20160419

第58回 温故塾

「坂本竜馬暗殺の謎?」

 

●龍馬は何をしたのか? 

龍馬は天保六年(1835)十一月十五日、高知の豪商坂本直足の二男に生まれた。生家は才谷屋といい、金融業と質屋を兼ねた裕福な家庭であった。名は直柔、変名を才谷梅太郎と名乗った。

 

 

嘉永六年(1853)、十九歳になった龍馬は剣術修業を名目に私費で江戸に行き、北辰一刀流千葉定吉の門下となった。

 

当時の龍馬は尊皇攘夷の意志が強く、文久元年(1861)九月、武市瑞山を首領とする土佐勤皇党に加わり、翌年三月脱藩。九州各地などを遊歴して、八月江戸へ下った。幕府軍艦奉行の勝海舟を斬りに行き、反対に説き伏せられて門下生となった話はよく知られているが、その真偽はともかく、海舟に会って、龍馬が土佐勤皇党とその政治的傾向を異にしはじめたのは間違いない。

 文久三年、海舟に従って上京。神戸海軍操錬所開設の資金援助の使者に立つなど、海舟の手足として東奔西走した。

 

龍馬は塾頭として、操錬所の運営に当っていたが、元治元年(1864)十月、海舟が失脚し江戸へ召喚されると、同時に神戸操錬所の閉鎖を命じられた。そのため塾生を率いて長崎へ移り、海舟の斡旋で薩摩藩の後援を得て、「亀山社中」を結成した。この時点から、龍馬は独立独歩の道を歩み始める。

 

亀山社中は薩摩の汽船を長崎から鹿児島へ運航して人や物資を運んだり、伊予大洲藩の汽船いろは丸を借りて、長崎から大坂へ積荷を運んだり、さかんに海運業を行なった。その頃、諸雄藩は汽船を購入しても熟練の操縦者がおらず、亀山社中はどこでも歓迎された。龍馬は今でいう社長、経営者だったが、報酬は社中全員と同額の三両二分で、主な担当は諸藩から仕事をとってくるセールスマンだった。(武器商人グラバーの番頭ともいう)

 

土佐藩重役の後藤象二郎は、亀山社中を〃海援隊〃という藩の外部団体にしてくれた。

 これで脱藩浪人の集団が、晴れて土佐藩御用の看板で営業できることになった。海援隊は藩の海軍別働隊ではなく、藩御用の海運貿易商社のようなものであった。

 

龍馬は長州の中岡慎太郎と共に薩摩と長州の調停に奔走し、長州が必要とする武器弾薬を薩摩名義で亀山社中が購入し、これを長州へ運んで長州の米と交換するという商談を成功させた。

 

第二次長州征伐で幕府軍は敗北した。龍馬はこの頃から大政奉還の構想を描き始める。慶応三年六月、長崎から京都へ向う船中で、後藤象二郎に説いたのが、有名な〃船中八策〃である。後藤はこれを山内容堂に伝え、土佐藩の「大政奉還建白」案となり、将軍徳川慶喜がこれを受け容れて、同年十月十三日、ついに「大政奉還」の運びになった。

 

●龍馬暗殺犯人は誰か?

○見廻組説

今日の史学界では、坂本龍馬の暗殺は京都見廻組の佐々木只三郎らの犯行というのが定説になっている。

○新選組説

○薩摩藩説

○土佐藩説

 

いろいろな面から龍馬暗殺を追ってみたが、やはり、定説化している京都見廻組七人の犯行に落ち着く。

 見廻組は幕府の御家人から徴募したもので、武芸に秀逸な者が選抜されたという。つまり、会津藩預かりの新選組とは違い、最初から幕臣で構成した。四百名ぐらいいたという。鳥羽・伏見の戦いの「京都見廻組戦死者名簿」を見ると、佐々木只三郎は組頭兼頭取、三十三歳。渡辺吉三郎は肝煎、二十六歳。桂準之助は肝煎、二十八歳。高橋安次郎は伍長、二十七歳。桜井大三郎は見廻組並、三十三歳。土肥沖蔵も見廻組並、三十六歳とあって、今井信郎(二十六歳)のほかはみな戦死している。

 

今井はその後、古屋佐久左衛門と衛鋒隊をつくって東北各地で官軍に抗戦、明治二年、箱館五稜郭で降伏した。龍馬暗殺の自供はこの時である。今井は直接手を下さなかったので、禁固三年の刑となり、明治五年に赦されて静岡藩へ引き渡された。中條金之助らの牧の原開墾地に入り、一時静岡県に出仕したが、晩年は敬虔なクリスチャンとなり、榛原郡初倉村の村長などを務めた。  大正九年、七十八歳で没した。