20150915

第52回 温故塾


「真田三代軍記」


 戦国の世に登場し、生き抜いた信州小県郡(長野県)の小豪族「真田氏」の真実、俗説を今井塾長が解説した。

来年のNHK大河ドラマ「真田丸」の主人公たちの物語です。


【真田三代軍記】


 信州小県郡の小豪族にすぎなかった真田氏は、戦国乱世の重大な場面で戦局を左右するような活躍を示し、その武勇をあまねく天下に轟かせた。世に知られる〃真田三代〃とは、幸隆・昌幸・幸村のことをいい、幸村の兄で松代十万石の藩祖となった信之は入らない。


 江戸時代を通して、もっとも人気が高かった戦国武将は、大坂冬夏の両陣で孤軍奮闘した真田幸村である。「日本一の兵(つわもの)」と称えられ、その六連銭(六文銭)の旗印は、誰一人知らぬ者がなかった。幸隆・昌幸・幸村の真田氏三代については、松代藩士河原綱徳編纂『先公実録』にその行跡が記録されているが、なにせ天保十四年(1843)完成のものだから、『甲陽軍鑑』『川中島五戦記』『沼田記』『滋野世記』『真武内伝』といった軍記類からの引用もあり、必ずしも正確な伝記とは言い難い。幸村にいたっては、『難波戦記』や講談類までに脚色されており、真田氏三代は史実とかけ離れて、伝説の方がより広く一般に知れ渡っている。それでは、謎と伝説に満ちた真田三代の軌跡を追ってみよう。




<レジュメ抜粋>

 

真田幸隆 永正十年(1513)~天正二年(1574)

 

 真田氏は信濃の古い豪族滋野氏から分かれた一族である。滋野氏は清和天皇の後胤といい、また『尊卑分脈』では滋野宿祢の流れともいう。信濃に下って政治にたずさわると共に良馬を育成する牧監(ぼくかん)であったと思われる。

 滋野氏は小県郡海野に住み、平安朝末期になって三家に分かれた。祢津に住んだ祢津氏、佐久郡望月に住んだ望月氏、滋野本家は海野氏を称した。真田氏の興りは明らかでないが、海野棟綱の娘が小県郡の豪族真田頼昌に嫁ぎ、幸隆、綱頼を儲けた。幸隆は真田氏を継承し、頼綱は矢沢氏を継いでいる。

 

 真田氏は東信濃に勢力を張っていた滋野一族に属し、鎌倉時代から真田地方に住んでいたのではないかといわれる。真田氏は滋野系の本家筋にあたる海野氏の嫡流を名乗っているが、実際には傍流であったという説が現在では有力視されている。とはいえ、海野氏、祢津氏、望月氏の有力な滋野一族が没落していった中で、真田氏はしぶとく戦国の世を生き抜いていく。

 天文十年(1541)五月、武田信虎、村上義清、諏訪頼重の連合軍が海野氏を攻撃した。幸隆は海野一族と共に海野平で迎え撃ったが敗北。海野棟綱は逃走し、嫡子の幸善は戦死した。幸隆は棟綱と鳥居峠をへて上州吾妻郡の羽尾へ逃避した。幸隆の妻が羽尾の海野入道幸善の娘だったので、吾妻郡は逃避地として最適であったろう。のちに真田氏が上州へ進出するのは、こうした土地の縁があったからである。

 

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 武田軍が総力をあげて攻撃しても落ちなかった砥石城を、幸隆は独力であっさり攻略してしまった。天文二十年五月のことである。晴信の側近駒井高白斎の『高白斎記』に「五月十六日、砥石城を真田乗っ取る」とある。これは力攻めではなく、幸隆の得意な調略によるものであった。幸隆は前年九月の砥石城攻めにおいても、さかんに城内の村上方に調略を仕掛けて、村上方に動揺をもたらした。砥石崩れの後も、幸隆の調略は続けており、それが功を奏したのである。驚いたのは村上義清だけではなく、幸隆から「砥石城を攻める」と報せを受けて、応援に兵を進めようとしていた晴信も驚愕した。

 

*調略=敵方に利害得失を説き、身分保障や領地安堵、または褒賞を条件に味方に引き入れること。

 

 砥石城の落城で晴信の北信攻略は容易となった。天文二十二年四月、村上義清の本城葛尾城を攻め、義清は越後へ走って長尾景虎(上杉謙信)に救援を求めた。こうして晴信と景虎は川中島をめぐって対決することになる。この頃、幸隆は昌幸を人質として甲府へ送り、引換えに上田近くの秋和に三百五十貫の地を得る。弘治二年(1556)、幸隆は晴信の催促で東条雨飾城を攻め、永禄四年九月の川中島合戦に幸隆・信綱らは武田方として参戦した。

