大正六年一月・「文芸倶楽部」)以降、合計六十八篇が書かれた。いわゆる捕物小説の元祖で、新聞記者である「わたし」が、元岡っ引の半七老人から聞いた思い出話を書き留めた形式になっている。半七は文政三年生まれ、父は日本橋の木綿問屋の通い番頭半兵衛、母はお民、妹にお粂(成長後、常磐津の師匠)。堅気を嫌って神田の岡っ引吉五郎の子分となり、天保十二年「石灯籠」で初手柄をあげ、のち吉五郎の娘お仙をめとって跡目をつぎ、慶応三年まで二十六年間活躍、老後は養子に唐物屋を開かせ、楽隠居――と設定している。『半七捕物帳』の特色は、捕物話の背景をなす江戸の町々の四季折々の風俗習慣、その情景を巧みに織り込んだところにある。父が幕臣であり、明治五年生まれの綺堂にとって、維新以後、しだいに消えていく江戸の風俗文化を書き留めておきたいという熱い想いがあり、この捕物帳を書いたという。当然、その考証は正確で、品格ある平明な文章は、現在の時代作家のバイブル的存在。大正から昭和初期の作品でありながら、今日も多くの『半七捕物帳』のファンがいる。後続作家の捕物帳がまったく顧みられなくなったことからみても、この作品の隔絶した価値が分かるだろう。


 捕物帳小説では、佐々木味津三の『右門捕物帖』(昭和三年三月・「富士」)が一つの形式を創造した点で注目される。八丁堀の同心・近藤右門は無口なところから〃むっつり右門〃と呼ばれる。子分の岡っ引の伝六は正反対に無類のおしゃべり屋。このコンビはシャーロック・ホームズとワトソンの関係を導入したものだが、その後の捕物帳はみんなこれに習っている。


 野村胡堂の『銭形平次捕物控』(昭和六年四月・「オール読物」)では、岡っ引の平次は神田明神下の長屋に恋女房お静と暮らしている。酒量は大したことはないが、煙草は尻から煙が出るほどたしなむ。子分はオッチョコチョイのガラッ八こと八五郎。平次は得技の〃投げ銭〃と推理で次々と難事件を解決していく。短編総計三百八十三篇、ほかに長編が数作ある。面白いのは、いつまで経っても平次の年は三十一。八五郎は三十というところである。


 横溝正史の『人形佐七捕物帳』(昭和十三年一月・「講談倶楽部」)は、主人公の佐七に〃人形〃の二字を付けたのは、『半七捕物帳』の半七の弟分で人形常という岡っ引から拝借し、女房のお粂の名も半七の妹からつけている。作者の横溝は「半七には及びもないが、せめて弟分にあやかりたいと考えてのこと」と述べ、捕物帳の先駆『半七捕物帳』に敬意を払っている。人形佐七の子分は、辰五郎と豆六である。このシリーズは長編二、短編総計百八十篇を数える。

 城昌幸の『若さま侍捕物手帳』(昭和十四年三月・「週刊朝日」)の主人公は、〃若さま〃と呼ばれ、どこかの御大身であるらしいが、姓名、身分ともいっさい不詳の人物。いつも船宿喜仙の二階でおいと(喜仙の娘)を相手に盃を傾けていると、岡っ引の遠州屋小吉、または与力の佐々島俊蔵が事件の発生を報せにきて物語が始まる。このシリーズも中・長編が約二十篇、短編三百六十篇。


 『半七捕物帳』『右門捕物帖』『銭形平次捕物控』『人形佐七捕物帳』と共に、五大捕物帳と呼ばれる。捕物帳ブームは昭和二十年代で終りをつげるが、他に額田六福の『諸国捕物帳』(昭和六年・「文芸クラブ」)や捕物作家クラブの『伝七捕物帳』がある。

 映画では、嵐寛寿郎の「むっつり右門」、長谷川一夫の「銭形平次」、高田浩吉の「黒門町の伝七」が当り役だった。


 ●池波正太郎の『鬼平犯科帳』

 系列からいえば捕物帳に属するが、従来の捕物帳の定番であった町奉行所の与力・同心、岡っ引ではなく、「火付盗賊改」の長谷川平蔵を登場させたところが斬新である。また「鬼平」長谷川平蔵個人の働きでなく、火付盗賊改方の与力・同心、及び密偵たちによるチーム・プレーで成立していることだ。これはいままでの捕物帳物語を一変させる創造である。各編に登場する大盗、凶盗、怪盗、妖盗たちの魅力も欠かせない。池波小説の偉大な功績は『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』シリーズに、江戸の食文化を取り込んだことであり、この方面からのファンもずいぶん多い。


 ●股旅物の系譜

 〃股旅〃という言葉は、長谷川伸の戯曲『股旅草鞋』(昭和四年二月・「改造」)から生まれた。股旅とは「旅から旅を股にかける」という意味であろう。長谷川はこの前後、『沓掛時次郎』『関の弥太ッぺ』『瞼の母』『一本刀土俵入』『勘太郎月の唄』などを次々と世に送り出し、小説、演劇、映画、流行歌といった大衆文化の世界にたちまち股旅物の一大ブームを巻き起こした。

 長谷川の描く股旅者(博徒)は、風雨に打たれ日焼けし、旅から旅をさすらい歩く、孤独で、いばらを背負った男たちであり、颯爽とした姿はどこにもなかった。元来が、一般社会の秩序外にある博徒の世界だ。その世界からさらにはじき出された脱落者、それが股旅者である。そこには積極的な観念が生まれるはずがない。聞こえてくるのは、ただ自嘲の嗤いと反社会的な孤独な嘆きである。


 ●忍者物の系譜

 忍術といえば講談ジャンルの呼び物の一つで、富田常雄の『猿飛佐助』(昭和二十二年九月・「りべらる」)、次いで林芙美子の『絵本猿飛佐助』(昭和二十五年六月・「中外」)、村上元三の『真田十勇士』(昭和三十二年)、柴田錬三郎の『柴錬立川文庫』(昭和三十七年)があるが、いずれも底流には伝統的な講談の忍術物があった。これらを一変させたのが、山田風太郎の『甲賀忍法帖』(昭和三十三年)、司馬遼太郎の『梟の城』(昭和三十四年・「中外日報」)、村山知義の『忍びの者』(昭和三十五年・「赤旗」)である。


 ●敵討物の系譜

 江戸時代に出版された小説類の三分の一は「敵討物」であり、歌舞伎の世界でも敵討の要素がないものは不人気だったという。毎年正月の演題には〃曽我兄弟〃、暮には〃忠臣蔵〃が定番であったし、鶴屋南北の『四谷怪談』さえも背景が忠臣蔵になっているほどだ。敵討が好きなのは国民性なのか。

 時代小説には忠臣蔵を扱った作品がじつに数多い。白井喬二の『元禄快挙』、本山荻舟の『忠臣蔵八景』、吉川英治の『新編忠臣蔵』、邦枝完二の『女忠臣蔵』、海音寺潮五郎の『赤穂浪士伝』、大仏次郎の『赤穂浪士』、五味康祐の『薄桜記』、南條範夫の『元禄太平記』、池宮彰一郎の『四十七人の刺客』等など。他は省略するが、異色作では井上ひさしの『不忠臣蔵』が注目される。


●明朗な快男児の系譜

 時代小説には虚無的でニヒルな主人公ばかりではない。底抜けに明るく、強くて、やさしい快男児が活躍する。その代表は、佐々木味津三の『旗本退屈男』(昭和四年四月・「文芸倶楽部」)だ。直参旗本千二百石、天下御免の三日月形の向う傷の早乙女主水之介は、相手が大々名であろうと老中であろうと構わない、正々堂々と乗り込んで行く。全国の何処へでも出かけ、諸羽流正眼崩しの正義の剣を振るって悪人輩を退治する。その痛快さが退屈男の魅力である。しかし、これほど時代考証を無視した小説も珍しく、当時、江戸学の泰斗・三田村鳶魚にさんざん叩かれた。佐々木は「大衆文学は無軌道の花電車」というエッセイを書いている。つまり、花やかに飾り、どこへでも走り、レールの無い乗物の面白さが、大衆文学の値打ちだという意味である。佐々木味津三は、「むっつり右門」と「早乙女主水之介」という強烈なキャラクターを創作した。その圧倒的魅力は、小うるさい時代考証の網を突き破って、現代までも生きている。

 この路線には山手樹一郎の『桃太郎侍』(昭和十五年・「合同」外)や『又四郎行状記』(昭和二十二年)がある。山手作品のパターンには、道中で美女を助けて事件に巻き込まれる筋書きが多い。主人公は明るく、強く、やさしいという明快さ、その平易な文章と筋立てが広範な読者の支持を受け、山手作品は「時代小説のメルヘン」と称せられる。




