20150721

 第51回 温故塾


【時代小説とは何か?】


今井塾長の得意分野で、師事した長谷川伸が登場する。

大菩薩峠、半七捕物帳、鬼平犯科帳など昭和の時代に、映画やテレビで見たことのある名前の時代小説の歴史を楽しんでください。

時代小説とは何か?


 時代小説は一名、〃剣の文学〃だといわれるが、その定義はあいまいでむずかしい。大雑把にいえば、過去の歴史を舞台にして、虚構の人物、実在の人物であろうと、その虚実を織り混ぜて創作されたストーリーといえようか。さて、一口に時代物というが、その時代とはいつのことか? 古代・奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸とある歴史の時代区分の中で、いったい、どの時代をいうのだろうか。

 〃剣の文学〃というからには、武士の出現以降であり、それも戦国末期から江戸時代全期と限定していいだろう。武芸の諸流派が生まれ、剣豪が輩出した時代と一致するし、歴史上の人物の言動や体温が我々に身近に感じられてくるのも、この時代からである。したがって、時代小説とは戦国末期から江戸時代を背景として創作された虚実混交の物語と規定できるだろう。

 

 ●時代小説の興隆

 今日の時代小説の嚆矢を中里介山の『大菩薩峠』とする説があるが、一方、そのルーツを速記講談に求める説がある。速記講談というのは、当時隆盛を誇っていた寄席で口演される講談を活字化したもので、これは明治末から大正期にかけての新聞の部数拡大や新雑誌の相次ぐ発行が背景にあった。

 むろん、新聞に小説の掲載はあった。しかし、それを読みこなせる読者は一定の教育を受けた知識階級であり、広範な大衆読者には難解な文体であった。そこで誰でも馴染みのある速記講談の掲載は、分かりやすく大いに受け入れられることになった。


 明治四十四年の「講談倶楽部」(野間清治)をはじめ、「講談雑誌」「講談世界」が創刊されたが、講談・落語に関するかぎり、すべての原稿を速記事務所から買い入れなければならなかった。ところが、「講談倶楽部」が浪花節を掲載したことから、気位の高い講談・落語界から猛反発がおきた。デレロン祭文語りと一緒にされてたまるか、というのがその理由だが、同時に速記講談・落語の実力者今村次郎から「講談倶楽部」への、原稿供給の独占権を要求してきた。野間は苦しんだ。浪花節の掲載を中止する気はない。といって講談・落語の原稿が入らなければ雑誌の編集は不可能である。当時は講談全盛であり、娯楽雑誌が講談を載せなければ、雑誌の体裁を成さなかったからである。

 そこで野間は苦しみ抜いた末、講談・落語にかわるべき原稿の入手を模索。これが〃新講談〃であった。その書き手として、伊藤痴遊、遅塚麗水、伊原青々園、中里介山、長谷川伸、平山芦江などの新聞ジャーナリズム出身者に向けられたのである。これが新文芸の発生の因となり、「大衆文芸」の誕生となっていくのである。


 ●虚無の剣客・机龍之助の系譜

時代小説の嚆矢ともいわれる中里介山の『大菩薩峠』は、大正二年九月「都新聞」に連載。以後、「毎日」「大阪毎日」「読売」「国民」の各紙に延々と書き継がれ、昭和十九年、作者介山の病死で中絶した未完の超大作である。

 主人公の机龍之助は甲源一刀流の使い手、御岳神社の奉納仕合で同門の宇津木文之丞を〃音無しの構え〃の一撃で倒し、その妻お浜を奪って江戸へ出奔する。剣の腕を見込まれた龍之助は浪士組の芹沢鴨、土方歳三らと交友し、ある夜、清川八郎暗殺を企てて一丁の駕籠を襲った。ところが、これが人違い、相手は剣客の島田虎之助だった。たちまち島田に斬り伏せられ、「剣を学ぶ者は、まず心を学べ」と諭される。龍之助は島田の剣の妙技に愕然とし、深い悩みに襲われる。その後、浪士組と京へ上るが、これまで斬殺した幾多の怨霊に祟られて正気を失う。幽鬼のように彷徨する龍之助は、一時、三輪明神の社家に救われるが、大和天誅組の乱に加わり、敗れて山中の山小屋にいたところ火薬が爆発、龍之助は失明する。

 無明の世界にありながらも人斬りの性癖はますます昂じ、次々と殺戮を重ねていく。この龍之助をめぐって様々な人々が登場――大菩薩峠の山頂で試し斬りにした巡礼の孫娘お松、龍之助を兄の仇と狙う宇津木兵馬、お浜と瓜二つのお豊、怪盗・裏宿の七兵衛、悪旗本の神尾主膳、生花師匠で妖艶なお絹、「伯耆安綱」の名刀を持つ馬大尽の娘お銀様などなど、龍之助の行く先々にからんで物語は複雑に展開していく。



