20150616

 第50回温故塾  【日本漁業史】

 

2010年7月から始めた温故塾、今回は記念すべき50回目でした。これも参加いただいている皆さまのおかげと、感謝の気持ちを込めて、紅白まんじゅうを配りました。

今回のタイトルは、歴史テーマとしてはめずらしく「日本漁業史」。これは日本の産業の歴史も取り上げてみたいとの今井塾長の思いから決まったものです。

漁業を石器時代から概括し、江戸時代を中心とした魚産業が取り上げられました。

  【日本漁業史】


 日本列島を囲む海域は、寒流の親潮と暖流の黒潮が交差する世界有数の漁場であり、まさに天然の宝庫といえる。古代からわが国では漁撈がさかんに行なわれてきた。

 

 石器時代には、採集漁撈(鮑・貝類・昆布等) だけではなく、石器の釣針や銛、小規模な仕掛網を使用して、じつに多種類の魚を獲っている。特に突銛漁法は、主として鯛や鮪・かじきのような大魚や、鯨・海豹・海豚などの強壮な海獣の漁獲にも用いられた。粗雑な魚網では烏賊・小海老・石鰈の小魚類を捕獲した。今日、貝塚から釣針・銛、また鯨・海豚の骨も発掘されており、石器時代の漁撈が案外多角的に行われていたことが分かる。

 一方、内陸の河川や沼では、竹籠や竹筒を用いて、鰻・鯉・鮒等を漁獲しているし、原始的な鮭漁も行なわれていたという。こうした漁撈に依存して生活する人々は、自然、海岸に沿って移動する集団と、河川渓谷を伝わって内陸深く入り込む集団に分かれ、ここに漁民集落型と山間集落型の二種類が形成されていく。やがて、その中間に日本漁業に典型的な半農半漁民集落が成立する。

 

  鉄器時代に入ると、農耕技術の進歩と改善によって農業生産が増大し、農と漁の社会的分化がおこる。漁村においても釣針・銛の進化によって大型魚の漁獲も容易になる。王朝時代はこの農漁分離の政策を押し進め、いわゆる浜と在の分化が明確にされた。例えば養老二年(718)、能登を越ノ国から、安房を上総から独立させたことは、能登・安房は漁業を以って生活の重要資源としている海浜の地であると認めたからである。

 こうした漁撈に勤しむ漁民に生産力に規制がかかる。仏教的理念によるもので、聖武天皇の殺生の禁、下って白河天皇の応徳三年(1086)には、漁網八千八百余張が焼かれ、諸国からの貢魚(貢租の魚)を禁止した。鳥羽天皇の永久二年(1114)、勅命によって網代の破却と殺生を禁止。崇徳天皇の大治元年(1126)にも、紀伊国から漁網を上進させて、院の門前で焼き払っている。

 以上が、王朝時代の小漁民圧迫の漁業政策だが、これは権門勢家にまで至らなかった。すでに班田制が崩壊し、多くの荘園を抱える権門勢家には、なんらの痛痒も感じなかったし、荘園領主は不輸不入の特権を以って領民(漁民)を隷属させ、自己の利益のために過酷な年貢(漁獲物)を徴収した。王朝時代の漁業は主に京都を中心とした近畿・中国の瀬戸内内海にあったが、鎌倉時代に入ると、幕府創建と共に関東諸地域の漁業が眠りから目覚める。

 

  関東漁業は伊豆・安房の半島国が中心であったが、駿河・相模・上総・武蔵のような内湾地帯の半農半漁の国々もそれに続いた。鎌倉を始め地方集落の発達と市場の成立と共に漁獲物の商品化が一段と進み、漁村の営利化が顕著になってきた。そして、市場と漁業生産者とを橋渡しする商人〃いさば〃が台頭する。五十集と書くが、ここでは魚屋・魚問屋くらいの意味である。農業や漁業の発展によって余剰生産物がストックされて、交換が発展し、広範な商業活動が展開、荘園経済を破壊させて行く。むろん、そこには社会変動と貨幣の浸透による購買力の向上がある。この商業発展が荘園社会から大名領地制への推進力となるのである。また中世における独占業、「座」の成長もあった。七座といわれる、魚・米・器・塩・刀・衣・薬。または、絹座・炭座・米座・桧物座・千朶座・相物座(魚・塩)・紙座・馬商座を七座といった。