0 コメント

2015年

6月

16日

20150616

 第50回温故塾  【日本漁業史】

 

2010年7月から始めた温故塾、今回は記念すべき50回目でした。これも参加いただいている皆さまのおかげと、感謝の気持ちを込めて、紅白まんじゅうを配りました。

今回のタイトルは、歴史テーマとしてはめずらしく「日本漁業史」。これは日本の産業の歴史も取り上げてみたいとの今井塾長の思いから決まったものです。

漁業を石器時代から概括し、江戸時代を中心とした魚産業が取り上げられました。

  【日本漁業史】


 日本列島を囲む海域は、寒流の親潮と暖流の黒潮が交差する世界有数の漁場であり、まさに天然の宝庫といえる。古代からわが国では漁撈がさかんに行なわれてきた。

 

 石器時代には、採集漁撈(鮑・貝類・昆布等) だけではなく、石器の釣針や銛、小規模な仕掛網を使用して、じつに多種類の魚を獲っている。特に突銛漁法は、主として鯛や鮪・かじきのような大魚や、鯨・海豹・海豚などの強壮な海獣の漁獲にも用いられた。粗雑な魚網では烏賊・小海老・石鰈の小魚類を捕獲した。今日、貝塚から釣針・銛、また鯨・海豚の骨も発掘されており、石器時代の漁撈が案外多角的に行われていたことが分かる。

 一方、内陸の河川や沼では、竹籠や竹筒を用いて、鰻・鯉・鮒等を漁獲しているし、原始的な鮭漁も行なわれていたという。こうした漁撈に依存して生活する人々は、自然、海岸に沿って移動する集団と、河川渓谷を伝わって内陸深く入り込む集団に分かれ、ここに漁民集落型と山間集落型の二種類が形成されていく。やがて、その中間に日本漁業に典型的な半農半漁民集落が成立する。

 

  鉄器時代に入ると、農耕技術の進歩と改善によって農業生産が増大し、農と漁の社会的分化がおこる。漁村においても釣針・銛の進化によって大型魚の漁獲も容易になる。王朝時代はこの農漁分離の政策を押し進め、いわゆる浜と在の分化が明確にされた。例えば養老二年(718)、能登を越ノ国から、安房を上総から独立させたことは、能登・安房は漁業を以って生活の重要資源としている海浜の地であると認めたからである。

 こうした漁撈に勤しむ漁民に生産力に規制がかかる。仏教的理念によるもので、聖武天皇の殺生の禁、下って白河天皇の応徳三年(1086)には、漁網八千八百余張が焼かれ、諸国からの貢魚(貢租の魚)を禁止した。鳥羽天皇の永久二年(1114)、勅命によって網代の破却と殺生を禁止。崇徳天皇の大治元年(1126)にも、紀伊国から漁網を上進させて、院の門前で焼き払っている。

 以上が、王朝時代の小漁民圧迫の漁業政策だが、これは権門勢家にまで至らなかった。すでに班田制が崩壊し、多くの荘園を抱える権門勢家には、なんらの痛痒も感じなかったし、荘園領主は不輸不入の特権を以って領民(漁民)を隷属させ、自己の利益のために過酷な年貢(漁獲物)を徴収した。王朝時代の漁業は主に京都を中心とした近畿・中国の瀬戸内内海にあったが、鎌倉時代に入ると、幕府創建と共に関東諸地域の漁業が眠りから目覚める。

 

  関東漁業は伊豆・安房の半島国が中心であったが、駿河・相模・上総・武蔵のような内湾地帯の半農半漁の国々もそれに続いた。鎌倉を始め地方集落の発達と市場の成立と共に漁獲物の商品化が一段と進み、漁村の営利化が顕著になってきた。そして、市場と漁業生産者とを橋渡しする商人〃いさば〃が台頭する。五十集と書くが、ここでは魚屋・魚問屋くらいの意味である。農業や漁業の発展によって余剰生産物がストックされて、交換が発展し、広範な商業活動が展開、荘園経済を破壊させて行く。むろん、そこには社会変動と貨幣の浸透による購買力の向上がある。この商業発展が荘園社会から大名領地制への推進力となるのである。また中世における独占業、「座」の成長もあった。七座といわれる、魚・米・器・塩・刀・衣・薬。または、絹座・炭座・米座・桧物座・千朶座・相物座(魚・塩)・紙座・馬商座を七座といった。

 なお、鎌倉・室町・戦国時代、漁撈民はその巧みな操船技能を買われて海上の戦闘や物資輸送に従事させられたことは言うまでもない。

 


 ●江戸時代の漁業

 慶長八年(1603)、徳川家康が征夷大将軍となり、ここに幕藩体制が確立し、大名領国制へ移行した。検地による全国の土地台帳を作成し、これを基礎として大名領を与え、家臣の知行を確定した。諸大名の分国統治はまったく自由であり、領内の租税、行政裁判権、土地処分権はそれぞれの大名の意思一つにあった。その領国経営の基盤は米穀を中心とした農業経済であったが、海村の漁業においても大名経済の中へ組み込まれていく。その場合、漁業をなし得る稼場(漁場)の境界の確定問題がおこってくる。

 陸地の境界をきめる理法にならって、河海にも境界をきめる基準が必要であった。しかし、当時はどこの領主も領有をはっきり主張できない自由の海(公海)があった。いわゆる〃沖漁場〃である。それに対し、境界がなんらかの意味において問題となる村落の地付漁場は〃磯漁場〃と呼ばれた。沖漁場は従って磯漁場の外海である。

 

  徳川時代の河海の境界を定めたものに、寛保元年(1741)に編述された法律に「山野河川入会」がある。それによれば、

 一、漁撈入会場は、国境の無差別

 一、入海は両頬の中央限の漁撈場たる例あり

 一、村並びの漁場は、村境を沖の見通、漁場の境たり

 一、磯漁場は地付根付次第なり、沖は入会

 とある。つまり、公海の自由操業の原則を宣言したもので、沖は入会であり、入海や河川流域は中央を以って漁場の境とせよ、という意味である。では、地付漁場と沖合との区別はどこできめるのか。これは現代でも各国まちまちであるように、当時も全国を通して一定の基準はなかった。海岸から数里、十二里、二十町、八町以内を地先海面とする事もあったし、水深による尋、櫂立、棹立などによるものもあった。が、大体、沿岸から十数町ないし一里位を境とする場合が多かったという。

 

 本来、沖猟場は自由に漁業をなし得る海域であったが、漁具や漁法の発達、漁業者の増加によって、競争が激化し、このため従来の漁業者の利益が阻害される結果となったので、漁業者は結束して、漁業者員数、漁船数、漁具の制限などを申し合わせ、一種の利益共同体(漁業組合)をつくった。有名な江戸内湾四十四カ浦の組合、紀州潮岬十八カ浦の岬組合などがそれである


●漁猟に関する貢租

 漁猟の貢租は、雑租(年貢外の雑税)の中の小物成に属した。小物成は狭義の小物成と浮役の二つに区別される。第一の狭義の小物成は「郷帳外書」に記載されている永久的な租税で、大部分は山野河海の収益税である。第二の浮役とは、浮遊する課税源に対して賦課される租税である。(漁獲に対する税)

 

 第一は、営業税もしくは営業免許手数料の性質を有する運上・冥加の如きである。第二は、全く郷帳に記載されない当座また臨時の収入に対して課せられるもので、分一金、市売分一金である。大名・旗本が領地(知行)を渡される時、狭義の小物成は、「高」に結びつけられるが、浮役は知行高には入らない。

 漁猟や海藻の収穫がある村落は、金銀でどれほどか算定し田地と同様に石高で表示した。これを「海高」といった。海高のほか、池魚役、網役、網代役、船役、簗運上、池運上、鰯分一、市売分一、水主役、御采魚があったが、藩や地方、漁業の種類によって雑多であった。御采魚は、鯛やその他の上魚を特定の浦から、幕府または藩主に御采として上納するもので、このような浦を御采浦と呼んだ。

 

 

 日本の沿岸漁業が各地で独自の発展を遂げたのは、宝暦前後から天明前後(約百年間)にかけてである。当時、海産物のうち、最も重要と思われる魚類は、鯛が最大で、鯨・鰹・鮪・鮭・鰊がこれに次いだ。鰯漁業・鰊漁業が目覚しい発展を見せたのは、いうまでもなく干鰯・搾鰯・干鰊・搾鰊が農業肥料として大量の需要があったからである。それでは、江戸時代の四大漁業である鯨漁・鰯漁・鰹漁・鰊漁の実態を追ってみよう。


