20160315

2016年3月のショッパーに掲載された2015年の温故塾の様子
2016年3月のショッパーに掲載された2015年の温故塾の様子

第57回 温故塾

「修善寺物語」

 

2016年3月15日に行なわれた、温故塾は頼朝の嫡男頼家の悲劇、修善寺物語でした。北条氏の政権奪取の策謀で滅ぼされた、有力武蔵武士の比企頼員、畠山重忠の悲運の話でもありました。

 

『吾妻鏡』は北條氏が執権となり政権を簒奪したことを正当化するために編纂されたものであるから、ことさら頼家の誹謗の記事が多い。しかし、頼家は暗愚で凡庸な人物ではなかったようだ。

以下、今井敏夫塾長のレジュメ抜粋

 

<修禅寺物語・年表>

 

正治元年 1月、源頼朝死す。頼家、継嗣となる。

(1199)   4月、問注所相論の将軍直裁を重臣13人の合議制に改めようとした。

     10月、和田義盛ら、鶴岡八幡廻廊に参集し、梶原景時を弾劾する。

     11月、梶原景時一族、鎌倉を退去し、相模一ノ宮に閉居。

 

正治二年 1月、梶原一族、駿河清見関で地侍たちに討たれる。

(1200)   3月、北條時政、従五位下遠江守となる。

     12月、頼家、全国の田文(所領地の名簿)を出させて検討中であった

       治承・養和以後の恩賞地の下令を、三善康信が諫止した。

 

建仁二年 1月、頼家の鞠会を母の政子が中止させた。

(1202)   7月、頼家、従二位征夷大将軍に任ぜられる。

建仁三年 1月、将軍の世子一幡の鶴岡公式参拝に、巫女が憑依して、不吉な神

        託を下した。

     2月、北條義時らが扈従して千幡(頼家の弟)の八幡宮社参を行なう。

     5月、阿野全成(今若)が謀叛の疑いで捕われ、翌月誅される。

     6月、八幡宮の鳩の異様な死が続き、人々に不詳の前兆を抱かせた。

     7月20日、頼家にわかに発病した。頼家の病状が重態なので、卜筮が行なわ

                             れ、霊神の祟りとあった。

     8月27日、頼家の病中、全国の地頭職を分割して、一幡と千幡に譲るという

                             発表をした。

     9月2日、時政は仏会と称して比企能員を招き、これを謀殺。政子の命をうけた

                           義時その他の重臣らは、世子一幡の小御所を襲撃して、比企一族を

                           全滅させた。一幡とその母若狭局も死去した。

              9月7日、政子は頼家を落飾させた。同日、千幡に征夷大将軍の宣下があった。                   10日、時政は千幡を自邸に移し、外祖父として執権の地位を示した。

                15日、政子は義時に命じて千幡を父の自邸から取戻した。

            9月29日、頼家は伊豆修禅寺へ送られる。

           10月8日、千幡は後鳥羽上皇から「実朝」の名を賜って、元服式を行なう。

               翌9日、政所始めが行なわれ、時政は執権となる。

           11月6日、頼家の近侍者を召したい要求を政子は拒否、以後の文通を禁じた。

 

元久元年 7月19日、頼家は時政の命をうけた刺客団に殺害された。行年二十三歳
(1204)    

 

元久二年 6月22日、畠山重忠が謀叛の罪で、相模二俣川で討たれる。

 

●頼家の将軍就位

1199年1月13日、源頼朝が亡くなった。前年12月27日、相模川の橋供養(開橋式)の帰途に落馬したことが死因と言われているが、即死ではないし、日数も経っているのに遺言らしきものもない。その死にはやや訝しい点が無いでもないが、結局、狭心症か脳出血による急死と考えられる。

 18歳の頼家が家督(鎌倉殿)を継いだその年の4月、はやくも有力な御家人十三人が問注所相論(所領争い)の将軍直裁権を合議制に改めようとした。頼朝の在世中は不満ながらも承服していた重臣たちの強い意志表明であった。

 

●梶原景時の追放

 頼家は弓術にすぐれ、蹴鞠なども得意な覇気ある青年であった。その頼家の側近の梶原景時を追放しようという計画が起った。『吾妻鏡』によれば、1199年10月28日、三浦義村、畠山重忠、和田義盛、結城朝光、小山朝政ら多くの御家人らが鶴岡八幡の廻廊に集り、梶原景時弾劾の決議し署名を行なって、新将軍頼家に訴状を提出した。

梶原は御家人たちの圧迫に耐えかね、鎌倉を引き払って所領の相模一ノ宮(神奈川県高座郡寒川町)へ引揚げた。さらに翌1200年1月、梶原景時、景季らは一族を率いて上洛を目指したが、途中、駿河国清見関(静岡市狐ヶ崎)で地侍たちの襲撃をうけ、全員戦死を遂げた。

 

●北条氏の不安

北條時政は、頼朝が伊豆流罪になった当初からの庇護者であり、また頼朝の妻政子の実父であった。当然ながら鎌倉幕府内でも隠然たる勢力を持っていた。しかも、将軍頼家・千幡の外祖父であり、時政とその一族の勢力は盤石で、少しのゆるぎないものに見えた。

