20150421

川崎平右衛門陣屋跡 鶴ヶ島市
川崎大明神(川崎平右衛門陣屋跡)

第46回 温故塾

 

「 代官 」

 

代官とは何をしたのか?
時代劇の悪影響で、代官=悪代官のイメージが付きまとうが、その真実の姿は?
四百万石といわれた天領(幕府直轄地)の民政を司り、農民を撫育し、年貢を徴収する。身分は百五十俵の旗本に過ぎなかったが、その責務は重く、絶えず農民の利と幕府の掟の板挟みとなって苦悩した歴史がある。


【代官】


徳川幕府の直轄地を〃天領〃といい、関ヶ原合戦前の徳川氏の支配地は百万石ほどであったが、家康の晩年には二百万石ぐらいに増加した。その後、諸大名の改易、減封があり、五代将軍綱吉の時代には四百万石に達した。これに旗本領の三百万石があったから、全国の領土三千万石のほぼ四分の一が、幕府の直接支配下におかれることになった。

 四百万石は、関東地方で百万石、奥羽・越後・佐渡で九十万石、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃・伊豆の六カ国で六十万石、近畿地方で六十万石、九州で二十万石、中国地方で十八万石に分かれ、ほかに中部・北陸・四国などに散在していた。直轄地の支配は、都市では町奉行、農村・山村では郡代・代官がこれに当たった。


【郡代と代官】

 郡代は支配地が十万石以上あり、関東・美濃・西国(九州)・飛騨にあった。代官は五~七万石ほどの支配地があり、初期には七十名以上いたが、しだいに減って四、五十名ぐらいになった。関東郡代として有名なのが伊那備前守忠次で、伊那氏は代官頭として寛政時代の改易まで歴代にわたり郡代を世襲した。

 郡代も代官も職権と職責はほとんど同じである。郡代の御役高は四百俵高で、代官は百五十俵高である。役所を陣屋(代官所)といい、地方(じかた)と公事方に分かれて事務を統括した。地方とは租税(年貢徴収)と一般民政で、公事方とは裁判等を司る。郡代は布衣(六位)、代官は御目見(将軍拝謁)の旗本であった。


【代官所の機構】

  五万石級の代官には、元締二人、手付もしくは手代が八人、書役二人、侍三人、勝手賄一人、足軽一人、中間十三人の計三十人が属していた。手付は小普請の御家人から採用し、手代は町人や百姓で適役の者を採用した。手付・手代とも御勘定所へ伺いを出し、採用の認可を得る。(手付・手代の人数はその支配地の大きさに準拠する)

 元締 手付・手代のうち事務に精通した古参から選ばれた。手付は御抱席で五十俵高、役扶持三人扶持からあり、手代は同じく御抱席で三十俵二人扶持まである。代官の補佐役であり、正式な職階(地位)ではない。

 手付 御抱席の小普請役は三十俵三人扶持、小普請役格は三十俵三人扶持から二十俵二人扶持まである。譜代の御家人であれば、手付を辞めれば元の小普請となる。御抱席は一代限りであるが、本人が死亡や退隠した場合、本人の嗣子を充てるので世襲と同じである。

 手代 二十両五人扶持を給され、両刀を帯して羽織袴であるが、罷めれば元の庶民である。手代で抜群の功績があった者が抜擢されて手付になることがあり、これは幕臣として三十俵二人扶持を給される。

 書役 手代の嗣子の事務見習の者のうち熟達した者を、郡代・代官が勘定奉行に請願して書役とするもので、末は手代に上がる。五両一人扶持である。

 侍 三両一人扶持で用人を勤める。三一(さんぴん)という渡り用人である。

 勝手賄 代官所の賄いを行なうもので、五両一人扶持である。

 足軽 三両一人扶持で、門番などをしている。

 中間 二両一人扶持で雑用をこなし、代官や手付・手代の供に従う。


【代官の職務】

 代官の最も重要な仕事は、いうまでもなく租税(年貢)の徴収である。管轄する郡村の高(生産高)を明記したものを「御高帳」といい、新しく任命された代官は、前代官に交渉して、これを受領する。租税にあたっては、その土地の肥痩、灌漑の便否、地形、地位などを調べ、予め田畑を上・中・下・下々の等級に分け、一反歩の公定収穫高を定める。これを石盛といい、上田は一石五斗、中田は一石三斗、下田は一石一斗、上畑は一石三斗、中畑は一石一斗、下畑は九斗が一応の基準となっていた。こうした村々の地種・石盛を決定するのが「検地」であり、これを実施するのが代官や手付・手代の重要な仕事であった。


【名代官たちの苦悩】

 代官の職務は、天領の領民を撫育し、勤勉を督励して、定められた年貢を不足なく、期限内に完納させることが最重要である。それゆえ、名代官といわれた人たちの民政には、それなりの限界があった。代官として領民への「仁政」は、幕府に対しては「不忠」となることが生じる。そうした名代官の苦悩の軌跡を追ってみよう。


井戸平左衛門正朋(寛文十一~享保十八年・1671~1733)

 平左衛門正朋は、世に〃芋代官〃として有名である。二百俵取の大番士であったが、元禄十五年九月に勘定役に昇進した。ひたすら職務に励み、模範的な役人として勤めていた。享保十六年(1731)六月、黄金二枚を賜り表彰を受け、このまま平穏な余生を送ろうとしていた矢先、突然、江戸から三百里、旅程一ヶ月の石見国大森代官を命じられた。正朋は着任するや早々に領内を巡視し、農民の生活が予想より窮乏していることを知ると、自らの私財を投げ出し、富農からも義捐金を募って、他国から米や雑穀を買い入れ窮民に配給した。