捕鯨漁業

 古来、鯨は勇魚(いさな)として親しまれ、また「一頭獲れば七浦うるおう」といわれたほど捕鯨は大きな利益をもたらせた。徳川期の捕鯨の発展期は、宝暦・明和・安永・天明頃であるといわれる。それは突取漁から網取漁への転換にあった。しかし、捕鯨には多大な資本が必要であり、沿岸漁民の単独経営では不可能であったから、一、沿岸漁民の共同出資によるもの、二、海産商(殊に鯨問屋)よりの前借制、またはかれらを銀主とするもの。三、領内の捕鯨家・海産商が藩の産業保護政策による資本援助によって行なうもの。などの経営形態がとられた。

 


●鰯漁業

 鰯漁業が近世の花形漁業として脚光を浴びたのは、農業生産力向上を左右する魚肥の干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)等の利用価値が増大したからである。特に九十九里浜の鰯地曳網量は、その最たるものであった。佐藤信淵の『経済要録』(文政十年)には「諸国漁猟の中に於いて、其の業最も大なる者は、九十九里等の海鰮(いわし)なり、此の九十九里の漁猟は、日本総国の第一なるべし」と、その盛況ぶりを記している。

 

●鰹漁業

 「目に青葉山ほととぎす初かつを」。鰹は昔から日本人に親しまれ、江戸の食文化の華であった。『本朝食鑑』に「刺身によく、霜降り、なまりに作りてもよし、なまりは夏季の賞味たり。又、鰹節、鰹醤(鰹のたたき)を製す」とあり、鰹の広範な需要を物語るものであろう。わけても武士階級には、鰹の上々の味と縁起の良さから珍重された。鰹を生で食すようになったのは鎌倉時代からであり、それ以前にはなかったというから、武士の勃興と共に鰹文化が始まったといえるだろう。

 

●鰊漁業

 松前藩が蝦夷の支配を確立したのが慶長九年(1604)。鰊漁業の開発は、すでに足利末期から始められていたが、実際に鰊漁の盛況を見るに至ったのは、松前藩の支配からで、特に寛文・延宝(1661~1680)以降である。松前藩は米の生産が皆無(無高)だから、藩主の直轄地以外はそれぞれ漁場の区域を定め、それを家臣の知行に充てた。つまり、漁場を知行地として支配体制(場所制度)にしたのだ。鰊漁の始めは粗末な刺網を用いていたが、延宝頃、内地から漁網(定置網・角網)が伝わり、改良使用されて、鰊の漁獲量は飛躍的に増大した。と同時に近江商人を中心とする内地商人による漁場の請負制(藩士の漁場を請負)が始まる。鰊漁業のすさまじい盛況ぶりを『東遊雑記』(寛政元年)は、

「蝦夷松前の諸人は鰊を以って一年中の諸用万事の価とする故に、鰊の来る頃は、武家、町家、漁家のへだてなく、医家、社人に至るまで我が住家は明家とし、おのおの海浜に仮家を建て、我劣らじと鰊魚を取る事にて、男子は海上に働き、女子小童は鰊を割りて数の子を製する事なり。此故に松前に於いては日本の豊凶少しもかまわず、鰊の数多く来る年を豊年と称し、鰊の少なく来る年を凶年という」と記している。鰊漁の盛況なことは、「貰い歩き、又は浜辺にすたり(捨てて)あるをひろい集める寡婦の類もまた七、八両の金子を得る」というほどだった。

 

鮪の今昔

 今日では高級魚の鮪だか、江戸時代は下魚扱いであった。一名を〃しび〃とも呼ばれ、「死日」につながるとして武家から嫌われた。むろん、生では食べず、煮るか塩漬けであった。また、町人でも表通りに住んでいる者は絶対口にしなかったし、貧民の食べる魚と思っていた。天保三年二月~三月にかけて、鮪の大漁が続き、値段も三尺ものが一匹二百文で買えた。食べ切れず始末に困って醤油漬けにした。ヅケの起源で、これをネタに握り鮨として食べられるようになった。ヅケになるのは赤身だけで、脂分の多いトロは捨てるか、ネギマにして食べた。明治中期以降、赤身は刺身で食べられるようになったが、トロを刺身で食べるようになったのは戦後である。


 





 

 

0 コメント

2015年

6月

06日

20150606

おせっかいneco(ねこ)と

古川あつ子の料理でHappy♡


古川先生の熱い想いから始まった企画、独身者限定の料理教室です。6月6日は昔から習い事を始めるのに良い日とされています。注1)

 

集まった人たちの料理の腕は上がっていくこと間違いなし。

手軽でパーティーにも使える、栄養バランスの良い料理を、皆で楽しくつくりました。あつ子先生の得意な「祭ずし」もサプライズ登場し、その作り方も伝授していただきました。

 

気の合う仲間づくりの一歩が踏み出せたのが、参加者の雰囲気から感じられました。

 

次回は何が登場するか楽しみです。

 

 

注1)

「楽器の日」、「邦楽の日」、「いけばなの日」などのお稽古の日となっています。

その由来は?

「稽古始め」のしきたりがあげられます。楽器や舞踊など伝統芸能の「稽古始め」は6歳の6月6日がよいとされ、歌舞伎、能、狂言でも「初稽古(はつげいこ)」と呼んで、その日に稽古を始めるべしとしています。室町時代に能を大成した世阿弥(ぜあみ:1363〜1443)の著『風姿花伝(ふうしかでん)』では、その冒頭に習い事を始めるには数え七歳(つまり満6歳の年のうち)がもっとも良いと説いています。

1 コメント

2015年

5月

19日

20150519

第49回 温故塾

 

【日本雛祭考】

 

●雛祭の起源

 古代中国の風俗に、上巳(じょうし・じょうみ・三月初めの巳の日)、水辺に出て禊(みそぎ)を行い、酒を飲んで災厄を祓う行事があって、これから曲水の風流韻事に発展した。わが国にも上巳の風俗や曲水の韻事が輸入され、曲水の方は早く衰滅したが、上巳は国風の巳の日の祓いとして、中古、上流階級で行なわれた。これを〃上巳の祓〃といった。


 人形(ひとがた)をもって身体を撫でて、その撫物を水に流して穢れを祓う行事で、その人形から玩具の雛が発展し、室町時代から雛祭として行われるようになった。人形は形代

(かたしろ)・撫物(なでもの)ともいう。

 朝廷では陰陽寮から奉った人形をもって、天皇が身体を撫でられ、これに息を吹きかけられた後に、常用の御召物とともに下げ渡されるのを、侍臣の手で河原に運び、祓の式を行なって川瀬に流し捨てた。巳の日の祓については『源氏物語』の須磨の巻にも出てくる。このように祓の形代が、後の雛人形の根源であることは確かであろう。しかし、単なる児童の遊戯としての〃雛遊び〃(ひいなあそび)もあった。「雛遊び」は女児のままごとに等しいもので、後の〃雛祭〃とは、性質上自ら相違するものであったともいう。

 


●雛人形の変遷

 雛の形態は立雛(紙雛)と座雛の二種に分かれる。立雛はふつう、男雛は烏帽子・小袖、女雛は小袖帯で戦国期の衣装を着けていた。座雛は江戸初期の〃寛永雛〃が登場するまでは作られていなかったようだ。これは後水尾天皇が人形を愛好されたため、公家の間でもその風が高まり、寛永雛と称する美しい雛が制作されるようになり、それが嵯峨雛へ発展したのだという。


 当時、大名の奥などでは等身大の雛を飾ったものもあったが、正徳(1711~1715)の頃から〃享保雛〃といわれる小さな雛が現れ、さらに木目込人形が製作され精巧を競うようになった。この享保雛はもっぱら江戸を中心として行なわれたものだが、同時代より宝暦・明和へかけて、京都の公家階級に愛玩された雛に、山科雛と高倉雛がある。さらに期を同じくして現れたのが〃次郎左衛門雛〃である。

 次郎左衛門雛は宝暦・明和期に最も人気のあった雛で、その制作者は京都二条通りの岡田次郎左衛門といわれる。江戸へ輸入されて隆盛を誇った次郎左衛門雛も、安永年中(1772~1780)に江戸の原舟月が〃古今雛〃を出すにおよび、ようやく衰退し、寛政頃(1789~1800)には骨董視されて、大道の露店にまで曝されていたという。この古今雛に至って、江戸雛としての完全な作品が創製されたものと見てよい。今日の雛はこの古今雛の系統であるといわれる。


 古今雛に続いて人気を博したのは〃芥子(けし)雛〃であった。芥子雛とは寸余の精巧な雛で、文化・文政期の特に奥向(将軍家の大奥・大名旗本の奥)に迎えられ、上野池之端の七沢屋専助、中橋上槙町の橘屋信濃らの作るものは、雛人形愛好者の垂涎の的であった。当然、価格も超高価であり、一般にはその他の職人が製作した安価な品が喜ばれた。

