20150120

【温故塾】

 

今月のテーマは「日本大相撲史」

講師の今井塾長は高校の相撲部に所属し、県代表にもなった相撲通。相撲部屋でプロ力士と対戦したこともあると語り、話に熱が入った。

以下は温故塾教材の抜粋です。

 

「相撲の起源」

相撲は『古事記』の国譲りの神話を起源としている。天孫民族(高天原系)が出雲族の大国主神に建御雷神(たてみかづちのかみ)を使わして帰順をうながしたが、

大国主神の子建御名方神は勇武に秀でた神であったことから、建御雷神と力競べによって決めようと申し出て、両神が出雲国伊那佐の浜で争い、建御名方神が敗れて信濃国諏訪へ逃げ去り、諏訪明神の祭神になったという伝説である。

 神話のほかには、『日本書紀』の垂仁天皇七年七月七日の野見宿禰と当麻蹴速の力競べの記事がある。当麻村の蹴速が日頃から「自分より強い者がいたら力捔(ちからくらべ)をしたい」と豪語しているといううわさが垂仁天皇の耳に入った。すると、「いや、出雲の国に野見宿禰という勇者がいる。力捔(ちからくらべ)をさせてみたらどうか」と進言する者があったので、さっそく二人を呼び出し、〃力捔〃が行なわれた。

「二人相対立し各々足を挙げ相蹴る。即ち当麻蹴速の脇骨を蹴折り、亦その腰を踏み折りて之を殺す。故に当麻蹴速の地を奪い悉く野見宿禰に賜う」

 凄惨な死闘に他ならないが、これが最初の相撲の記録で、のちに野見宿禰が〃相撲の神様〃として崇められる由縁である。・・・・・

 


 

「神事相撲から節会相撲へ」

相撲は宮中儀式に取り入れられる。聖武天皇の神亀五年(728)には、全国に相撲人(力士)募集のための使者・相撲部領使(すまいことりつかい)を派遣し、ついで天平六年(734)七月七日に相撲の天覧があり、宮中儀式の一つである〃相撲節会〃の端緒となった。・・・・・

 

「武家の相撲」

王朝の相撲節会が廃絶して三年目の安元二年(1176)。伊豆・相模の武士が天城山脈で狩りを終えて、慰労の宴が開かれた。その宴のさなか、いずれも力自慢・腕自慢の面々が頼朝公の御前で相撲を取ることになった。なかでも工藤祐経の腹心である大庭の舎弟俣野五郎景久が並みいる強豪を総ナメにして得意満面。そこへ伊東次郎祐親の嫡子河津三郎祐泰が登場し、二人はがぶり四つに組み合った。河津は俣野をぐいと持ち上げると、俣野は苦し紛れに足を河津の股にまいて反り技をみせたが、河津はかまわずゴボウ抜きに差し上げ、エイとばかりに俣野を投げ捨てた。「河津掛け」という手であるが、『曽我物語』によれば、これは河津の掛けた技ではなく、俣野が掛けた反り技であったとある。・・・・・

 

「勧進相撲・野相撲」

相撲が武術から離れ、庶民の相撲として発展したのは、節会相撲以来、地方に残存して、寺社の農耕信仰を中心に行なわれた奉納相撲や草相撲に負うところが多い。この寺社を中心として行なわれた相撲から「勧進相撲」が芽生えてくる。勧進とは、神社・寺院・橋などの建立・修復のために、人に勧めて金品を募集することで、そのため臨時の遊覧の技(芸能)を演じ、観衆の見物料または喜捨を徴するのが、興行物に「勧進」の二字を冠したものである。

 足利時代には、勧進猿楽・勧進田楽が盛んに行なわれ、勧進能・勧進相撲も神社の祭礼にしばしば催されている。 ・・・・・

 

「江戸の黄金期・寛政時代」

・・・・寛政年間には最高潮の隆盛期を迎えることになる。それは寛政三年(1791)六月十一日、江戸城吹上御苑で挙行された十一代将軍家斉の上覧相撲である。谷風と小野川という両横綱の激突、無敵の大関雷電の登場などが、江戸の人士を熱狂の渦中に巻き込んだのである。まさに〃寛政の黄金時代〃の到来であった。

 

「土俵の変遷」

相撲の勝負を争う土俵の設置は江戸時代に入ってからで、それ以前にはなかった。野相撲では空地に集った人々の人垣がそのまま勝負の場であったが、しだいに一定の区画を定めて相撲を取るようになっていった。井原西鶴の『本朝二十四不孝』の挿絵には、四方に俵で囲んだ土俵が描かれている(別紙参照)。これが円型に変化した時代は不明だが、相撲興行を重ねていくうちに、観客が見物しやすいように土俵を高く土盛りしていったのだろう。享保年間(1716~1735)には、ほぼ現在の土俵の祖型が出来上がった。

 

「相撲制度の確立」

相撲制度の第一は土俵の設置であり、次に相撲技術の整理であった。この時代に相撲技「四十八手」が制定され、禁じ手と明確に区分している。さらに相撲年寄制の確立、相撲部屋の創立があり、寛政元年(1789)十一月の「横綱」の誕生となる。

横綱とは、四手を垂れた白麻で編んだ太い綱で、大関の力士で力量・技量抜群の者に対して、相撲の司家吉田追風から授与され、土俵入りの際、化粧回しの上にしめる。本来は大関のうちで横綱をしめることを許された称号であり、現在のように地位ではなかった。