20151020

第53回 温故塾

【近世――毒婦・妖婦・悪女伝】

 

 高橋お伝、夜嵐お絹、花井お梅、蝮のお政――いずれも毒婦、妖婦、悪女と喧伝されて世情をにぎわし、草双紙、実録本、新聞小説、演劇、講談の好材料の種となった。

 しかし、彼女たちの犯した犯罪はそれほど凶悪なものであったろうか。また、その犯罪の背景には何があったのか。毒々しく虚飾に彩られた彼女たちの事件の真相を探っていくと、そこには時代の波に翻弄された女たちの悲しいまでの姿が浮かんでくる。

 

 


・高橋お伝  

お金を貸してくれない旦那を殺した罪で、斬首となった。

嘉永四年~明治十一年(1851~1878)お伝の墓は、谷中天王寺境内にあるが、明治十四年一月の三回忌に、仮名垣魯文が世話人となって建てたものである。魯文は『高橋阿伝夜叉物語』を書いて大いに売った。むやみにお伝を毒婦に仕立てた罪ほろぼしのつもりだったろう。建墓の協賛者は、新聞社、座付作者、俳優、講釈師、落語家などで、みんなお伝を飯の種にした者たちであった。


・夜嵐お絹  弘化元年(1844)~明治五年(1872)

夜嵐お絹については、明治十一年の岡本勘蔵の『夜嵐阿鬼怒花廼婀娜夢』(よあらしおきぬはなのあだゆめ)の反響が大きく、次いで「郵便報知新聞」が『夜嵐おきぬ物語』を連載して大評判となった。しかし、お絹の事件は上記のごとく、情人で役者の嵐璃鶴恋しさに、強欲な旦那の金平を毒殺したという、よくある犯罪の一つにすぎない。


・花井お梅  元治元年(1864)~大正五年(1916)

恨みから人を殺めたが自首した。情状酌量されて無期刑、特赦で出獄した。

花井お梅の峯吉殺しの芝居は、明治二十一年四月に中村座で上演された。河竹黙阿弥作『月梅薫朧夜』という題であった。その他、『苦物峯雨酔月』(くものみねあめのすいげつ)なども書かれた。晩年に「花井お梅懺悔譚」も新聞連載された。人の不幸を飯の種にする輩は跡を断たなかったようである。


・まむしのお政 元治元年(1864)~?

「蝮」という異名を被せられたお政だが、殺人罪は犯していない。前科十犯だが、放火一件のほか、詐欺取財、窃盗の小犯罪ばかりである。殺人未遂もあったが、これは見過ごされている。女だてらに前科十犯という累犯が世間の耳目を引いたのであろう。