 次郎左衛門雛は有職故実に沿った幕府御用達の雛であったが、享保雛は有職を無視し、次郎左衛門雛が丸顔・引目・鉤鼻であるのに対し、細顔で目も細く釣り上り気味であった。装束も次郎左衛門雛が束帯十二単衣に対し、金襴の袍(ほう)の前が離れ、女雛は五衣の裾の綿が極めて厚かった。この系統を町雛といって町家で用いられ、名高い原舟月の古今雛はこの系統に属する。


●雛壇と調度品

 雛壇の飾り方も、古くは毛氈などの上に紙雛を並べ、天勝(あまがつ・天児)・這子(ほうこ)を置いて、調度には駕籠・屏風・銚子提・行器(ほかい)・絵櫃などを並べるだけで、雛壇を設けることはなかった。なお、天勝・這子は祓のとき、これに穢れを移す人形で、嬬形(じゅぎょう)と呼んだ。

 元禄の頃から、雛の調度品が贅沢になり、金蒔絵の華麗な諸道具も制作されるようになった。檀の数は雛や調度品の増加に伴って寛延(1748~1750)ごろには二段、明和・安永ごろには三段飾りになったといわれる。江戸後期になると、内裏雛と称して雛壇の上に内裏の有様を現すようになり、左近桜・右近橘・隋身・女房・伶人・白丁・稚児などを加えるようになったが、調度品では反対に日常庶民の使用する箪笥・膳椀・化粧具・茶弁当などの諸道具を飾るようになった。この風は明治以降にも延長され、御殿の屋形を添えるようになった。


 男雛と女雛の飾り方には一定の定めはなかったが、多くは男雛を向って右にした。ところが、昭和御大典の後から、両陛下の高御座(たかみくら)と同様に、男雛を左に飾ることが提唱された。これを最上段に、左右に御伽犬を置き、雪洞を立て、内裏雛の中央前に三宝に徳利を供える。次檀は三人官女で、中央が坐り姿で盃を持ち、向って右は長柄、左は銚子を持つ立姿である。三段目は五人囃子で、これは能の位置と同じく、向って右から、扇を持って歌う者、次が笛、中央が小鼓、次が太鼓二人を並べる。四段目が隋身(矢大臣・門守ともいい、俗に左大臣・右大臣ともいう)を左右に、中央に御膳、その下向って左に橘、右に桜、その間に三人の仕丁を置く。


0 コメント

2015年

4月

21日

20150421

川崎平右衛門陣屋跡 鶴ヶ島市
川崎大明神(川崎平右衛門陣屋跡)

第46回 温故塾

 

「 代官 」

 

代官とは何をしたのか?
時代劇の悪影響で、代官=悪代官のイメージが付きまとうが、その真実の姿は?
四百万石といわれた天領(幕府直轄地)の民政を司り、農民を撫育し、年貢を徴収する。身分は百五十俵の旗本に過ぎなかったが、その責務は重く、絶えず農民の利と幕府の掟の板挟みとなって苦悩した歴史がある。


【代官】


徳川幕府の直轄地を〃天領〃といい、関ヶ原合戦前の徳川氏の支配地は百万石ほどであったが、家康の晩年には二百万石ぐらいに増加した。その後、諸大名の改易、減封があり、五代将軍綱吉の時代には四百万石に達した。これに旗本領の三百万石があったから、全国の領土三千万石のほぼ四分の一が、幕府の直接支配下におかれることになった。

 四百万石は、関東地方で百万石、奥羽・越後・佐渡で九十万石、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃・伊豆の六カ国で六十万石、近畿地方で六十万石、九州で二十万石、中国地方で十八万石に分かれ、ほかに中部・北陸・四国などに散在していた。直轄地の支配は、都市では町奉行、農村・山村では郡代・代官がこれに当たった。


【郡代と代官】

 郡代は支配地が十万石以上あり、関東・美濃・西国(九州)・飛騨にあった。代官は五~七万石ほどの支配地があり、初期には七十名以上いたが、しだいに減って四、五十名ぐらいになった。関東郡代として有名なのが伊那備前守忠次で、伊那氏は代官頭として寛政時代の改易まで歴代にわたり郡代を世襲した。

 郡代も代官も職権と職責はほとんど同じである。郡代の御役高は四百俵高で、代官は百五十俵高である。役所を陣屋(代官所)といい、地方(じかた)と公事方に分かれて事務を統括した。地方とは租税(年貢徴収)と一般民政で、公事方とは裁判等を司る。郡代は布衣(六位)、代官は御目見(将軍拝謁)の旗本であった。


【代官所の機構】

  五万石級の代官には、元締二人、手付もしくは手代が八人、書役二人、侍三人、勝手賄一人、足軽一人、中間十三人の計三十人が属していた。手付は小普請の御家人から採用し、手代は町人や百姓で適役の者を採用した。手付・手代とも御勘定所へ伺いを出し、採用の認可を得る。(手付・手代の人数はその支配地の大きさに準拠する)

 元締 手付・手代のうち事務に精通した古参から選ばれた。手付は御抱席で五十俵高、役扶持三人扶持からあり、手代は同じく御抱席で三十俵二人扶持まである。代官の補佐役であり、正式な職階(地位)ではない。

 手付 御抱席の小普請役は三十俵三人扶持、小普請役格は三十俵三人扶持から二十俵二人扶持まである。譜代の御家人であれば、手付を辞めれば元の小普請となる。御抱席は一代限りであるが、本人が死亡や退隠した場合、本人の嗣子を充てるので世襲と同じである。

 手代 二十両五人扶持を給され、両刀を帯して羽織袴であるが、罷めれば元の庶民である。手代で抜群の功績があった者が抜擢されて手付になることがあり、これは幕臣として三十俵二人扶持を給される。

 書役 手代の嗣子の事務見習の者のうち熟達した者を、郡代・代官が勘定奉行に請願して書役とするもので、末は手代に上がる。五両一人扶持である。

 侍 三両一人扶持で用人を勤める。三一(さんぴん)という渡り用人である。

 勝手賄 代官所の賄いを行なうもので、五両一人扶持である。

 足軽 三両一人扶持で、門番などをしている。

 中間 二両一人扶持で雑用をこなし、代官や手付・手代の供に従う。


【代官の職務】

 代官の最も重要な仕事は、いうまでもなく租税(年貢)の徴収である。管轄する郡村の高(生産高)を明記したものを「御高帳」といい、新しく任命された代官は、前代官に交渉して、これを受領する。租税にあたっては、その土地の肥痩、灌漑の便否、地形、地位などを調べ、予め田畑を上・中・下・下々の等級に分け、一反歩の公定収穫高を定める。これを石盛といい、上田は一石五斗、中田は一石三斗、下田は一石一斗、上畑は一石三斗、中畑は一石一斗、下畑は九斗が一応の基準となっていた。こうした村々の地種・石盛を決定するのが「検地」であり、これを実施するのが代官や手付・手代の重要な仕事であった。


【名代官たちの苦悩】

 代官の職務は、天領の領民を撫育し、勤勉を督励して、定められた年貢を不足なく、期限内に完納させることが最重要である。それゆえ、名代官といわれた人たちの民政には、それなりの限界があった。代官として領民への「仁政」は、幕府に対しては「不忠」となることが生じる。そうした名代官の苦悩の軌跡を追ってみよう。


井戸平左衛門正朋(寛文十一~享保十八年・1671~1733)

 平左衛門正朋は、世に〃芋代官〃として有名である。二百俵取の大番士であったが、元禄十五年九月に勘定役に昇進した。ひたすら職務に励み、模範的な役人として勤めていた。享保十六年(1731)六月、黄金二枚を賜り表彰を受け、このまま平穏な余生を送ろうとしていた矢先、突然、江戸から三百里、旅程一ヶ月の石見国大森代官を命じられた。正朋は着任するや早々に領内を巡視し、農民の生活が予想より窮乏していることを知ると、自らの私財を投げ出し、富農からも義捐金を募って、他国から米や雑穀を買い入れ窮民に配給した。


 大森銀山領は、百五十三カ村、総高六万八百石、俗に銀山六万石といわれた地域である。正朋は領内の治安をできるだけ保っていこうと細かい気配りを見せた。時あたかも西日本一帯にひろがる享保大飢饉の前夜であった。翌十七年は春先から天候が悪化、ウンカやイナゴの大群が発生して、大虫災がはじまった。のちに「中国、西国餓死十万九千」という未曾有の惨状となる。

