20150217

【温故塾】

 

今回は江戸の盗賊伝。歌舞伎や講談に登場する盗賊、ヒーローのように扱われたりするが、実際はどうだったのか史実をさぐるお話しでした。

一部を紹介します。

 

 

 

【江戸盗賊伝】

 

 天正十八年(1580)小田原北条氏が滅んで、関東の地に徳川家康が入り、江戸を本拠として城下町の建設に着手した。慶長八年、家康が征夷大将軍に任じられ、名実ともに〃天下の覇者〃となると、江戸の町は諸国から人口が集中して急速にその規模を拡大した。

 そんな新興都市・江戸を狙って盗賊団が跳梁跋扈した。慶長三年三月には、はやばやと「辻斬盗賊」の法度が出ている。幕府は専ら治安維持に努めたが、戦国の余燼の消えない世相にあっては、なかなか取締りが容易でなかった。

何故なら、盗賊たちの前身は、多くは主家を失った浪人か、乱波、素波などであり、戦場働きに手馴れた者たちであったからである。

 


風魔ノ小太郎と三甚内

 江戸初期、名を馳せた大盗賊が風魔ノ小太郎である。かれは相州乱波の頭目で、北条氏に使われていたが、主家が滅んだので一党を率いて、江戸に潜入して盗賊を働いた。『北条五代記』には、小太郎は身の丈七尺二寸、筋骨逞しく、眼は逆さまに裂け、口も耳元まで裂けて四本の牙が突き出し、頭は福禄寿に似て、鼻高く、その音吐は五十町に響きわたった、とあるから、とんだ化け物だ。

 乱波・素波・軒猿・三つ者と呼ばれた忍びの者は、雇主に命じられて、敵陣に忍び込み、秘事をさぐり、人を殺傷し、民家に放火し、騒擾をおこす。しかし、雇主のないまま、それを行なえば、たんなる盗賊行為にすぎない。忍びの者は雇主の命令があるかないかで、手柄となるか、犯罪であるかに分かれるのだ。忍術伝書にも「忍術とは偸盗術(ちゅうとうじゅつ)なり」とあり、忍術と盗賊は紙一重なのである。

 幕府は小太郎一党を退治しようとしたが、なかなかこれが容易でない。そこで、懸賞金を出して訴人(密告)を奨励した。これに応じたのが高坂甚内という、もと甲州武田家の乱波である。甚内も盗賊を働いていたが、自分たちの縄張りを荒らす風魔一党が邪魔でならない。密告の懸賞金は慶長大判十枚(百両相当)で、過去の罪は問わないという条件だったので、密告がずいぶん流行ったらしい。武州大宮や日光街道小山宿には、常時、捕えた盗賊を磔にする三十六本の磔柱が立っていたという。

 高坂甚内は自ら率先して特別警備隊を案内し、かれの手下も手先となって働いた。さしもの風魔小太郎も逮捕され、慶長八年に処刑された。ライバルを蹴落とした甚内は、これ幸いとばかりまた盗賊を働いた。風魔一党の逮捕に功績があったとしても、何をしてもよいというものではない。かれも慶長十八年に捕えられて、浅草鳥越で処刑されている。

 そのころ、高坂甚内を含めて、〃三甚内〃と呼ばれる有名人がいた。一人は鳶沢甚内、もう一人が庄司甚内である。二人とも小田原浪人というが、乱波の流れに違いない。鳶沢は江戸に出て、盗賊宿をやっていたらしい。盗賊がはびこると、当然ながら盗品の始末するところが必要となる。つまり、贓品故売である。江戸周辺には、こんな盗賊宿がずいぶんあった。鳶沢は風魔一党の贓品を手掛けていたらしい。が、風魔一党が没落すると、いち早く転業し、幕府に願い出て、古着商の専売権を得た。簡単に許可が下りた。もしかすると風魔を売ったのは彼かもしれない。彼は手下をみな古着商にした。これがあたって、日本橋に鳶沢町という古着町ができた。のち名が改まって富沢町となり、呉服問屋の町になったところである。

