20150519

第49回 温故塾

 

【日本雛祭考】

 

●雛祭の起源

 古代中国の風俗に、上巳(じょうし・じょうみ・三月初めの巳の日)、水辺に出て禊(みそぎ)を行い、酒を飲んで災厄を祓う行事があって、これから曲水の風流韻事に発展した。わが国にも上巳の風俗や曲水の韻事が輸入され、曲水の方は早く衰滅したが、上巳は国風の巳の日の祓いとして、中古、上流階級で行なわれた。これを〃上巳の祓〃といった。


 人形(ひとがた)をもって身体を撫でて、その撫物を水に流して穢れを祓う行事で、その人形から玩具の雛が発展し、室町時代から雛祭として行われるようになった。人形は形代

(かたしろ)・撫物(なでもの)ともいう。

 朝廷では陰陽寮から奉った人形をもって、天皇が身体を撫でられ、これに息を吹きかけられた後に、常用の御召物とともに下げ渡されるのを、侍臣の手で河原に運び、祓の式を行なって川瀬に流し捨てた。巳の日の祓については『源氏物語』の須磨の巻にも出てくる。このように祓の形代が、後の雛人形の根源であることは確かであろう。しかし、単なる児童の遊戯としての〃雛遊び〃(ひいなあそび)もあった。「雛遊び」は女児のままごとに等しいもので、後の〃雛祭〃とは、性質上自ら相違するものであったともいう。

 


●雛人形の変遷

 雛の形態は立雛(紙雛)と座雛の二種に分かれる。立雛はふつう、男雛は烏帽子・小袖、女雛は小袖帯で戦国期の衣装を着けていた。座雛は江戸初期の〃寛永雛〃が登場するまでは作られていなかったようだ。これは後水尾天皇が人形を愛好されたため、公家の間でもその風が高まり、寛永雛と称する美しい雛が制作されるようになり、それが嵯峨雛へ発展したのだという。


 当時、大名の奥などでは等身大の雛を飾ったものもあったが、正徳(1711~1715)の頃から〃享保雛〃といわれる小さな雛が現れ、さらに木目込人形が製作され精巧を競うようになった。この享保雛はもっぱら江戸を中心として行なわれたものだが、同時代より宝暦・明和へかけて、京都の公家階級に愛玩された雛に、山科雛と高倉雛がある。さらに期を同じくして現れたのが〃次郎左衛門雛〃である。

 次郎左衛門雛は宝暦・明和期に最も人気のあった雛で、その制作者は京都二条通りの岡田次郎左衛門といわれる。江戸へ輸入されて隆盛を誇った次郎左衛門雛も、安永年中(1772~1780)に江戸の原舟月が〃古今雛〃を出すにおよび、ようやく衰退し、寛政頃(1789~1800)には骨董視されて、大道の露店にまで曝されていたという。この古今雛に至って、江戸雛としての完全な作品が創製されたものと見てよい。今日の雛はこの古今雛の系統であるといわれる。


 古今雛に続いて人気を博したのは〃芥子(けし)雛〃であった。芥子雛とは寸余の精巧な雛で、文化・文政期の特に奥向(将軍家の大奥・大名旗本の奥)に迎えられ、上野池之端の七沢屋専助、中橋上槙町の橘屋信濃らの作るものは、雛人形愛好者の垂涎の的であった。当然、価格も超高価であり、一般にはその他の職人が製作した安価な品が喜ばれた。

 次郎左衛門雛は有職故実に沿った幕府御用達の雛であったが、享保雛は有職を無視し、次郎左衛門雛が丸顔・引目・鉤鼻であるのに対し、細顔で目も細く釣り上り気味であった。装束も次郎左衛門雛が束帯十二単衣に対し、金襴の袍(ほう)の前が離れ、女雛は五衣の裾の綿が極めて厚かった。この系統を町雛といって町家で用いられ、名高い原舟月の古今雛はこの系統に属する。


●雛壇と調度品

 雛壇の飾り方も、古くは毛氈などの上に紙雛を並べ、天勝(あまがつ・天児)・這子(ほうこ)を置いて、調度には駕籠・屏風・銚子提・行器(ほかい)・絵櫃などを並べるだけで、雛壇を設けることはなかった。なお、天勝・這子は祓のとき、これに穢れを移す人形で、嬬形(じゅぎょう)と呼んだ。

 元禄の頃から、雛の調度品が贅沢になり、金蒔絵の華麗な諸道具も制作されるようになった。檀の数は雛や調度品の増加に伴って寛延(1748~1750)ごろには二段、明和・安永ごろには三段飾りになったといわれる。江戸後期になると、内裏雛と称して雛壇の上に内裏の有様を現すようになり、左近桜・右近橘・隋身・女房・伶人・白丁・稚児などを加えるようになったが、調度品では反対に日常庶民の使用する箪笥・膳椀・化粧具・茶弁当などの諸道具を飾るようになった。この風は明治以降にも延長され、御殿の屋形を添えるようになった。


 男雛と女雛の飾り方には一定の定めはなかったが、多くは男雛を向って右にした。ところが、昭和御大典の後から、両陛下の高御座(たかみくら)と同様に、男雛を左に飾ることが提唱された。これを最上段に、左右に御伽犬を置き、雪洞を立て、内裏雛の中央前に三宝に徳利を供える。次檀は三人官女で、中央が坐り姿で盃を持ち、向って右は長柄、左は銚子を持つ立姿である。三段目は五人囃子で、これは能の位置と同じく、向って右から、扇を持って歌う者、次が笛、中央が小鼓、次が太鼓二人を並べる。四段目が隋身(矢大臣・門守ともいい、俗に左大臣・右大臣ともいう)を左右に、中央に御膳、その下向って左に橘、右に桜、その間に三人の仕丁を置く。