 正朋は日夜、飢饉対策に取り組んだが、尋常のやり方では救済することができず、ことは一刻を争う危険な状態であった。正朋は決断し、幕府の許可なく陣屋の倉を開いて飢民に米を配った。配下の者が幕命を待つべきであると忠告すると、正朋は「今から公儀の沙汰を待っているのでは、往復二ヶ月も掛ってしまう。それでは間に合わない」と、決然と「米ばらい」を実行したという。併せて、各村々に免税を行ない、正朋は善政と思えば、どしどし勇気をもって実施した。

 その頃、大森の曹洞宗栄泉寺に参拝し、住職との雑談で「石見のような痩地でも、何とかできる食物はないものか」と嘆息したところ、ちょうど、その時、寺に滞在していた泰水という雲水から「さつま芋」の話を聞いた。正朋は、さっそく泰水に種芋の入手を頼んだ。泰水は苦難の末に種芋十六貫を手に入れ、石見国に戻ってきた。正朋はこれをさっそく領内に配布し、さつま芋の栽培に乗り出した。かくて、石見の芋はしだいに中国地方にひろがり、農民の主食として飢饉の食糧として貴重なものになったのである。甘藷先生こと青木昆陽が、享保二十年(1735)関東にさつま芋を広める三年前、すでに正朋は凶荒対策として石見国で実践していたのだ。このため西日本に猛威をふるった大飢饉のなかで、大森銀山領だけは一人の餓死者も出さなかった。


 しかし、正朋が幕府の許可を得ずに「米ばらい」をした行為は、代官自ら幕府の規則を破ったことであり、たとえ〃善政〃であっても黙認できない。享保十八年五月、幕府は代官を罷免し、正朋に備中笠岡の陣屋で待機するように通達した。笠岡に着いた正朋は幕命を待たず、同月二十六日に自刃して果てた。

 わずか二年間の代官職だったが遺した功績は大きかった。享年六十二。


川崎平右衛門定孝(元禄七年~明和四年・1694~1767)

 農民出身で、代官を経て勘定吟味役まで昇進したのが、川崎平右衛門定孝である。武蔵国多摩郡押立村(現・府中市)の名主の子に生まれた平右衛門は、若い頃から荒地の開墾にすぐれた手腕を発揮し、竹木樹芸の御用も承るなど、その生活はなかなか豊かであった。一面では、私財を投じて貧窮の農民たちを助けるなど、篤農家として農民の信頼も厚かった。


 享保六年、大岡忠相の掛りで武蔵野新田の開発を命じられ、これを完成させた。元文三年(1738)、大凶作で農村が困窮していた。武蔵野新田でも、本村から移住して開墾に従っていた「出百姓」たちもすっかり動揺し、丈夫な男たちは江戸や他の町に日雇稼ぎに出かけてしまい、新田には老人・子供しか残っていないという始末であった。江戸や町屋の給金の方が、関東や東北地方で小作人をしているより、はるかに収入がよかったからである。(こうした状態は幕末まで続いた)

 関東代官の上坂安左衛門は大岡に相談し、早急に救民対策を打つことにした。そこで農民側の代表として平右衛門がえらばれた。平右衛門は下役二人を連れて、武蔵国の入間郡や多摩郡の新田を一軒一軒調べ歩き、生活状態を把握し、五段階に分けて救済の具体案を練った。元文五年、平右衛門は江戸に呼ばれ、大岡から「新田世話役」の名目で、役料三十人扶持が与えられた。

 平右衛門は農民の勤労意欲を盛上げるために、褒賞金を出したり、肥料なども一括して安く仕入れて、農民に分け与えた。新田の復興は困難ではあったが、農村事情に通じた平右衛門は村民と協力しながら、しだいに成果を挙げていった。平右衛門の開墾事業は、武蔵国多摩郡、高麗郡、入間郡におよび、ついに五百町歩の新田開発に成功した。


 延享元年(1744)七月、平右衛門は多年の功労によって「代官」に任ぜられた。五十一歳であった。やがて平右衛門は手腕を買われて、寛延三年(1750)美濃郡代支配下の本田陣屋に赴任、美濃国四万石を支配することになった。ここでは長良川の治水事業に実績を挙げたほか、美濃国山県郡深瀬村で農間渡世の生計を立てていた「蓙織」を見て、「蓙織より花蓙織の方が収入ももっと増えるだろう」と教え、入間郡坂戸村から熟練者を招いて技術を習熟させたという。平右衛門の民政は、農民出身らしく、農民の生活向上のために常に細かな配慮がなされていた。明和四年(1767)四月、功績によって勘定吟味役に昇進した。平右衛門の遺徳を偲んで、鶴ヶ島村三角原の陣屋跡には「川崎大明神」の石碑が建てられている。

 


0 コメント

2015年

4月

11日

20150410

【じもとサロン】

 

今回はゲストなしで、参加者と食事をしながらおしゃべりをした。

途中イタリアに行った高野夫妻がスカイプで参加。フィレンツェの町が見える丘の上の館からの中継でした。

イタリアについてまだ1週間。今日家具がついたけれど、電気水道はまだ。

なんかイタリアらしくていいですね。日本は効率的で、サービス精神が行き届いているのですが、イタリアが持つ家族的な雰囲気やおおらかさは失ってしまったような。

 

【食事】

おにぎらず、たまねぎソテー、スペアリブの黒酢煮ほか

 

0 コメント

2015年

4月

01日

20150401

necoの読書会

 

「蛍川・泥の河」 宮本輝

 

 今回のテーマ本は、太平洋戦争直後の復興途上の日本を描いている。「蛍川」は芥川賞受賞作で北陸富山、「泥の河」は太宰治賞受賞作で大阪が舞台となっている。

共に映画にもなっている作品である。

 

 幼いころの記憶を引っ張りだすと、その情景がうっすらと見えるような気になり、貧しかった日本を思い出した。今では目にすることのできない、粗野でたくましい男とそれを支える女性と子どもたちがいた。

 楽しい話ではないが、貧しさと死が身近にあったセピア色の情景が、心に残った。

参加者の感想文は、こちらへ

 

 

0 コメント

2015年

3月

25日

20150325

パソコン教室

 

【 栞をつくる 】

 

自分の好きなものをテーマに、ワードで栞をつくりました。

 

1.ワードを立ち上げる。

 

2.挿入 → 図形 → 角丸四角形 で栞の形をつくる 

 


 

3.挿入 → 図 → ピクチャーにある画像を選ぶ → 挿入

 

4.画像をクリック → 図ツール → 文字列の折り返し → 前面 → 角丸四角景の中に自分の好みで配置する

 

5.印刷 → 切り抜く → ラミネートフィルムの間に入れ → 圧着する

 

6.1つ1つをハサミで切りぬく

 

7.最後に、パンチで穴を1つ開け、リボンをつけて完成

 

簡単なワードのスキルですが、

自分で作ったお気に入りの栞で、本を読むのはいかがですか?

 

(necoのパソコン教室は、自分がやりたいことをする教室です)

0 コメント

2015年

3月

17日

20150317

温故塾 【江戸の三大改革】


 江戸幕府の財政再建の改革として、教科書で称賛されているが、途中で改革は頓挫して、当人も失脚している事実をどう解釈するのか?

 現在の日本の財政の危機的状況と似ている江戸時代の財政立て直しの改革は、どのようなものだったか?温故知新塾の今井塾長の解釈を楽しみました。

【改革という錯覚】

 改革とは、世の中が行き詰まり、停滞し、閉塞感にとらわれた状態を打ち破って、新しい活力を生み出すべき意義がなくてはならない。それは誰もが〃改革〃というものに抱く期待感であろう。現代においても、〃改革〃という字句は氾濫している。いわく、政治改革、農業改革、行政改革、年金改革などなど。それらのすべてが、現在よりも正しいもの、すぐれたものに改められるとは、いまや誰も考えてはいないだろう。

 では改革とは、いったい誰のために、何のための改革なのか、改革という美名に隠された改革主導者の意図は何であったのか。江戸の三大改革といわれる、享保の改革、寛政の改革、天保の改革を見直し、検討を加えながら、それらの改革の真相を追ってみよう。

 すると、面白いことに、これら三大改革はすべて「倹約政治」であり、いずれも失敗に帰していることであり、その改革主導者がみな失意の晩年を送っていることである。これは大いに考えてみなければならないことだろう。

 

【享保の改革と水野忠之】

 八代将軍吉宗が行なった享保の改革は、その後の改革の手本になった〃善政〃といわれている。しかし、その中身を検討すると、そう手放しで褒められたものではない。吉宗の改革の狙いは、幕府財政の建て直し、武士階級の経済救助、および綱紀の粛正にあったといえる。

 吉宗は「倹約令」を発布し、極端な経費節減をはかった。吉宗は質素倹約を最高の美徳と信じ、身をもって実行して紀州藩の財政建て直しを成し遂げた。その成功体験を幕府財政の建て直しに持ち込んだのである。

 次に財政の基盤となる「米租(年貢)の増徴」である。天領(幕府直轄地)の年貢率を引き上げ、新田開発を促進して増収をはかった。享保七年には諸大名に領地一万石につき、百石の割合で「上米」(あげまい)を命じ、これを九年間も続けた。この年貢米増徴に活躍したのが、有名な「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と放言した勘定奉行の神尾若狭守春央である.

