20160719

第61回 温故塾

         2016年7月19日

「家康と16武将」

 

仏教由来の”四天王”など数字を用いた表現が良く使われる。こうした風潮は古来、和歌や学問などさまざまな世界にももちいられており、つまり、ある同時代に活躍した偉人・英傑をある数字で括り、人々の記憶に印象づけるという意義であったろう。

”四天王” : 須弥山の中腹で、東方に持国天王、南方に増長天王、西方に広目天王、北方に多聞天王が住み、この〃四天王〃が仏法を守護している。

さて、徳川家の家臣はどう呼ばれていたか?

 

”四天王” と呼ばれる家康の家臣は、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝、榊原康政。

”三傑” は、井伊直政、本多忠勝、榊原康政。

 

”家康十六武将” は”四天王”に、内藤正成、高木清秀、蜂屋貞次、服部半蔵、渡辺半蔵、米津常春、鳥居元忠、鳥居元春、松平康忠、大久保忠世、大久保忠佐、平岩親吉の十二人を加えたもの。

 

人数を揃えて偉人・英傑を称賛するのは、海外を問わず、実に数多い。戦国時代に限れば、武田二十四将、尼子十勇士、賤ケ岳七本槍、上田七本槍、小豆坂七本槍などである。

 

 しかし、このような数合わせて人物を列記すること自体、とうぜん無理が生じる。数合わせでは、実態の分からない人物や活躍した時代がズレている人物なども入っているし、決してこれらを鵜呑みにはできない。

 

 さて、家康をめぐる十六人の武将型臣僚はどうであろうか。武将型というから、謀臣の本多正信・正純父子は入っていないし、本多重次、天野康景、高力清長の三奉行(仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野康景)も入らない。

 

 

酒井忠次 大永7~慶長1(1527~1596)

 忠次は家康の父広忠に仕え、その妹碓井姫を娶った。広忠の死後、今川義元の人質となっていた竹千代(家康)に近侍し、永禄三年(1560)家康が岡崎城に入り自立すると家老となって補佐した。永禄六年の三河一向一揆などに力戦し、翌年三河一国を統一すると吉田城主となり、東三河の諸士の旗頭に任ぜられる。

 忠次はさまざまな合戦で戦功を挙げたが、外交にも政治力を発揮した。今川家没落後の遠州経略では諸豪を徳川傘下に集めたり、天正十三年に、宿将の石川数正が秀吉の許へ奔るまで、忠次と数正は、家康の両翼として徳川家を代表する家臣であった。

 

忠次には有名なエピソードがある。

 天正七年、信長から家康の嫡子信康の謀叛が疑われたとき、安土に赴いた忠次は、なぜか弁明しなかった。結果、信康は自刃させられるのだが、家康はそのことについて、ずっと沈黙してきた。

 天正十八年、関東入りした家康が、忠次の子家次に三万石を与えたが、忠次は不満で、さらなる加増を願ったところ、家康は、「おまえでも、わが子が可愛いのか」と言ったという。

 忠次が信長に弁明しなかった理由は、若い信康と旧臣たちの確執があり、信長の謀叛の疑いに積極的に抗弁する気はなかったようだ。いわば、徳川家内部の問題でもあったのだ。

 

本多忠勝 天文17~慶長15(1548~1610)

 通称を平八郎。永禄三年に十三歳で初陣。以後、五十七回の合戦に出陣し身に傷痕を止めなかったという徳川家随一の猛将。十九歳で騎士五十人を付属せしめられたほどの逸材で、戦功は数え切れない。姉川、三方原、小牧長久手合戦における奮戦振りは、敵方にも轟きわたり、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と称えられた。

 

 天正十年三月、武田家が滅亡し、信長は甲州から南下して駿河へ出て、東海道を西上して天竜川を渡河するとき、忠勝を招いて戦功を賞美し、侍臣を振り返って、「これは三河の本多平八郎という花も実も兼ね備えた勇士である」と紹介した。まさに忠勝一代の名誉であった。

 

 天正十八年八月、家康の関東入国後、忠勝は上総大多喜十万石を与えられた。これは榊原康政と同列で、この両将を超えたのは上野箕輪十二万石の井伊直政だけである。

 

榊原康政 天文17~慶長11(1548~1606)

 榊原氏は、伊勢壱志郡榊原村に興り、康政の祖父清長が松平広忠に仕えたというから岡崎譜代になる。康政は初名を小平太、叙任を受けて式部太輔。永禄三年、大樹寺(松平家菩提所)において家康に拝謁し、この時から側近として仕えた。

 永禄六年、十六歳で一向一揆の平定に初陣し、元康(家康)の一字を貰って「康政」を名乗った。つねに先陣に立ち、姉川、三方原、長篠、高天神の戦に従軍して戦功を挙げ、本多忠勝と並び称される猛将だった。

 

 天正十二年の小牧長久手合戦では、敵の士気を挫くべく秀吉弾劾の「檄文」をバラ撒いた。いわく、「秀吉は野人の子であり、信長公の恩寵によって大封を得たのに、信長公卒するや忽ち主恩を忘れ、先に信孝公を殺し、今また信雄公と干戈を交える。まことに大逆無道の振舞いである。秀吉に従うものは、みな義を知らざる者なり」という内容だった。秀吉はこれを聞いて激怒し、「康政の首を斬った者は、恩賞は望みしだいである」と陣中に触れ回した。