 大森銀山領は、百五十三カ村、総高六万八百石、俗に銀山六万石といわれた地域である。正朋は領内の治安をできるだけ保っていこうと細かい気配りを見せた。時あたかも西日本一帯にひろがる享保大飢饉の前夜であった。翌十七年は春先から天候が悪化、ウンカやイナゴの大群が発生して、大虫災がはじまった。のちに「中国、西国餓死十万九千」という未曾有の惨状となる。

 正朋は日夜、飢饉対策に取り組んだが、尋常のやり方では救済することができず、ことは一刻を争う危険な状態であった。正朋は決断し、幕府の許可なく陣屋の倉を開いて飢民に米を配った。配下の者が幕命を待つべきであると忠告すると、正朋は「今から公儀の沙汰を待っているのでは、往復二ヶ月も掛ってしまう。それでは間に合わない」と、決然と「米ばらい」を実行したという。併せて、各村々に免税を行ない、正朋は善政と思えば、どしどし勇気をもって実施した。

 その頃、大森の曹洞宗栄泉寺に参拝し、住職との雑談で「石見のような痩地でも、何とかできる食物はないものか」と嘆息したところ、ちょうど、その時、寺に滞在していた泰水という雲水から「さつま芋」の話を聞いた。正朋は、さっそく泰水に種芋の入手を頼んだ。泰水は苦難の末に種芋十六貫を手に入れ、石見国に戻ってきた。正朋はこれをさっそく領内に配布し、さつま芋の栽培に乗り出した。かくて、石見の芋はしだいに中国地方にひろがり、農民の主食として飢饉の食糧として貴重なものになったのである。甘藷先生こと青木昆陽が、享保二十年(1735)関東にさつま芋を広める三年前、すでに正朋は凶荒対策として石見国で実践していたのだ。このため西日本に猛威をふるった大飢饉のなかで、大森銀山領だけは一人の餓死者も出さなかった。


 しかし、正朋が幕府の許可を得ずに「米ばらい」をした行為は、代官自ら幕府の規則を破ったことであり、たとえ〃善政〃であっても黙認できない。享保十八年五月、幕府は代官を罷免し、正朋に備中笠岡の陣屋で待機するように通達した。笠岡に着いた正朋は幕命を待たず、同月二十六日に自刃して果てた。

 わずか二年間の代官職だったが遺した功績は大きかった。享年六十二。


川崎平右衛門定孝(元禄七年~明和四年・1694~1767)

 農民出身で、代官を経て勘定吟味役まで昇進したのが、川崎平右衛門定孝である。武蔵国多摩郡押立村(現・府中市)の名主の子に生まれた平右衛門は、若い頃から荒地の開墾にすぐれた手腕を発揮し、竹木樹芸の御用も承るなど、その生活はなかなか豊かであった。一面では、私財を投じて貧窮の農民たちを助けるなど、篤農家として農民の信頼も厚かった。


 享保六年、大岡忠相の掛りで武蔵野新田の開発を命じられ、これを完成させた。元文三年(1738)、大凶作で農村が困窮していた。武蔵野新田でも、本村から移住して開墾に従っていた「出百姓」たちもすっかり動揺し、丈夫な男たちは江戸や他の町に日雇稼ぎに出かけてしまい、新田には老人・子供しか残っていないという始末であった。江戸や町屋の給金の方が、関東や東北地方で小作人をしているより、はるかに収入がよかったからである。(こうした状態は幕末まで続いた)

 関東代官の上坂安左衛門は大岡に相談し、早急に救民対策を打つことにした。そこで農民側の代表として平右衛門がえらばれた。平右衛門は下役二人を連れて、武蔵国の入間郡や多摩郡の新田を一軒一軒調べ歩き、生活状態を把握し、五段階に分けて救済の具体案を練った。元文五年、平右衛門は江戸に呼ばれ、大岡から「新田世話役」の名目で、役料三十人扶持が与えられた。

 平右衛門は農民の勤労意欲を盛上げるために、褒賞金を出したり、肥料なども一括して安く仕入れて、農民に分け与えた。新田の復興は困難ではあったが、農村事情に通じた平右衛門は村民と協力しながら、しだいに成果を挙げていった。平右衛門の開墾事業は、武蔵国多摩郡、高麗郡、入間郡におよび、ついに五百町歩の新田開発に成功した。


 延享元年(1744)七月、平右衛門は多年の功労によって「代官」に任ぜられた。五十一歳であった。やがて平右衛門は手腕を買われて、寛延三年(1750)美濃郡代支配下の本田陣屋に赴任、美濃国四万石を支配することになった。ここでは長良川の治水事業に実績を挙げたほか、美濃国山県郡深瀬村で農間渡世の生計を立てていた「蓙織」を見て、「蓙織より花蓙織の方が収入ももっと増えるだろう」と教え、入間郡坂戸村から熟練者を招いて技術を習熟させたという。平右衛門の民政は、農民出身らしく、農民の生活向上のために常に細かな配慮がなされていた。明和四年(1767)四月、功績によって勘定吟味役に昇進した。平右衛門の遺徳を偲んで、鶴ヶ島村三角原の陣屋跡には「川崎大明神」の石碑が建てられている。