 

いま一人忘れてならないのが、水野和泉守忠之である。水野は勝手掛兼任の老中として、吉宗の享保改革の実質的執行者であった。吉宗と忠之のコンビで改革を推し進めた結果、幕府の財政はようやく好転し始め、享保十七年(1732)以後の十年間に、米四万八千石、金三十五万四千両、寛保二年(1742)以後の十年間に米七万五千石、金九十六万両という黒字を計上するにいたった。

 たしかに財政再建には成功したが、これは年貢率引上げによる農民からの苛酷な収奪の結果であり、幕府への一方的な富の集積であった。そのうえ、厳しい倹約令を一般市民まで徹底させて、豪奢な家作や衣服、贅沢品などを禁止し、風俗の矯正まで踏み込んだのだから、世の中に金がまわらず、不景気になるのは当然であった。

 水野忠之の精勤もあって、享保十三年には将軍の日光参詣の費用も出来る余裕も出来た。然るに享保十五年、水野は突然、吉宗から御役御免を言い渡される。原因は諸説があるが、財政建て直しの成功が水野一人の手柄に見られるのが、吉宗には面白くなかったらしい。

 

吉宗の政治には、足高の制、刑法の制定、人材登用、防火組織の整備、養生所設置、洋書の輸入の緩和、実学の奨励等々、見るべき点が多い。しかし、基本的には復古理想主義であり、経済面では米中心の重農主義で、目覚しく発展する商業活動を抑圧した。「倹約令」を武士社会ばかりでなく、農・工・商の市民社会にまで強制し、とてつもない不景気をもたらしたのである。

 

【田沼意次の政治】

 田沼時代は明和四年(1767)から天明六年(1786)の約二十年間をいう。今日、高等学校の教科書をみると、積極的な商業資本を利用した結果、一般に賄賂が横行した「賄賂政治」の時代と説明されている。では、田沼はどんな政治を行なったのか。

 一、専売制度の拡張(銅・鉄・真鍮などを幕府専売とし、特定商人に座を組織させた)。

 二、株仲間の積極的公認(運上金・冥加金の徴収)

 三、長崎貿易の制限緩和(俵物などの輸出)

 四、南鐐二朱銀の鋳造(秤量貨幣から表示貨幣へ、経済の潤滑化)

 五、印旛沼、手賀沼の干拓計画

 六、蝦夷地開発計画(鉱山資源の発掘)

 以上が主な政策である。専売制度や株仲間の公認は無用な業界の競争を抑えて、価格の安定化をはかり、商業資本を活発化させて運上金・冥加金の増収をはかったものである。


田沼の政治は商業活動を促進した重商主義といえよう。この商業重視の関係から〃賄賂政治〃を横行させたといわれるが、それを証明する根拠は甚だ希薄であり、その多くは後世の偽作や創作が多い。よく例に挙げられる松浦静山の『甲子夜話』は六十年後に書かれた記事だし、田沼失脚当時、多く出された川柳・狂歌の類は、田沼の政敵・松平定信一派が意図的にバラ撒いた観がある。

 

天明四年、意次の嫡男で若年寄山城守意知が城中で暗殺され、同六年田沼の最大の庇護者十代将軍家治が死去すると、一気に田沼排斥の狼煙が上がる。十一代家斉の擁立に協力した田沼は、家斉の父一橋治済(はるさだ)の裏切りにあい、八月、ついに老中を罷免され失脚した。相良城は破壊され、五万七千石は没収。田沼家を継いだ孫の意明にはたった一万石が与えられただけであった。

 

【寛政の改革と松平定信】

 田沼の排斥に成功した松平定信だが、老中就任は翌天明七年六月になってからであった。定信の改革は吉宗の改革を目標とした復古理想主義にあり、商業活動を抑圧して、農業を主体とする重農政策であった。そして、またもや「倹約政治」の復活でもあった。

 一、倹約令 (贅沢品の取り締り、祭礼の縮小など)

 二、棄捐(きえん)令 (旗本御家人の借金帳消し)

 三、旧里帰農令 (帰村する農民へ旅費支給・農村人口の確保)

 四、囲米の制 (社倉・義倉の設置)

 五、七分金積立 (町費用を倹約して積立)

 六、寛政異学の禁 (朱子学以外は禁止)

 七、人足寄場 (無宿人・軽犯罪人の更生施設。長谷川平蔵の提案)

 八、文武の奨励

 以上である。倹約令はともかく、ひどいのは棄捐令である。これは旗本御家人の札差からの借金を帳消しにする乱暴な法令で、このため札差は貸金を拒否するようになり、かえって旗本御家人を苦しめることになった。

 

定信の意気込みとは裏腹に改革は失敗し、就任六年で老中罷免。この時の狂歌が「それみたか 余り倹約 なす故に おもひがけなき 不時の退役」と痛烈である。いかに民衆が定信を嫌っていたかうかがえる。以後、幕閣に残った定信のブレーンが政権を担当したが行き詰まり、なんと田沼政治(株仲間の復活・運上金など)のことごとくを復活させている。

 

三十六歳で隠居した定信は、晩年の文政十二年三月の大火事で、上屋敷、中屋敷、下屋敷を焼失し、仕方なく本家筋の松山候(伊予・松平家)の屋敷に居候の身となり、同年五月そこで死去した。七十二歳だった。世間では「十万石の宿なし」と酷評した。大名の隠居で親類の家で死んだというのは、この定信のほかにいない。

 

【大御所政治と水野忠成】

 十一代家斉はすこぶる強健で、将軍在位は天明七年(1787)から天保八年(1837)の五十年間におよび、なお隠居して西の丸で四年、大御所として君臨した。妻妾四十三人、五十五人の子供(半数近くは早世)を儲け、家斉時代は江戸の爛熟期といわれたほど、異常な繁栄ぶりをみせたが、けっして政治が立派だったというわけではない。

 

文化・文政・天保の時代、家斉を取囲む彼ら寵臣たちによって、幕政が執り行われたが、情実・縁故・賄賂によって人事が動かされ、綱紀は紊乱し、その腐敗は甚だしいものがあった。

家斉や大奥の絢爛豪華な生活は贅美のかぎりを尽くし、その寵臣たちも揃って豪勢で贅沢な生活を享受した。たしかに歪な政治ではあったが、不思議なことに、江戸の町が空前の繁栄にわいた時代でもあった。寺門静軒の『江戸繁盛記』はそんな情景を紹介している。歌舞伎、相撲、寄席、遊郭(吉原)、浅草、縁日や祭礼、両国の花火、食物店の数々、日本橋魚市場等々…江戸市民の活況ぶりが如実に語られている。文化面でも、滝沢馬琴、為永春水、鶴屋南北、式亭三馬が活躍し、『江戸名所図会』(斉藤月岑)や『大日本沿海実測図』(伊能忠敬)の完成もこの時代である。

 

【天保の改革と水野忠邦】

 家斉時代の後半、天保の大飢饉に見舞われ、各地で百姓一揆や米騒動が頻繁に勃発し、幕府の屋台骨を揺るがせた。一方、日本沿岸には外国船が出没。ロシアは通商を求め、米英は捕鯨船の薪炭水の補給地を求めてきた。この外患に幕府は右往左往し、文政八年(1825)に異国船打払令を出した。

 水野忠邦は享保の改革を推進した水野忠之の六代後裔で、早くから幕政に参与したいと願い、多額の賄賂を使って唐津から浜松へ移封し、念願の老中に就任した。天保十二年一月、大御所家斉が死去し、十二代家慶の時代になると、忠邦は家斉の取巻き一派を追放して、〃天保の改革〃に着手した。忠邦もまた享保・寛政の改革を目標とした復古主義であった。その改革の政策とは、

 一、倹約令(贅沢品や初物の禁止)

 二、株仲間解散(物価引下げと在郷商人の統制)

 三、御用金と貨幣改鋳

 四、人返しの法(農民を強制的に帰村させる)

 五、西洋砲術の採用

 六、薪水給与令(異国船打払令の緩和)

 七、出版統制

 八、印旛沼の干拓

 九、上知令(江戸・大坂周辺の土地を幕府領とする)