 ●求道精神の国民文学『宮本武蔵』

 虚無・ニヒルな退嬰的時代小説の全盛期にあって、これを完璧に否定した名作が吉川英治の『宮本武蔵』(昭和十年・朝日)である。日中戦争から太平洋戦争へ突き進む社会情勢のなか、「この世をいかに生きるべきか」という大命題を、武蔵の生涯を通して作者吉川が託したものであった。中年以上の読者に支持され、特にふだん小説を読まない、将校・政治家・社長などが熱心に読んだといわれる。この点、戦後、大ベストセラーとなった山岡荘八の『徳川家康』、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』なども、大小の企業家やサラリーマン層に読者が多かったことと共通するものがある。『宮本武蔵』の映画化は、昭和十五年、片岡千恵蔵主演、稲垣浩監督が最初で、戦後、稲垣は三船敏郎主演で再映画化。東映は、中村錦之助主演、内田吐夢監督の六部作がある。


 ●半七捕物帳の系譜

 岡本綺堂の『半七捕物帳』は第一作「お文の魂」(大正六年一月・「文芸倶楽部」)以降、合計六十八篇が書かれた。いわゆる捕物小説の元祖で、新聞記者である「わたし」が、元岡っ引の半七老人から聞いた思い出話を書き留めた形式になっている。半七は文政三年生まれ、父は日本橋の木綿問屋の通い番頭半兵衛、母はお民、妹にお粂(成長後、常磐津の師匠)。堅気を嫌って神田の岡っ引吉五郎の子分となり、天保十二年「石灯籠」で初手柄をあげ、のち吉五郎の娘お仙をめとって跡目をつぎ、慶応三年まで二十六年間活躍、老後は養子に唐物屋を開かせ、楽隠居――と設定している。『半七捕物帳』の特色は、捕物話の背景をなす江戸の町々の四季折々の風俗習慣、その情景を巧みに織り込んだところにある。父が幕臣であり、明治五年生まれの綺堂にとって、維新以後、しだいに消えていく江戸の風俗文化を書き留めておきたいという熱い想いがあり、この捕物帳を書いたという。当然、その考証は正確で、品格ある平明な文章は、現在の時代作家のバイブル的存在。大正から昭和初期の作品でありながら、今日も多くの『半七捕物帳』のファンがいる。後続作家の捕物帳がまったく顧みられなくなったことからみても、この作品の隔絶した価値が分かるだろう。


 捕物帳小説では、佐々木味津三の『右門捕物帖』(昭和三年三月・「富士」)が一つの形式を創造した点で注目される。八丁堀の同心・近藤右門は無口なところから〃むっつり右門〃と呼ばれる。子分の岡っ引の伝六は正反対に無類のおしゃべり屋。このコンビはシャーロック・ホームズとワトソンの関係を導入したものだが、その後の捕物帳はみんなこれに習っている。


 野村胡堂の『銭形平次捕物控』(昭和六年四月・「オール読物」)では、岡っ引の平次は神田明神下の長屋に恋女房お静と暮らしている。酒量は大したことはないが、煙草は尻から煙が出るほどたしなむ。子分はオッチョコチョイのガラッ八こと八五郎。平次は得技の〃投げ銭〃と推理で次々と難事件を解決していく。短編総計三百八十三篇、ほかに長編が数作ある。面白いのは、いつまで経っても平次の年は三十一。八五郎は三十というところである。


 横溝正史の『人形佐七捕物帳』(昭和十三年一月・「講談倶楽部」)は、主人公の佐七に〃人形〃の二字を付けたのは、『半七捕物帳』の半七の弟分で人形常という岡っ引から拝借し、女房のお粂の名も半七の妹からつけている。作者の横溝は「半七には及びもないが、せめて弟分にあやかりたいと考えてのこと」と述べ、捕物帳の先駆『半七捕物帳』に敬意を払っている。人形佐七の子分は、辰五郎と豆六である。このシリーズは長編二、短編総計百八十篇を数える。

 城昌幸の『若さま侍捕物手帳』(昭和十四年三月・「週刊朝日」)の主人公は、〃若さま〃と呼ばれ、どこかの御大身であるらしいが、姓名、身分ともいっさい不詳の人物。いつも船宿喜仙の二階でおいと(喜仙の娘)を相手に盃を傾けていると、岡っ引の遠州屋小吉、または与力の佐々島俊蔵が事件の発生を報せにきて物語が始まる。このシリーズも中・長編が約二十篇、短編三百六十篇。


 『半七捕物帳』『右門捕物帖』『銭形平次捕物控』『人形佐七捕物帳』と共に、五大捕物帳と呼ばれる。捕物帳ブームは昭和二十年代で終りをつげるが、他に額田六福の『諸国捕物帳』(昭和六年・「文芸クラブ」)や捕物作家クラブの『伝七捕物帳』がある。