 ところが、北條一族にとって大きな障害があった。頼家の妻・若狭局の実父の比企能員の存在である。能員は頼朝の大恩人比企尼の甥であり、頼家の正嫡一幡には外祖父にあたる。頼家に万一のことがあれば、この一幡が三代将軍となる。とすれば、北條一族はその政治基盤を縮小されかねず、比企能員が外祖父として台頭してくるのは間違いない。時政・義時父子はやがてやってくる北條一族の危機を感じた。これに対抗するには頼家と一幡を排除し、頼家の弟千幡を擁立するほかにない。

 

1203年8月27日、頼家危篤につき、全国の惣地頭職を分割し、関西三十八ケ国の地頭職を千幡君(11歳)に譲り、関東二十八ケ国の地頭ならび惣守護職を一幡君(6歳)に充てると発令した。これに外祖父比企能員が秘かに千幡に譲られたことを恨み、千幡と彼の外家(北條氏)に叛逆を企てようとした、と『吾妻鏡』にある。

 

●比企一族の滅亡

 1203年9月2日、時政は仏像供養にことよせて比企能員を自邸に招いた。能員は敵対関係にある時政の招待に危惧したが、まさか仏像供養に於いて、暗殺するような振舞いはないだろうと、わずかな従者を連れて名越の時政邸を訪れた。門を入るやいなや、能員は待構えていた天野遠景、仁田忠常らに左右の手を押えられ、たちどころに殺害された。〃能員討たれる〃との報せを聞いた比企一族や郎党は、一幡君御所(小御所・比企ケ谷)に立て籠もった。すかさず、これを謀叛だとして、尼御台所(政子)の命令で追討軍が押し寄せた。

 防戦一方の比企方はついに力およばす、「舘に火を放って各(おのおの)若君の御前に於いて自殺す。若君も同じく此の殃(わざわ)ひを免れ給わず」(『吾妻鏡』)と、一幡も母の若狭局とともに亡くなったとある。能員の与党も探し出されてことごとく滅ぼされた

 

●頼家の弑逆

 1203年9月29日、頼家は伊豆修禅寺へ送られた。10月8日、千幡は後鳥羽上皇から「実朝」の名を賜って元服式を挙げた。翌日、実朝の政所始めが行なわれ、北條時政が執権となった。すべてが、北條氏の思惑通りに進んだが、修禅寺の頼家の存在が目障りである。

翌1204年7月19日、時政の命をうけた刺客団が浴室にいた頼家を襲った。

 

●畠山重忠の討滅

 京都守護職平賀朝雅と畠山重保(重忠の子)が酒宴の席で争いにおよんだ。朝雅は時政の後妻・牧の方の娘婿であり、また重忠の妻は時政の先妻の娘婿であった。争いの原因は不明だが、朝雅が牧の方に訴え、牧の方はこれを畠山重忠らの謀叛であると時政に讒訴した。

 

1205年6月20日、畠山重保が武蔵国から鎌倉へ出てきた。招き寄せたのは稲毛重成であった。22日、早朝から鎌倉中は大さわぎになった。将兵たちが謀反人を殺すのだといって、先を争って由比ガ浜方面へ走って行く。重保主従も何のことかと由比ガ浜に向ったところ、突如、時政の命をうけた三浦義村の兵に取り囲まれた。そこで、重保もはじめて謀反人が自分たちのことと知って驚いた。奮戦したが、多勢に無勢、主従とも殺されてしまった。

 畠山重忠は19日に菅谷の舘を出発し、この日、相模二俣川に着いたところであった。そこへ義時・時房以下の葛西清重、和田義盛の大軍が押し寄せた。重忠は百三十騎位しか引き連れていない。

 討伐軍の先陣は安達景盛であった。愛甲幸隆の射た矢が重忠に命中し、乱戦の中、重忠は首をとられた。時に四十二歳だった。

 

 こうして重忠父子は無実の讒言によって殺された。翌日、重忠父子を鎌倉へ呼寄せた稲毛重成が討たれている。そもそも、この事件は平賀朝雅が畠山重忠に遺恨があり、牧の方に讒言したので、時政が重成を語らって、鎌倉に変事が起きたと手紙で知らせてやったので、重忠が出てきて途中で非業の最期をとげたのである。

 

武蔵国惣地頭職・畠山重忠は、河越重頼、比企能員亡き後、武蔵国最大の豪族であり、その武功・人格とも傑出して評判もいい。北條氏が鎌倉執権として御家人層を支配下に置こうとするには、有力者重忠の存在は大きな障壁であった。また、畠山氏を除けば広大な武蔵国を手中に出来るし、相模国と鎌倉は安泰となる。重忠の討滅は、時政、政子、義時の北條一族が仕組んだ政治的謀略なのである。

 

 この後、政子・義時は父時政と牧の方を伊豆北條に幽閉し、平賀朝雅を京都で誅殺している。