 ここでも同じように「倹約令」である。彼は贅沢な菓子や衣類など徹底的に取り締った。庶民の娯楽の寄席を削減し、芝居小屋も一箇所に集中。金銀製品や贅沢品の摘発には市中に密偵を放って厳しく取り締った。当然のように、江戸の町は冬枯れの如き不景気風が吹き荒れ、失業者が増大した。

 

忠邦の命取りは、大奥まで「倹約令」を強いたことである。


将軍家慶が食事の時、「新生姜が付いてないが、どうしたことか」と尋ねた。水野に腹を立てていた大奥連中は「それは水野様が大奥の費用を削っているからです」と応え、ついでに忠邦の改革が庶民を苦しめている、と家慶に告げた。こうして次第に水野追放の気運が高まっていった。

 決定的だったのは「上地令」であった。江戸・大坂周辺の土地を強制的に幕府領に組み入れるというもので、これには大名・旗本が猛烈に反対した。

 天保十四年閏九月十三日、忠邦は突然、罷免された。書付には「其の方儀、御勝手向不行届の儀、之有り候に付、御役御免差控仰せ付けられる」とあり、ただの免職ではなく、差控の処分が付いていた。忠邦自身は清廉な男で、悪い人物ではなかったが、その抱負ほどの力量がなかったといえよう。


外交問題で老中再勤となったが、弘化二年九月にまた免職となった。

金座後藤三右衛門が貨幣改鋳にからんで水野への不正(献金)があったとされ、二万石減封の上、隠居謹慎を申渡された。

 

 

『源頼光公館土蜘作妖怪図』(早稲田大学図書館蔵)

 老中・水野忠邦による天保の改革で、質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受けた。江戸っ子歌川国芳は浮世絵でその反骨精神を示したとされている。怪しげな屋敷のなかで、武将源頼光と四天王がくつろいでいる。だが、頼光の背後には土蜘蛛がそのおぞましい姿をあらわし、闇のなかには無数の魑魅魍魎が跋扈する。表向きは土蜘蛛退治の物語を下敷きとしながらも、その実は時の天保の改革で、酷政を断行する為政者たち(水野忠邦も含まれる)とそれに怨嗟の声をあげる庶民たちの姿をやつした、きわどい諷刺画である。

 

 


0 コメント

2015年

2月

17日

20150217

【温故塾】

 

今回は江戸の盗賊伝。歌舞伎や講談に登場する盗賊、ヒーローのように扱われたりするが、実際はどうだったのか史実をさぐるお話しでした。

一部を紹介します。

 

 

 

【江戸盗賊伝】

 

 天正十八年(1580)小田原北条氏が滅んで、関東の地に徳川家康が入り、江戸を本拠として城下町の建設に着手した。慶長八年、家康が征夷大将軍に任じられ、名実ともに〃天下の覇者〃となると、江戸の町は諸国から人口が集中して急速にその規模を拡大した。

 そんな新興都市・江戸を狙って盗賊団が跳梁跋扈した。慶長三年三月には、はやばやと「辻斬盗賊」の法度が出ている。幕府は専ら治安維持に努めたが、戦国の余燼の消えない世相にあっては、なかなか取締りが容易でなかった。

何故なら、盗賊たちの前身は、多くは主家を失った浪人か、乱波、素波などであり、戦場働きに手馴れた者たちであったからである。

 


風魔ノ小太郎と三甚内

 江戸初期、名を馳せた大盗賊が風魔ノ小太郎である。かれは相州乱波の頭目で、北条氏に使われていたが、主家が滅んだので一党を率いて、江戸に潜入して盗賊を働いた。『北条五代記』には、小太郎は身の丈七尺二寸、筋骨逞しく、眼は逆さまに裂け、口も耳元まで裂けて四本の牙が突き出し、頭は福禄寿に似て、鼻高く、その音吐は五十町に響きわたった、とあるから、とんだ化け物だ。

 乱波・素波・軒猿・三つ者と呼ばれた忍びの者は、雇主に命じられて、敵陣に忍び込み、秘事をさぐり、人を殺傷し、民家に放火し、騒擾をおこす。しかし、雇主のないまま、それを行なえば、たんなる盗賊行為にすぎない。忍びの者は雇主の命令があるかないかで、手柄となるか、犯罪であるかに分かれるのだ。忍術伝書にも「忍術とは偸盗術(ちゅうとうじゅつ)なり」とあり、忍術と盗賊は紙一重なのである。

 幕府は小太郎一党を退治しようとしたが、なかなかこれが容易でない。そこで、懸賞金を出して訴人(密告)を奨励した。これに応じたのが高坂甚内という、もと甲州武田家の乱波である。甚内も盗賊を働いていたが、自分たちの縄張りを荒らす風魔一党が邪魔でならない。密告の懸賞金は慶長大判十枚(百両相当)で、過去の罪は問わないという条件だったので、密告がずいぶん流行ったらしい。武州大宮や日光街道小山宿には、常時、捕えた盗賊を磔にする三十六本の磔柱が立っていたという。

 高坂甚内は自ら率先して特別警備隊を案内し、かれの手下も手先となって働いた。さしもの風魔小太郎も逮捕され、慶長八年に処刑された。ライバルを蹴落とした甚内は、これ幸いとばかりまた盗賊を働いた。風魔一党の逮捕に功績があったとしても、何をしてもよいというものではない。かれも慶長十八年に捕えられて、浅草鳥越で処刑されている。

 そのころ、高坂甚内を含めて、〃三甚内〃と呼ばれる有名人がいた。一人は鳶沢甚内、もう一人が庄司甚内である。二人とも小田原浪人というが、乱波の流れに違いない。鳶沢は江戸に出て、盗賊宿をやっていたらしい。盗賊がはびこると、当然ながら盗品の始末するところが必要となる。つまり、贓品故売である。江戸周辺には、こんな盗賊宿がずいぶんあった。鳶沢は風魔一党の贓品を手掛けていたらしい。が、風魔一党が没落すると、いち早く転業し、幕府に願い出て、古着商の専売権を得た。簡単に許可が下りた。もしかすると風魔を売ったのは彼かもしれない。彼は手下をみな古着商にした。これがあたって、日本橋に鳶沢町という古着町ができた。のち名が改まって富沢町となり、呉服問屋の町になったところである。

 いま一人の庄司甚内は、女に目をつけた。慶長十七年諸所に散在する私娼窟を一箇所に集め、犯罪防止と売春対策をかねる目的をうたい、遊郭設置願いを出した。これに浪人取締りの一条を加える抜け目なさであった。元和三年に許可が下りた。これが日本橋葭原、いわゆる元吉原で、明暦大火ののち、新吉原へ移った。

 許可するとき、幕府ではちゃんと、武士・商人にかぎらず、不審の者があれば届出よ、といっている。鳶沢の古着商といい、庄司の遊郭設置といい、犯罪を取り締る当局としっかり提携していたのだ。

 

●義賊の出現・日本左衛門

 享保時代(1716~1735)に入ると、盗賊も集団をつくり、人を殺し、火をつける、といったことをやらなくなった。『甲子夜話』は「近時の盗人、みなかくの如き智術をもって、人を欺く習わしとなりたり。これまた風俗の一変なるべし」といっている。

 つまり、盗賊が知的行動をするように変貌したのである。その代表格が日本左衛門である。歌舞伎『青砥縞花紅彩画』(あおとのぞうしはなのにしきえ)では、日本駄右衛門となっているが、日本左衛門とも名乗ったことはない。盗賊仲間では尾張屋十右衛門などと称していた。本名は浜島庄兵衛、遠州金谷の尾州七里役所の足軽の子で、幼名を友五郎といった。子供のころから何をやっても抜群の才能があり、武芸の上達も早く、周囲の大人を驚かせた。その上、美少年だった。世間がチヤホヤするので、友五郎もしだいに天狗になっていく。あとはお定まりの酒・女・博奕に身を持ち崩し、転落への道を歩む。

 十七、八歳には強請・追剥を働き、いっぱしの悪党になっていた。父親に勘当された友五郎は、天竜川の西方、豊田郡貴本村に住みつき、名を庄兵衛と改め、手下を集めて近郷近村の資産家を荒しまわった。

 庄兵衛は手下に盗みを働く意義をこう宣言した。

「幼少から武家奉公に精を出し、禿頭になるまで忠勤を励んでみても、立身出世ができるものでもない。小商人や職人が朝の暗いうちから深夜まで懸命になって働いても、暮らしが成り立たない。だが、大町人や大百姓は別だ。やつらは莫大な金銀を貯え、何もしないのに年毎にその蓄積が殖えていく。不義不道は大町人、大百姓であるから、やつらから金銀を奪い取って、困窮人にも分け与え、われわれも一世の活計歓楽を極めたところで、何の罪科があるはずがない」と。

