20160216

第57回 温故塾

        

「義経伝説」

 

源義経は不思議な人物である。歴史上確かに存在し、平氏討滅に最大の軍功を挙げた英雄でありながら、ひとたび「源九郎義経」「九郎判官義経」の名を口にすると、たちまち朦としたロマンの香りが立ち昇ってくる。

 世に〃判官ひいき〃という現象をもたらし、日本人好みの悲劇の英雄の典型となった義経は、しかし、その足跡を歴史上でとらえることは、まことに困難である。

●義経の生涯

 義経は平治元年(1159)に生まれた。同年の十二月、父義朝は平治の乱で敗れ、再起を期して関東へ向ったが、途中、知多半島で源氏の家人長田某に殺された。母の常盤は今若、乙若、牛若の幼子をつれて、一時、大和国宇多郡の叔父のもとに身を寄せたが、平氏の厳しい追及にあい、六波羅へ出頭する。清盛は三人の幼児の救命と引換えに、絶世の美女といわれた常盤を妾とし、一女を儲けるが、以後は寵愛が失せ、その後、常盤は一条長成に嫁している。

 兄弟の今若はのちに阿野全成、乙若はのちに義円といったが、全成は建仁三年(1203)の頼家の時代、謀叛の疑いで討たれ、義円は養和元年(1181)の美濃墨俣の源平合戦で戦死を遂げている。牛若(義経)は七歳で鞍馬山の東光坊に預けられ、禅林坊覚日の弟子となり、〃遮那(シャナ)王〃といった。(昼間は仏道修行に励み、夜は兵法修行に励んだと『義経記』にある)

 承安四年(1174)二月、金売り吉次と出会い、鞍馬山を脱出して奥州平泉を目指す。途中、鏡の宿で盗賊団に襲われるが返り討ちにし、この地で元服して、義経と名乗った。(熱田神宮の元服説もある) 艱難な旅を続けて平泉へ着き、奥州の覇者・藤原秀衝の庇護を受けた。以後、治承四年(1180)十月、黄瀬川で頼朝に対面するまで、義経は平泉で何をしていたのか、その行動はいっさい分からない。

 

治承四年、頼朝の挙兵を知った義経は平泉を出立し、十月二十一日、黄瀬川で頼朝に対面した記事は『吾妻鏡』にあり、ここに義経ははじめて歴史の上に登場する。義経二十一歳であった。翌年の七月、鶴岡八幡宮若宮の上棟式で頼朝から馬の引き手を命じられ、不服を申し立てて頼朝から大いに譴責を受けた。義経は「すこぶる恐怖した」とある。

 寿永三年(1184)一月、木曾義仲の討伐命令が下され、義経は勇躍して出陣した。総勢五万五千、大手は範頼軍三万、搦(からめ)手の義経軍二万五千。範頼軍は瀬田川を挟んで義仲軍と対戦し、義経軍は宇治川を押し渡って進撃した。義仲軍は実働兵力が少なく、たちまち戦い敗れて義仲は討死した(宇治川の合戦)。討伐(鎌倉)軍は入洛し、勝に乗じて、福原へ進出して京都奪還を窺っていた平氏軍に襲い掛かった。平氏軍は総勢六万。前に海、背後に山をひかえた要害一の谷に厳重な防衛線を構築し、東の生田に平知盛、西の木戸には平忠度、山上には平教経、平盛俊らを布陣し、攻略は容易ではないように見えた。

 範頼軍は大手の生田に攻めかかり、搦手の義経軍は鵯越道を西に進み、多井畑で土肥実平、熊谷直実らを西の木戸へ向わせ、義経は百五十騎ほどで鉄拐山の急峻な崖道を下って、一の谷の背後を急襲した。世にいう〃鵯越の奇襲〃である。平氏軍は本営(内裏)を急襲されて浮足立ち、争って軍船に乗って海の沖へ敗走した(一の谷の合戦)。

 この合戦の勝利で、範頼は三河守に任ぜられたが義経には何の沙汰もなかった。頼朝が義経を危険視したからだともいう。この間隙をついて〃大天狗〃といわれた謀略好きな後白河法皇は、義経を左衛門尉に任じて検非違使に補した。これは頼朝の推挙を得ずに任官してはならぬという鉄則を、義経が踏みにじったことになる。頼朝は激怒し、義経とともに叙任を受けた御家人たちの鎌倉帰還を禁じ、京都に止まることを厳命した。

 

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義経は七年ぶりに平泉に到着したが、不運にも頼みとした奥州の覇者・藤原秀衡が文治四年十月二十九日に急逝した。秀衡は臨終のさい、国衡、泰衡、忠衡の三兄弟に、「義経を総大将に三人が結束して、鎌倉幕府に対抗せよ」と遺言したが、四代当主となった泰衝は、朝廷から義経追討の「宣旨」が下され、鎌倉からは強圧な使者が訪れるに及んで、ついに義経討伐を決意する。

 文治五年(1189)閏四月三十日、泰衡の家人長崎太郎大夫の率いる五百余騎が、突如として、衣川河畔の高館(たかだち)の義経を急襲した。義経の身辺にはわずか十余人ばかり、弁慶ら全員死闘のすえに斬死。義経は持仏堂にて自刃し、三十一歳の数奇波瀾の生涯を閉じた。

 

●義経は何故、頼朝に滅ぼされたのか?

