20151117

第54回 温故塾 

【吉原細見記】

 

吉原の沿革は、慶長十七年、庄司甚右衛門(甚内)が遊廓の設置を願い出て、元和二年三月に許可され、同四年十一月から開業したという。幕府草創期、諸国から新興都市である江戸へ大量の人口が集中した。大名・旗本の武家屋敷、寺社の建設の整備がすすみ、諸国の商人や職人は競って江戸へ移り住んだ。

 戦国の余燼さめやらぬ猛々しい武士たちの性のはけ口として、遊女を置く女郎屋が雨後の筍のごとく出現し、たいそう繁昌を極めていた。当然、喧嘩、刃傷沙汰も多く、治安上からも幕府は対策を立てなければならなかった。そんな折、庄司甚右衛門の提案は、女郎屋を一箇所に集めて営業するというもので、幕府にとって管理・取締りが容易であったから、短期日に許可したものと考えられる。当然、怪しい者が遊廓に出入すれば、当局に密告する犯罪摘発の裏の役目も兼ねていた。庄司の前身は相州ラッパ(忍び)だったともいう。

 幕府から与えられた遊女町の建設地は、葭(よし)茅(かや)の生い茂った土地であったので、はじめ「葭原」と名づけ、その後「吉原」と改称した。吉原は葺屋町(中央区日本橋堀留二丁目付近)にあった。幕府公認の遊女町であったから一般の町屋との区別を明らかにし、周囲には堀をめぐらし一区画を成していた。入口には大門が構えられ、この大門のみが吉原の出入口で、他には出入口はなかった。この構造は新吉原に移転しても変らなかった。

 この吉原は明暦の大火(1657・振袖火事)の後、浅草観音の裏・千束の地に移転し、それまでの吉原を「元吉原」といい、移転後の吉原を「新吉原」といった。新吉原は、江戸、明治、大正、昭和と連綿と続き、昭和三十一年五月の売春防止法の成立によって、その三百年間の歴史に幕を閉じた。


●遊客の変遷

 元吉原・新吉原を通して、つねに廓内で目立った遊びをする遊客は、その時代を反映した景気のいい人間である。そんな遊客の面から吉原を眺めていくと、そこには江戸時代のある時々の経済事情が浮かび上がってくる。

 明暦以前の元吉原は、武士が主役の時代であった。関ヶ原、大坂の陣に勝利した武士階級はいわば戦争成金、にわか大名も出現して景気がよく、吉原では〃大名遊び〃の見栄を張って、多額の金銀を費やした。

 明暦以後の万治、寛文の頃は、旗本奴と称する連中が目立った。金の有無にかかわらず、華美な風俗で廓内を闊歩していた旗本奴も、寛文末から延宝になるとしだいに処分されてその姿を消していく。それでも吉原の遊客は武士が主流を占めており、なかでも代官や小普請方の役人が吉原をにぎわした。代官は年貢引負という錬金術があり、小普請方の役人は寺社建立などの普請にからんで御用商人と結託した。

 元禄から享保の時代は町人が吉原の主客となる。つまり御用商人の台頭であり、いわゆる紀の国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門の〃大尽遊び〃である。紀文、奈良茂は幕府の役人を吉原へ引っ張り出して歓待し、商売の利権を手に入れようとしたのであり、なにも無駄に金銀をバラ撒いたわけではなかった。

 享保期に吉原で名を馳せたのが、尾張の徳川宗春、安芸広島の浅野吉長、姫路の榊原政岑(まさみね)の三大名である。この三大名は落籍した太夫をお国入りの道中に伴ったというから、大名遊びの意地を見せたともいえる。しかし、倹約将軍の吉宗の忌避にふれ、宗春は蟄居、吉長は隠居、政岑は隠居の上、越後高田へ転封の処分が下った。以降、大名の吉原遊びが途絶えた。




・いざ吉原遊廓へ

 吉原のことを「里」といい、また「丁」ともいった。吉原は江戸町、角町、京町、揚屋町、仲ノ町の五丁(のちに伏見町と堺町が加わる)があったが、町の字は使わず、丁の字を用いた。それで「丁」とか「里」といえば、吉原遊廓のことをさした。ほかに「北州」「北国」ともいった。吉原が江戸市街の北方に位置していたからである。