 いま一人の庄司甚内は、女に目をつけた。慶長十七年諸所に散在する私娼窟を一箇所に集め、犯罪防止と売春対策をかねる目的をうたい、遊郭設置願いを出した。これに浪人取締りの一条を加える抜け目なさであった。元和三年に許可が下りた。これが日本橋葭原、いわゆる元吉原で、明暦大火ののち、新吉原へ移った。

 許可するとき、幕府ではちゃんと、武士・商人にかぎらず、不審の者があれば届出よ、といっている。鳶沢の古着商といい、庄司の遊郭設置といい、犯罪を取り締る当局としっかり提携していたのだ。

 

●義賊の出現・日本左衛門

 享保時代(1716~1735)に入ると、盗賊も集団をつくり、人を殺し、火をつける、といったことをやらなくなった。『甲子夜話』は「近時の盗人、みなかくの如き智術をもって、人を欺く習わしとなりたり。これまた風俗の一変なるべし」といっている。

 つまり、盗賊が知的行動をするように変貌したのである。その代表格が日本左衛門である。歌舞伎『青砥縞花紅彩画』(あおとのぞうしはなのにしきえ)では、日本駄右衛門となっているが、日本左衛門とも名乗ったことはない。盗賊仲間では尾張屋十右衛門などと称していた。本名は浜島庄兵衛、遠州金谷の尾州七里役所の足軽の子で、幼名を友五郎といった。子供のころから何をやっても抜群の才能があり、武芸の上達も早く、周囲の大人を驚かせた。その上、美少年だった。世間がチヤホヤするので、友五郎もしだいに天狗になっていく。あとはお定まりの酒・女・博奕に身を持ち崩し、転落への道を歩む。

 十七、八歳には強請・追剥を働き、いっぱしの悪党になっていた。父親に勘当された友五郎は、天竜川の西方、豊田郡貴本村に住みつき、名を庄兵衛と改め、手下を集めて近郷近村の資産家を荒しまわった。

 庄兵衛は手下に盗みを働く意義をこう宣言した。

「幼少から武家奉公に精を出し、禿頭になるまで忠勤を励んでみても、立身出世ができるものでもない。小商人や職人が朝の暗いうちから深夜まで懸命になって働いても、暮らしが成り立たない。だが、大町人や大百姓は別だ。やつらは莫大な金銀を貯え、何もしないのに年毎にその蓄積が殖えていく。不義不道は大町人、大百姓であるから、やつらから金銀を奪い取って、困窮人にも分け与え、われわれも一世の活計歓楽を極めたところで、何の罪科があるはずがない」と。

 つまりは〃義賊宣言〃である。日本左衛門一味はこんな論理を振り回して、東海道筋をつむじ風のごとく荒し回った。豪商・豪農はもちろん、諸大名・諸商人の現金輸送も襲った。庄兵衛は盗みに押入っても面体を隠さなかった。その扮装も、黒皮の兜頭巾に薄金の面頬、黒羅紗金筋入りの半纏に黒縮緬の小袖、黒繻子の小手脛当、銀造りの太刀をはき、手には神棒という六尺の棒を携えていたという。

 一味の手口は、押入った先々で家中の者を縛り上げるが、決して殺傷しなかった。駿府で商家へ押込みに入ったとき、夜廻りの同心が様子を怪しんで入ってきた。すると庄兵衛は床机にかけたまま、「大切な役目を守り、大勢の中に踏み込んで命がけで戦う健気さよ。こんな人にケガをさせてはならぬ」と、手下に命じて同心を縛りは上げ、そのまま盗るものを取って、悠々と引き揚げた。

 これだけ太々しいのは、芝居の科白ではないが、「盗みはすれども非道はせず」といった手前勝手な「義賊意識」をもっていたからであろう。・・・・・