 なお、鎌倉・室町・戦国時代、漁撈民はその巧みな操船技能を買われて海上の戦闘や物資輸送に従事させられたことは言うまでもない。

 


 ●江戸時代の漁業

 慶長八年(1603)、徳川家康が征夷大将軍となり、ここに幕藩体制が確立し、大名領国制へ移行した。検地による全国の土地台帳を作成し、これを基礎として大名領を与え、家臣の知行を確定した。諸大名の分国統治はまったく自由であり、領内の租税、行政裁判権、土地処分権はそれぞれの大名の意思一つにあった。その領国経営の基盤は米穀を中心とした農業経済であったが、海村の漁業においても大名経済の中へ組み込まれていく。その場合、漁業をなし得る稼場(漁場)の境界の確定問題がおこってくる。

 陸地の境界をきめる理法にならって、河海にも境界をきめる基準が必要であった。しかし、当時はどこの領主も領有をはっきり主張できない自由の海(公海)があった。いわゆる〃沖漁場〃である。それに対し、境界がなんらかの意味において問題となる村落の地付漁場は〃磯漁場〃と呼ばれた。沖漁場は従って磯漁場の外海である。

 

  徳川時代の河海の境界を定めたものに、寛保元年(1741)に編述された法律に「山野河川入会」がある。それによれば、

 一、漁撈入会場は、国境の無差別

 一、入海は両頬の中央限の漁撈場たる例あり

 一、村並びの漁場は、村境を沖の見通、漁場の境たり

 一、磯漁場は地付根付次第なり、沖は入会

 とある。つまり、公海の自由操業の原則を宣言したもので、沖は入会であり、入海や河川流域は中央を以って漁場の境とせよ、という意味である。では、地付漁場と沖合との区別はどこできめるのか。これは現代でも各国まちまちであるように、当時も全国を通して一定の基準はなかった。海岸から数里、十二里、二十町、八町以内を地先海面とする事もあったし、水深による尋、櫂立、棹立などによるものもあった。が、大体、沿岸から十数町ないし一里位を境とする場合が多かったという。

 

 本来、沖猟場は自由に漁業をなし得る海域であったが、漁具や漁法の発達、漁業者の増加によって、競争が激化し、このため従来の漁業者の利益が阻害される結果となったので、漁業者は結束して、漁業者員数、漁船数、漁具の制限などを申し合わせ、一種の利益共同体(漁業組合)をつくった。有名な江戸内湾四十四カ浦の組合、紀州潮岬十八カ浦の岬組合などがそれである


●漁猟に関する貢租

 漁猟の貢租は、雑租(年貢外の雑税)の中の小物成に属した。小物成は狭義の小物成と浮役の二つに区別される。第一の狭義の小物成は「郷帳外書」に記載されている永久的な租税で、大部分は山野河海の収益税である。第二の浮役とは、浮遊する課税源に対して賦課される租税である。(漁獲に対する税)

 

 第一は、営業税もしくは営業免許手数料の性質を有する運上・冥加の如きである。第二は、全く郷帳に記載されない当座また臨時の収入に対して課せられるもので、分一金、市売分一金である。大名・旗本が領地(知行)を渡される時、狭義の小物成は、「高」に結びつけられるが、浮役は知行高には入らない。

 漁猟や海藻の収穫がある村落は、金銀でどれほどか算定し田地と同様に石高で表示した。これを「海高」といった。海高のほか、池魚役、網役、網代役、船役、簗運上、池運上、鰯分一、市売分一、水主役、御采魚があったが、藩や地方、漁業の種類によって雑多であった。御采魚は、鯛やその他の上魚を特定の浦から、幕府または藩主に御采として上納するもので、このような浦を御采浦と呼んだ。

 

 

 日本の沿岸漁業が各地で独自の発展を遂げたのは、宝暦前後から天明前後(約百年間)にかけてである。当時、海産物のうち、最も重要と思われる魚類は、鯛が最大で、鯨・鰹・鮪・鮭・鰊がこれに次いだ。鰯漁業・鰊漁業が目覚しい発展を見せたのは、いうまでもなく干鰯・搾鰯・干鰊・搾鰊が農業肥料として大量の需要があったからである。それでは、江戸時代の四大漁業である鯨漁・鰯漁・鰹漁・鰊漁の実態を追ってみよう。