 吉原へ行くには馬道から日本堤を通って行ったが、この日本堤が「土手八丁」である。実際には六丁半しかなかったが、土手沿いには葦張りの茶店、飲食店がずらりと並んでいた。見返り柳を左に衣紋坂を下ると吉原大門に出る。ここからが吉原遊廓になる。(左図参照)



●大見世、中見世、小見世、河岸見世

遊女がいる娼家は、規模の大小、格式、遊女の等級によって、大見世、中見世、小見世、河岸見世などがあった。


大見世 

店構えは大きく、格式が高く、高級遊女を揃えていた。○○太夫という最高級遊女はこの大見世しかいない。茶屋を通さないで直接見世にやってくる「ふり」「ふり込み」の客は決して登楼をさせない。ここには金一分以下の女はいなかった。店構えは惣籬(そうまがき)である。籬とは格子のこと。


中見世 

大見世より規模は小さく、格式は一段低い。店構えは半籬(はんまがき)で、半分の上部の籬がない。高級遊女も少なく、安価な遊女も交じっており、「交じり見世」ともいった。金一両から金二朱までの女郎である


小見世 

店は惣半籬で、格式はさらに下がる。高級遊女はおらず、金一分が最高の遊女で一人、ほかは二朱の安女郎ばかりである。


河岸見世  

江戸町一丁目、京町一丁目の西側のおはぐろとぶ河岸と、その反対側の東河岸には、最下級の女郎屋(局見世・切見世)が軒を並べていた。金二朱の女郎が最高で、西河岸の見世はまだ良かったが、東の河岸の見世は通称を〃羅生門河岸〃と呼ばれ、強引な客引きとボッタクリで有名だった。客層は職人や小商人が多かった。局見世・切見世は女郎を短い時間で切売りしたので、この名がある。部屋も板壁で仕切って狭く、布団は敷布団のみという粗末なものであった。


遊女の階級

太夫  〃大名道具〃ともいわれる最高級遊女で、揚げ代金一両二分。どのよ

    うな身分のお客にも応対できる教養があり、琴、三弦、立花、茶道、

    囲碁、将棋、舞踊から源氏、伊勢物語など古今の文学にも精通し、短

    歌、俳句もこなした。禿(かむろ)二人~三人、振袖新造、番頭新造な

    どの数人の眷属(取巻き)が付く。座敷持(二部屋続きの専用部屋)で、

    寝具も三段重ね蒲団である。有名な「高尾太夫」は三浦屋の抱えで、

    七代目まで続いた(後述)。一度の遊びに十両から二十両は掛ったとい

    うから、とても一般のお客には手が出せない。


格子  太夫の次の遊女で、揚げ代金一両。禿が二人ないし一人が付く。部屋

    持(専用部屋)である。大見世ではこの級の遊女が多かった。


呼出  金三分。見世にいて仲ノ町の茶屋へ出張りはしない。部屋持である。


散茶  昼夜金三分。吉原は昼と夜に分けて、女郎を売ったので、昼と夜で金

    額が異なる。どんなお客も振らないので、この名がついた。


振袖新造 十四歳ぐらいで売り出した新米女郎。座敷持の先輩遊女に付いている

     が、お客を取らないことはない。金二朱で振袖を着ている。


番頭新造 座敷持の華魁(おいらん)に付いて、華魁の世話をする。これはお客

     を取る者と取らない者がいた。


禿(かむろ)五、六歳から十二、三歳まで、先輩遊女に召し使われる童女。性質

     や利鈍を確かめながら、将来の高級遊女に教育する。華魁やお客の

     煙草・お茶の世話やお使いをする。


 座敷持や部屋持の遊女は、それぞれ自前の箪笥や鏡台、趣味趣向を凝らしているが、部屋持でない遊女は空き部屋へお客を引き入れる。中見世では、昼夜金二分の女郎が座敷持、これが華魁である。中見世では部屋持は壁の方の毛氈の上に坐る。毛氈を敷いてないのは金二朱の女郎である。大見世は茶屋を通じないお客は拒絶したが、中見世・小見世では「ふり」の客は、格子越しに女郎を見立てて、指名して登楼する。吉原案内に入山形に二つ星が座敷持の遊女で、二つ星のないのが部屋持の遊女である。