 

 永禄七年、幸隆は上州長野原へ出陣。この方面の将として経略に務め、十月岩櫃城を落とし、岳山城も奪った。この頃、幸隆は〃一徳斎〃と号した。永禄九年九月、晴信は西上野へ進撃し、豪勇長野業政の嫡子業盛の守る箕輪城を攻め落し、西上野一帯をその勢力下に収めた。

 

 永禄十二年、晴信は駿河へ進撃を開始、今川氏真を追放し、西上への野心を燃やす。上野の最前線にいた幸隆の子信綱に駿河進入の武田軍に参加すべし、と晴信の命令が届く。

 元亀三年(1572)三月、幸隆の計略で上野白井城を落としたが、翌天正元年三月、上杉軍に奪還される。四月、武田晴信が三河から帰陣の途中、信州伊奈郡駒場で死去。幸隆も翌天正二年五月、六十二歳で歿した。

 

 

 ●真田昌幸 天文十六年(1547)~慶長十六年(1611)

 

 昌幸は幸隆の三男である。人質のかたちで甲府へ行き、晴信の側近として仕えた。一時、武田家ゆかりの武藤家を継いで、武藤喜兵衛を名乗った。父幸隆の跡は長兄源太左衛門信綱が継いだが、天正三年五月の長篠合戦で、二兄の昌輝とともに戦死したので、三男の昌幸が真田家を相続することになった。

 

 武田勝頼の衰退するなかで、昌幸は本領の小県郡真田郷に戻り、着々と北上州への活動を強めた。狙いは沼田城である。沼田城は北上州の要衝で、上杉謙信の関東経略の基地であったが、謙信死後、上杉家は景勝と景虎の家督争いがあり、上州方面への余裕がなかった。沼田城の上杉方守将の間にも両派の争いがあり、このどさくさに北条氏政が沼田城を奪い返し、猪俣邦憲を城将に藤田信吉、金子美濃守を副将としてこの城を守衛させた。昌幸は沼田城と利根川を隔てた名胡桃城を修築し、ここから沼田城を攻めた。

 天正八年(1580)五月、沼田城の守将藤田信吉、金子美濃守らは昌幸の軍門に下った。昌幸の調略であった。昌幸が沼田城に乗り込んだときの様子を、『加沢記』は次のように伝えている。

 

「昌幸は黒糸縅の鎧に信玄公から与えられた竜頭の兜を着け、三尺五寸の重代の太刀を帯び、一尺八寸の打刀、九寸五分の鎧通しを十文字に横たえ、望月黒という名馬に貝鞍を置かせ、金の馬せんを掛けさせてまたがり、六文銭を書いた胸赤の旗を先に立てて進んだ」。昌幸の将兵六千とあるが、これは過剰な数字で、その頃の昌幸の実力から考えて、せいぜい二千くらいであったろう。

 要衝の沼田城を得た昌幸の得意や思うべしである。昌幸は武田方に属していたが、すでに独立大名の実力を備えつつあったことがわかる。


○第一次上田合戦

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 昌幸の裏切りに面子を潰された家康は激怒し、天正十三年閏八月、鳥居元忠、大久保忠世らを将として、甲斐、信濃の軍勢を合わせて七千の兵で上田城を攻めさせた。昌幸は上田城に籠り、嫡子信之を砥石城に、重臣矢沢頼綱を矢沢砦に入れ、城下町の諸所には柵木を食い違いに結んで待構えた。

 徳川勢は大軍を頼んで、上田城をひと潰しにしようと城壁の下へ押し寄せた。そこへ城中から猛然と鉄砲を撃ちかけられたので、大きな損害を受けた。そのうえ、諸所に隠れていた伏兵も激しく矢・鉄砲を浴びせたから、徳川勢はあわてふためいた。退却するにも迷路のような柵木に阻まれて、身動きがとれない。死傷者が続出し、徳川勢は押し詰められたところを追撃され、おりから増水していた神川へ追い落とされ、溺死者二千を出した。


○第二次上田合戦

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 上田城に帰った昌幸はすぐに戦備を進めた。兵力は三千八百人、合戦となれば領内の百姓も動員するから、総勢五千から七千人ぐらいだろう。九月一日、徳川秀忠率いる三万八千の軍勢は碓氷峠を越えて、二日、小諸に着陣した。秀忠の軍は榊原康政、大久保忠隣、酒井忠次、本多忠政らの徳川本軍で、真田信之もこれに加わっている。