 映画では、嵐寛寿郎の「むっつり右門」、長谷川一夫の「銭形平次」、高田浩吉の「黒門町の伝七」が当り役だった。


 ●池波正太郎の『鬼平犯科帳』

 系列からいえば捕物帳に属するが、従来の捕物帳の定番であった町奉行所の与力・同心、岡っ引ではなく、「火付盗賊改」の長谷川平蔵を登場させたところが斬新である。また「鬼平」長谷川平蔵個人の働きでなく、火付盗賊改方の与力・同心、及び密偵たちによるチーム・プレーで成立していることだ。これはいままでの捕物帳物語を一変させる創造である。各編に登場する大盗、凶盗、怪盗、妖盗たちの魅力も欠かせない。池波小説の偉大な功績は『鬼平犯科帳』『剣客商売』『仕掛人・藤枝梅安』シリーズに、江戸の食文化を取り込んだことであり、この方面からのファンもずいぶん多い。


 ●股旅物の系譜

 〃股旅〃という言葉は、長谷川伸の戯曲『股旅草鞋』(昭和四年二月・「改造」)から生まれた。股旅とは「旅から旅を股にかける」という意味であろう。長谷川はこの前後、『沓掛時次郎』『関の弥太ッぺ』『瞼の母』『一本刀土俵入』『勘太郎月の唄』などを次々と世に送り出し、小説、演劇、映画、流行歌といった大衆文化の世界にたちまち股旅物の一大ブームを巻き起こした。

 長谷川の描く股旅者(博徒)は、風雨に打たれ日焼けし、旅から旅をさすらい歩く、孤独で、いばらを背負った男たちであり、颯爽とした姿はどこにもなかった。元来が、一般社会の秩序外にある博徒の世界だ。その世界からさらにはじき出された脱落者、それが股旅者である。そこには積極的な観念が生まれるはずがない。聞こえてくるのは、ただ自嘲の嗤いと反社会的な孤独な嘆きである。


 ●忍者物の系譜

 忍術といえば講談ジャンルの呼び物の一つで、富田常雄の『猿飛佐助』(昭和二十二年九月・「りべらる」)、次いで林芙美子の『絵本猿飛佐助』(昭和二十五年六月・「中外」)、村上元三の『真田十勇士』(昭和三十二年)、柴田錬三郎の『柴錬立川文庫』(昭和三十七年)があるが、いずれも底流には伝統的な講談の忍術物があった。これらを一変させたのが、山田風太郎の『甲賀忍法帖』(昭和三十三年)、司馬遼太郎の『梟の城』(昭和三十四年・「中外日報」)、村山知義の『忍びの者』(昭和三十五年・「赤旗」)である。


 ●敵討物の系譜

 江戸時代に出版された小説類の三分の一は「敵討物」であり、歌舞伎の世界でも敵討の要素がないものは不人気だったという。毎年正月の演題には〃曽我兄弟〃、暮には〃忠臣蔵〃が定番であったし、鶴屋南北の『四谷怪談』さえも背景が忠臣蔵になっているほどだ。敵討が好きなのは国民性なのか。

 時代小説には忠臣蔵を扱った作品がじつに数多い。白井喬二の『元禄快挙』、本山荻舟の『忠臣蔵八景』、吉川英治の『新編忠臣蔵』、邦枝完二の『女忠臣蔵』、海音寺潮五郎の『赤穂浪士伝』、大仏次郎の『赤穂浪士』、五味康祐の『薄桜記』、南條範夫の『元禄太平記』、池宮彰一郎の『四十七人の刺客』等など。他は省略するが、異色作では井上ひさしの『不忠臣蔵』が注目される。


●明朗な快男児の系譜

 時代小説には虚無的でニヒルな主人公ばかりではない。底抜けに明るく、強くて、やさしい快男児が活躍する。その代表は、佐々木味津三の『旗本退屈男』(昭和四年四月・「文芸倶楽部」)だ。直参旗本千二百石、天下御免の三日月形の向う傷の早乙女主水之介は、相手が大々名であろうと老中であろうと構わない、正々堂々と乗り込んで行く。全国の何処へでも出かけ、諸羽流正眼崩しの正義の剣を振るって悪人輩を退治する。その痛快さが退屈男の魅力である。しかし、これほど時代考証を無視した小説も珍しく、当時、江戸学の泰斗・三田村鳶魚にさんざん叩かれた。佐々木は「大衆文学は無軌道の花電車」というエッセイを書いている。つまり、花やかに飾り、どこへでも走り、レールの無い乗物の面白さが、大衆文学の値打ちだという意味である。佐々木味津三は、「むっつり右門」と「早乙女主水之介」という強烈なキャラクターを創作した。その圧倒的魅力は、小うるさい時代考証の網を突き破って、現代までも生きている。

 この路線には山手樹一郎の『桃太郎侍』(昭和十五年・「合同」外)や『又四郎行状記』(昭和二十二年)がある。山手作品のパターンには、道中で美女を助けて事件に巻き込まれる筋書きが多い。主人公は明るく、強く、やさしいという明快さ、その平易な文章と筋立てが広範な読者の支持を受け、山手作品は「時代小説のメルヘン」と称せられる。