 宇治川、一の谷、屋島、壇ノ浦合戦の大勲功者・義経は、何故、兄頼朝に疎外され、憎悪され、そして滅ぼされたのか。それはひとえに頼朝と義経の立つ位置が違っており、それを義経が理解できなかった不幸にある。

 頼朝の鎌倉政権は、平氏討伐の挙兵当時から東国武士団に擁立されて成り立っていた。頼朝と義経の父は同じ源義朝だが、頼朝の母は熱田大宮司藤原季範の女であり、その出生から言えば、明らかに「貴種」に属する。一方、義経の母は雑仕女(雑用をする下級女官)である。頼朝は三男だが、兄義平、朝長は平治の乱で討死しており、その貴種性からも義朝の後継者で源氏の嫡流と見なされていた。頼朝の挙兵に東国武士団が挙って馳せ参じたのも、武家の棟梁に相応しい血筋の持主と認めたからであろう。その鎌倉政権はいまだ盤石なものではなく、頼朝の立場は薄氷の上に立たされているようなものであった。

 だからこそ、鶴岡八幡宮若宮の上棟式で頼朝は義経に「馬引き役」を命じ、兄弟とはいえ、特別扱いせずにほかの御家人と同等な扱いをする姿勢を、麾下の武士団に見せつけたのである。しかし、頼朝は木曾義仲、平氏討伐に際しては、範頼、義経を自分の代官として東国武士団を率いさせているから、頼朝に兄弟愛がなかったとは思えない。

 

頼朝が恐れたのは、義経が後白河法皇に懐柔されて王朝政権に利用されることであった。鎌倉に武家政権の樹立を目指していた頼朝にとって、自分を擁立している東国武士団の手前、義経の行為は断じて許し難いものであった。

 屋島、壇ノ浦合戦は義経の目覚しい活躍で勝利したものの、頼朝から指示が届くのも待たずに勝手に帰洛してしまった。一方、範頼は大軍勢を率いて中国路を進み、北九州へ上陸して平氏の糧道と退路を断ち、壇ノ浦合戦後の戦後処理を着実に行なっている。(この年、西日本は大旱魃で大軍勢の範頼軍は糧食不足で困難な行軍を続けている)

 

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義経は武将としては天才であった。だが、大軍勢を率いる総大将の器ではなかった。況してや頼朝と東国武士団による新体制(武家政権)樹立のその意図さえ読めなかったろう。京へ帰った義経が頼朝打倒を叫んで挙兵しても、わずかな軍勢しか集らなかったのは、京周辺の武士たちも旧体制(王朝国家)への回帰を望んでいなかったのである。義経は所詮、旧王朝国家に生きた公家風の武将に過ぎなかったのである。

 

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 ●義経生存伝説はどうして生まれたか?

 栄光と落魄の差があまりにも大きな義経は、当時から人々の愛惜と同情を集めてきた。室町時代に入って『義経記』が創られると、そこから謡曲「安宅」「船弁慶」などが派生した。その人気は江戸時代にはさらに高まり、義経生存伝説が語られるようになる。

端緒は寛文・延宝の頃の『清悦物語』(著者不詳)で、小野太左衛門という者が寛永六年二月に平泉に於いて清悦に出会って兵法を授かった。清悦は常陸坊海尊の果物を食って仙人となったので、そのとき四百七八十歳であった。かれによると、義経主従は衣川で死なず、蝦夷へ落ち延びたという。

 

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義経伝説が息を吹き返すのは、明治十八年発行の『義経再興記』(内田弥八郎著)である。明治維新後、韃靼・蒙古混合説が喧伝され、その風潮に併せたかのように出現した。義経はついに成吉思汗(ジンギスカン)になったというのである。さらに昭和初期、小谷部余一郎の『成吉思汗は義経也』が出されて、一大センセーションを巻き起こしたのである。

 

昭和三十年代には、推理作家高木彬光が「成吉思汗の秘密」を書いている。

 

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、蝦夷地の義経復活は源為朝の琉球復活説と好一対の伝説といえよう。悲劇の英雄に対する思慕の情が、こうした伝説創作の背景にあるのだろう。

 しかし、これら伝説が騒がれる時代背景も考えなくてはならない。義経蝦夷落説が起った頃、寛文九年(1669)七月、蝦夷人の酋長シャクシャインが蜂起し、商船十九艘を奪い、士商二百七十三人を殺すという叛乱があった。さぞ未開の地・蝦夷への関心がにわかに高まったことに違いない。

 『義経再興記』の出現は、明治維新後の清朝との対峙の中で、義経の清朝元祖説(寛政の頃)を再び蒸し返したものであろうし、小谷部の『成吉思汗は義経也』は、昭和初期、満州事変をへて大陸へ野望を馳せた当時の日本人に多大な興奮をもたらせたことであろう。

 言ってみれば、義経の蝦夷落説、韃靼に渡海し清朝元祖となった説、成吉思汗説は、いずれも確かな証拠もなく、その時々の人々の夢と願望が捏造・創作させたものと言えるだろう。