 つまりは〃義賊宣言〃である。日本左衛門一味はこんな論理を振り回して、東海道筋をつむじ風のごとく荒し回った。豪商・豪農はもちろん、諸大名・諸商人の現金輸送も襲った。庄兵衛は盗みに押入っても面体を隠さなかった。その扮装も、黒皮の兜頭巾に薄金の面頬、黒羅紗金筋入りの半纏に黒縮緬の小袖、黒繻子の小手脛当、銀造りの太刀をはき、手には神棒という六尺の棒を携えていたという。

 一味の手口は、押入った先々で家中の者を縛り上げるが、決して殺傷しなかった。駿府で商家へ押込みに入ったとき、夜廻りの同心が様子を怪しんで入ってきた。すると庄兵衛は床机にかけたまま、「大切な役目を守り、大勢の中に踏み込んで命がけで戦う健気さよ。こんな人にケガをさせてはならぬ」と、手下に命じて同心を縛りは上げ、そのまま盗るものを取って、悠々と引き揚げた。

 これだけ太々しいのは、芝居の科白ではないが、「盗みはすれども非道はせず」といった手前勝手な「義賊意識」をもっていたからであろう。・・・・・

 

0 コメント

2015年

2月

13日

20150213

【じもとサロン】

 

今年の3月末にイタリアへ戻り、ホテル開業の準備に入る高野夫妻の手料理、もちろんイタリア料理でイタリアワインも堪能したサロンでした。

 

高野夫妻は、自宅で下ごしらえしてきた食材を持ち込み、2時間前からnecoに来て料理の準備をしてくれました。チーズの香りのすばらしいパスタから始まった今回の「じもとサロン」。鶏肉の煮込み料理も大好評でした。地元カワタカ(県立川越高校)出身の隆義さんが10年居たイタリアの様子などをプロジェクターで映して解説が始まりました。イタリアへ渡った経緯やら、奥さまとの出会いなど、皆を楽しませる話術で、時を忘れての歓談になりました。ワインや日本酒を持ち込んでくれた人もいて、十分酔っぱらえたようで、それを見るのも楽しいものでした。

印象的だったのは、奥さまの貴代恵さんとの出会いを決定づけた、隆義さんのサービス精神でした。イタリアでのホテル業の成功は間違いないと皆確信しました。(フィレツェでオープンしたら、本サイトで紹介しますので、楽しみにしていて下さい。)

 

0 コメント

2015年

2月

04日

20150204

necoの読書会

 

「新解さんの謎」 著書:赤瀬川原平

 

辞書はどれを見てもあまり変わらない、収録語彙数の違いだと思っていたのが、裏切られた。参加者の言葉に対する意識は高く、皆それぞれに読み込んでいた。先日使わなくなっていた辞書を処分したばかりで、その中に「新明解国語辞典」があったような、残念。2012年10月にnecoの読書会で読んだ「舟を編む」(三浦しおん著)を思い出しながら、「新明解国語辞典」の内容について、感想を述べ合った。辞書を見るのは面白いと思うか、単なる言葉を理解をするための道具としてみるのかで活用に差が出てくるようだ。ネットで使う辞書もその出典を意識してみようと思う。感想は、辞書と著者の赤瀬川原平に関するものに別れた。先日観たテレビの特集でも取り上げていた、芸術家で作家の赤瀬川原平を理解するのに、もっと著作を読んでみよう!  感想はこちらへ

0 コメント

2015年

1月

21日

20150120

【温故塾】

 

今月のテーマは「日本大相撲史」

講師の今井塾長は高校の相撲部に所属し、県代表にもなった相撲通。相撲部屋でプロ力士と対戦したこともあると語り、話に熱が入った。

以下は温故塾教材の抜粋です。

 

「相撲の起源」

相撲は『古事記』の国譲りの神話を起源としている。天孫民族(高天原系)が出雲族の大国主神に建御雷神(たてみかづちのかみ)を使わして帰順をうながしたが、

大国主神の子建御名方神は勇武に秀でた神であったことから、建御雷神と力競べによって決めようと申し出て、両神が出雲国伊那佐の浜で争い、建御名方神が敗れて信濃国諏訪へ逃げ去り、諏訪明神の祭神になったという伝説である。

 神話のほかには、『日本書紀』の垂仁天皇七年七月七日の野見宿禰と当麻蹴速の力競べの記事がある。当麻村の蹴速が日頃から「自分より強い者がいたら力捔(ちからくらべ)をしたい」と豪語しているといううわさが垂仁天皇の耳に入った。すると、「いや、出雲の国に野見宿禰という勇者がいる。力捔(ちからくらべ)をさせてみたらどうか」と進言する者があったので、さっそく二人を呼び出し、〃力捔〃が行なわれた。

「二人相対立し各々足を挙げ相蹴る。即ち当麻蹴速の脇骨を蹴折り、亦その腰を踏み折りて之を殺す。故に当麻蹴速の地を奪い悉く野見宿禰に賜う」

 凄惨な死闘に他ならないが、これが最初の相撲の記録で、のちに野見宿禰が〃相撲の神様〃として崇められる由縁である。・・・・・

 


 

「神事相撲から節会相撲へ」

相撲は宮中儀式に取り入れられる。聖武天皇の神亀五年(728)には、全国に相撲人(力士)募集のための使者・相撲部領使(すまいことりつかい)を派遣し、ついで天平六年(734)七月七日に相撲の天覧があり、宮中儀式の一つである〃相撲節会〃の端緒となった。・・・・・

 

「武家の相撲」

王朝の相撲節会が廃絶して三年目の安元二年(1176)。伊豆・相模の武士が天城山脈で狩りを終えて、慰労の宴が開かれた。その宴のさなか、いずれも力自慢・腕自慢の面々が頼朝公の御前で相撲を取ることになった。なかでも工藤祐経の腹心である大庭の舎弟俣野五郎景久が並みいる強豪を総ナメにして得意満面。そこへ伊東次郎祐親の嫡子河津三郎祐泰が登場し、二人はがぶり四つに組み合った。河津は俣野をぐいと持ち上げると、俣野は苦し紛れに足を河津の股にまいて反り技をみせたが、河津はかまわずゴボウ抜きに差し上げ、エイとばかりに俣野を投げ捨てた。「河津掛け」という手であるが、『曽我物語』によれば、これは河津の掛けた技ではなく、俣野が掛けた反り技であったとある。・・・・・

 

「勧進相撲・野相撲」

相撲が武術から離れ、庶民の相撲として発展したのは、節会相撲以来、地方に残存して、寺社の農耕信仰を中心に行なわれた奉納相撲や草相撲に負うところが多い。この寺社を中心として行なわれた相撲から「勧進相撲」が芽生えてくる。勧進とは、神社・寺院・橋などの建立・修復のために、人に勧めて金品を募集することで、そのため臨時の遊覧の技(芸能)を演じ、観衆の見物料または喜捨を徴するのが、興行物に「勧進」の二字を冠したものである。

 足利時代には、勧進猿楽・勧進田楽が盛んに行なわれ、勧進能・勧進相撲も神社の祭礼にしばしば催されている。 ・・・・・

 

「江戸の黄金期・寛政時代」

・・・・寛政年間には最高潮の隆盛期を迎えることになる。それは寛政三年(1791)六月十一日、江戸城吹上御苑で挙行された十一代将軍家斉の上覧相撲である。谷風と小野川という両横綱の激突、無敵の大関雷電の登場などが、江戸の人士を熱狂の渦中に巻き込んだのである。まさに〃寛政の黄金時代〃の到来であった。

 

「土俵の変遷」

相撲の勝負を争う土俵の設置は江戸時代に入ってからで、それ以前にはなかった。野相撲では空地に集った人々の人垣がそのまま勝負の場であったが、しだいに一定の区画を定めて相撲を取るようになっていった。井原西鶴の『本朝二十四不孝』の挿絵には、四方に俵で囲んだ土俵が描かれている(別紙参照)。これが円型に変化した時代は不明だが、相撲興行を重ねていくうちに、観客が見物しやすいように土俵を高く土盛りしていったのだろう。享保年間(1716~1735)には、ほぼ現在の土俵の祖型が出来上がった。

 

「相撲制度の確立」

相撲制度の第一は土俵の設置であり、次に相撲技術の整理であった。この時代に相撲技「四十八手」が制定され、禁じ手と明確に区分している。さらに相撲年寄制の確立、相撲部屋の創立があり、寛政元年(1789)十一月の「横綱」の誕生となる。

横綱とは、四手を垂れた白麻で編んだ太い綱で、大関の力士で力量・技量抜群の者に対して、相撲の司家吉田追風から授与され、土俵入りの際、化粧回しの上にしめる。本来は大関のうちで横綱をしめることを許された称号であり、現在のように地位ではなかった。

 

 

0 コメント