20160119

第55回 温故塾

 

「田沼意次の時代」

 

田沼意次は多くの人に誤解されているが、優秀な人物だったと今井塾長は語ります。そうでなければ老中格となった1769年から1786年の17年の長きにわたって政権を担うことはないし、江戸文化が花ひらいた時代を演出したのもその功績といえる。田沼を追い落とした、寛政の改革で有名な松平定信は6年で罷免されている。

●意次の出世

 田沼意次は享保四年(1719)に生まれ、幼名を龍助といった。父の意行は紀州家の家臣だったが、吉宗の八代将軍就任に伴って旗本に列した。享保十七年、十三歳になった龍助は吉宗に初お目見えし、享保十九年、十五歳で、西の丸の世子家重の小姓となる。俸禄三百俵。同年十二月意行が死去し、翌年三月、家督(六百石)を相続、元服して意次と名乗り、元文二年(1737)、意次は叙爵を受けて主殿頭(とのものかみ)と称した。

 

 延享二年(1745)吉宗が隠居し、家重が九代将軍となって本丸に入ったが、吉宗は大御所として、実際の政務を執っていた。意次が吉宗の薫陶を受けたのは、この大御所時代の六年間のことで、彼が国政運営の術を会得したのは、この頃であったろう。聡明な意次を吉宗はお気に入りだったらしく、翌年小姓頭取に昇進し、翌々年には知行千五百俵となり、さらに寛延元年(1748)には二千石に加増されている。寛延四年、吉宗が歿すると、家重はますます意次を重用し、その年には、御側御用取次となり、宝暦五年(1755)には五千石に加増された。

 

宝暦八年(1758)四十歳のとき、相良一万石を拝領して大名に列した。

明和六年(1769)八月、意次は側用人を兼帯で老中格となった。

 

●〃田沼時代〃とは?

 意次が二万五千石となり、老中格となった明和六年(1769)から天明六年(1786)老中を罷免されるまでを、世に〃田沼時代〃と呼ばれている。意次が抜群の手腕を発揮して、実際上、彼が推進力となって幕府の運営を担当したからだが、意次は一度も老中筆頭の座には就いていない。

 

田沼の諸政策

●対外政策

意次はまず、中国貿易において銀の支払いを止めて、銅を七分、俵物三分の割りで決済することにした。俵物とは、アワビ、イリコ、鱶のヒレ、ナマコ、昆布等の乾物をいう。

 

●通貨政策

秤量通貨から表位通貨に切り替えを図り、明和二年(1765)「五匁銀」を発行した。

 

●殖産興業の奨励

田沼は米作重視の農政ではなく、綿、たばこ、菜種、茶、藍などの換金農作物などの多角的農業経営を奨励したのである。

 

総じて田沼の時代は、貿易の拡大、諸産業の振興奨励、通貨の改革、学問文化の自由など、革新的な政策を積極的と次々と打ち出し、その成果が実りだした時代であった。

 

●田沼の失脚

天明六年八月、将軍家治が死去すると意次は老中罷免となる。同年十月、二万石を没収。さらに翌年八月、松平定信が老中となると、十月、意次は蟄居を命じられ、所領三万七千石を召上げられる。孫の意明が家督を継ぎ、奥州下村一万石に移封。同十一月、相良城は没収され破壊された。意次の五万七千石の所領はすべて取り上げられ、実収五千石ほどしかない下村一万石へ移封とは、ずいぶん苛酷な処分である。松平定信の意次へ執念深さが思いやられる。

 

     田沼政治           寛政改革

外交   開国を指向         鎖国政策の厳守

貿易   輸出奨励・外貨獲得     縮小方針

財政   拡大亢進          緊縮方針・歳出削減

貢納   金納税収をはかる      米納中心主義

農政   多角的農業経営許容     換金農作物抑制・米重点

工商   経済発展重商主義      重農主義、商工業抑圧

通貨   表位通貨制の創始      秤量通貨制の堅持

物価   安定政策          低物価政策

金融   銀行方式を指向       旧債放棄の棄捐令

開発   新田運河鉱山の開発     新規法度方針堅持

学問   向上発展的・出版奨励    異学の禁・出版統制

芸術   自由発展政策        愚民政策・美術抑制

医療   洋医学育成         漢方医重用・蘭医抑圧

人事   人材登用方針        家柄尊重・家格重視

娯楽   大衆娯楽黙認        取締厳重・贅沢禁止