捕鯨漁業

 古来、鯨は勇魚(いさな)として親しまれ、また「一頭獲れば七浦うるおう」といわれたほど捕鯨は大きな利益をもたらせた。徳川期の捕鯨の発展期は、宝暦・明和・安永・天明頃であるといわれる。それは突取漁から網取漁への転換にあった。しかし、捕鯨には多大な資本が必要であり、沿岸漁民の単独経営では不可能であったから、一、沿岸漁民の共同出資によるもの、二、海産商(殊に鯨問屋)よりの前借制、またはかれらを銀主とするもの。三、領内の捕鯨家・海産商が藩の産業保護政策による資本援助によって行なうもの。などの経営形態がとられた。

 


●鰯漁業

 鰯漁業が近世の花形漁業として脚光を浴びたのは、農業生産力向上を左右する魚肥の干鰯(ほしか)・〆粕(しめかす)等の利用価値が増大したからである。特に九十九里浜の鰯地曳網量は、その最たるものであった。佐藤信淵の『経済要録』(文政十年)には「諸国漁猟の中に於いて、其の業最も大なる者は、九十九里等の海鰮(いわし)なり、此の九十九里の漁猟は、日本総国の第一なるべし」と、その盛況ぶりを記している。

 

●鰹漁業

 「目に青葉山ほととぎす初かつを」。鰹は昔から日本人に親しまれ、江戸の食文化の華であった。『本朝食鑑』に「刺身によく、霜降り、なまりに作りてもよし、なまりは夏季の賞味たり。又、鰹節、鰹醤(鰹のたたき)を製す」とあり、鰹の広範な需要を物語るものであろう。わけても武士階級には、鰹の上々の味と縁起の良さから珍重された。鰹を生で食すようになったのは鎌倉時代からであり、それ以前にはなかったというから、武士の勃興と共に鰹文化が始まったといえるだろう。

 

●鰊漁業

 松前藩が蝦夷の支配を確立したのが慶長九年(1604)。鰊漁業の開発は、すでに足利末期から始められていたが、実際に鰊漁の盛況を見るに至ったのは、松前藩の支配からで、特に寛文・延宝(1661~1680)以降である。松前藩は米の生産が皆無(無高)だから、藩主の直轄地以外はそれぞれ漁場の区域を定め、それを家臣の知行に充てた。つまり、漁場を知行地として支配体制(場所制度)にしたのだ。鰊漁の始めは粗末な刺網を用いていたが、延宝頃、内地から漁網(定置網・角網)が伝わり、改良使用されて、鰊の漁獲量は飛躍的に増大した。と同時に近江商人を中心とする内地商人による漁場の請負制(藩士の漁場を請負)が始まる。鰊漁業のすさまじい盛況ぶりを『東遊雑記』(寛政元年)は、

「蝦夷松前の諸人は鰊を以って一年中の諸用万事の価とする故に、鰊の来る頃は、武家、町家、漁家のへだてなく、医家、社人に至るまで我が住家は明家とし、おのおの海浜に仮家を建て、我劣らじと鰊魚を取る事にて、男子は海上に働き、女子小童は鰊を割りて数の子を製する事なり。此故に松前に於いては日本の豊凶少しもかまわず、鰊の数多く来る年を豊年と称し、鰊の少なく来る年を凶年という」と記している。鰊漁の盛況なことは、「貰い歩き、又は浜辺にすたり(捨てて)あるをひろい集める寡婦の類もまた七、八両の金子を得る」というほどだった。

 

鮪の今昔

 今日では高級魚の鮪だか、江戸時代は下魚扱いであった。一名を〃しび〃とも呼ばれ、「死日」につながるとして武家から嫌われた。むろん、生では食べず、煮るか塩漬けであった。また、町人でも表通りに住んでいる者は絶対口にしなかったし、貧民の食べる魚と思っていた。天保三年二月~三月にかけて、鮪の大漁が続き、値段も三尺ものが一匹二百文で買えた。食べ切れず始末に困って醤油漬けにした。ヅケの起源で、これをネタに握り鮨として食べられるようになった。ヅケになるのは赤身だけで、脂分の多いトロは捨てるか、ネギマにして食べた。明治中期以降、赤身は刺身で食べられるようになったが、トロを刺身で食べるようになったのは戦後である。