 

 秀忠は上田城へ使者を送って昌幸の参陣を促した。昌幸は「秀忠公に敵対する気はない。明日にも城を明け渡しましょう」と返答した。ところが翌日になっても城を明け渡す気配がない。使者を送って督促すると、こんどは「太閤様のご恩は忘れがたく、当城に籠った上は,城を枕に討死し、名を後世に止めたく存ずる。願わくば当城を一攻めしていただきたい」と喧嘩腰であった。これは西上する秀忠軍を足止めする作戦だったといわれるが、じつは城内で、恭順か、合戦かの対立があり、昌幸は恭順するつもりであったが、強行派の幸村に押し切られたという。

 

 秀忠は大いに怒り、総軍を率いて上田城を包囲した。六日早朝、城兵の一隊と依田肥前守の一隊と小競り合いがあった。城兵はまもなく足並み乱して逃げ出した。これは昌幸の謀略だったが、寄せ手の牧野忠成ら徳川兵は勢いに乗って追撃。城兵はこれをあしらいながら退却し、大宮社あたりまで引き寄せたところで、急に伏兵が一斉に起り、牧野隊を急襲した。これを見て、牧野隊を救うべく徳川勢が援兵を繰り出し、乱戦となった。いよいよ接戦と見た大久保、本多、酒井の主力部隊が城兵を追って城下へ突入した。主力部隊が秀忠の本陣を離れた隙を突いて、突如、虚空蔵山の林から一隊の城兵が現れ、秀忠の本営を襲撃した。その猛烈な銃声に驚いた徳川軍のが乱れると、大手門がさっと開かれて鉄砲が一斉に火を吹き、その煙の中から幸村の一隊が突撃してきた。見事術中に陥った徳川勢は混乱状態となり、惨憺たる敗北を喫した。

 

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 関ヶ原合戦の勝利は徳川家康に〃天下人〃の地位を約束した。合戦の大事な局面で、秀忠軍に損害を与えて足止めさせた真田昌幸・幸村父子は、重罪として処刑されるのは当然であった。昌幸の長男信之は舅本多忠勝や井伊直政に助命を懇願し、本多、井伊も家康に懇請した結果、昌幸父子は死を許されたという。家康は昌幸に好感をもっていなかった。出来ればこの際成敗したかったが、本多、井伊の懇請もあって断念したようである。

 

 戦後、信之は本領の沼田城を安堵された上、昌幸の上田城を与えられている。重罪人の父と弟を出した割には、たいそうな厚遇といわなければならない。


真田幸村 永禄十一年(1568)~元和元年(1615)

 

 幸村は昌幸の二男に生まれ、幼名を弁丸、また源次郎といった。本名は信繁である。幸村の名が広く知れわたったのは軍記物語『難波戦記』に登場してからであり、本人が幸村を名乗ったことは一度もない。官位は左衛門佐(さえもんのすけ)であり、現存する書簡類には「左衛門佐信繁」の署名がある。

 幸村ほど虚構と伝説にみちた武将はいない。大坂冬夏の両陣での胸のすくような大活躍が、大坂(豊臣)ひいきの一般大衆の人気を煽り、いやが上にも数々の伝説と綺譚を創り出されていったのであろう。


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幸村の最期の武者ぶりは『薩藩旧記』の一節に伝える。

「五月七日、御所様(家康)の御陣へ真田左衛門かかり候て御陣衆追いちらし討捕申し候。御陣衆三里程づつ逃げ候衆は皆いきのこられ候。真田は日本一のつわもの、古(いにしえ)よりの物語りにもこれなき由、惣別これのみ申す事に候」

 滅び行く豊臣家に殉じた幸村も、これだけ勇猛ぶりを称えられれば、さぞ満足であろう。幸村の子大助も秀頼に殉じた。十六歳だった。

 幸村の人物像を兄信之は「柔和にして怒り腹立つことなし」と述べている。日常は温和な性格だったが、ひとたび戦場に臨めば鬼神のような暴れ方をしたのだろう。


 真田三代の幸隆・昌幸・幸村を比べてみた場合、幸隆は外交・調略に手腕を発揮した武人であり、昌幸は権謀術数・智謀の武人と言えよう。だが、幸村には謀略家というイメージはない。戦場駆引きの巧い知将といったところか。幸村は戦国の世の終焉を告げた大坂夏の陣で、天下人・家康を震駭(しんがい)させる武者ぶりを示し、壮烈な戦死をとげた。人気のないはずがあろうか。