 

 御家人の忠勝、康政に知行が少なかったことを憤っていたらしい。晩年、病床にあった康政に家康から見舞いの上使が来たとき、蒲団の上から下りもせずに、「康政は腸が腐って、やがて死すると言上してくれ」と素っ気無かったが、秀忠からの上使には、蒲団を下りて礼服に着替えて深く御礼を述べたという。

 

井伊直政 永禄4~慶長7(1561~1602)

天正三年二月、家康が鷹狩りの際、浜松城下の路辺で直政を見つけ、召し連れて家臣(小姓)にしたという。直政十二歳だった。

 初陣は翌年二月の遠州芝原で武田勝頼と対陣したときで、軍功を立てたという。天正九年三月の高天神城戦では、直政は間諜を忍ばせて水の手を切落とし、軍功をあらわしたという。どうも家康のお気に入りだったようだ。天正十年六月、本能寺の変後の伊賀越えにも扈従しており、岡崎へ帰着後、その功労を賞されて孔雀の尾で織った陣羽織を与えられている。

 

 直政の活躍はこれ以後、ますます大きな働きを示す。武田家滅亡後の旧臣百二十名を配下に加えられ、甲冑・旗槍を赤一色で統一された。この年、兵部少輔を称する。天正十二年には井伊谷三人衆(菅谷忠久、近藤秀用、鈴木重時)を配属になる。徳川家の先鋒の家柄とされるのは、この頃からであろう。

 天正十八年、関東入国後は上野箕輪城十二万石。慶長三年には和田へ移り高崎城と改称した。関ヶ原の功により、近江佐和山で十八万石を与えられたが、慶長七年二月、関ヶ原の戦傷がもとで死去。四十三歳だった。

大久保忠世 天文1~文禄3(1532~1594)

 大久保家は岡崎南方の上和田を本拠に勢力を伸ばした一族で、子孫は繁栄し分布した。大久保彦左衛門の『三河物語』に「代々、野に臥し、山を家として、かせぎ、かまり(物見)をして、たびたびの合戦に親を討ち死にさせ子を討たせ、伯父・甥・従兄弟・又従兄弟を討ち死にさせて、御奉公を申上げ……」とあるように、大久保党は粉骨砕身、終始主家を裏切らず、家康の天下覇業に邁進した。

 

 忠世を中心とする大久保党の戦功はめざましく、長篠合戦では忠佐と共に信長から大いに賞されている。天正十二年の小牧長久手合戦にも戦功を挙げたが、その後は武将型というよりも、信濃経略などに政治力を発揮した。天正十八年、小田原城四万五千石の領主となり、文禄三年九月、六十三歳で死去。

 

内藤正成 享禄1~慶長7(1527~1602)

通称を四郎左衛門。甚五左衛門忠郷の二男。弓矢の達人で数多くの戦功をあらわした。金崎城攻めの退陣の途中、六本の矢で六人の敵を射殺し、高天神城攻めでは一本の矢で二人を倒した話が伝えられる。  関東入国後、武蔵埼玉郡内で五千石の所領を与えられ、慶長七年四月、七十六歳で歿した。典型的な武将型家臣だった。

 

高木清秀 大永6~慶長15(1526~1610)

 

 服部半蔵 天文11~慶長1(1542~1598)

半蔵は通称で名は正成という。父の半三保長は足利義晴の臣だったが、三河に来て松平清康・広忠・家康の三代に仕えた。先祖は伊賀国服部郷を領する服部氏の一族。正成は家康と同年であった。半蔵は弘治三年、十六歳で伊賀の忍びの者七十人を指揮して戦功をあげたが、むしろ、豪勇の士として知られ、〃鬼の半蔵〃と称されていた。

天正十年の本能寺の変後、家康一行は危険で難路の伊賀越することになり、半蔵が案内を勤めた。半蔵は甲賀、伊賀の地侍に呼びかけ、家康を護衛して、加太峠を越え、無事に伊勢の白子浜へ抜けた。危地を脱したのは、甲賀衆・伊賀衆のおかげだった。かれらはのちに徳川家に召し出され、伊賀郷士二百人に千貫の禄を与え、半蔵をその頭領とした。これが〃伊賀組〃の起こりである。

 慶長元年十一月五十五歳で歿。知行は八千石だった。半蔵には正就、正重の二子があったが、正就は大坂の夏陣で戦死し、正重は過失があって改易された。

 

渡辺半蔵 天文11~元和6(1542~1620)

 通称を半蔵、忠右衛門といい、名は守綱である。弘治二年以来、家康に仕えて数々の功名を挙げた。永禄五年の三河八幡合戦で槍先の功名著しく、〃槍の半蔵〃の異名を得た。

 天正十八年、関東入国後、武蔵比企郡(東松山市野本)で三千石を領した。

 〃槍の半蔵〃は関ヶ原合戦の五十九歳まで、足軽頭であった。勇武絶倫というか、個人的勇気で政治性がないところが、単純でサバサバしている。鬼の半蔵の子孫の不運に比べて、槍の半蔵の子孫は幸せであり、和泉伯太一万三千五百石の小大名として明治維新を迎えている。

 

鉢屋貞次 天文8~永禄7(1539~1564)

平岩親吉 天文11~慶長16(1542~1611)

 

鳥居元忠 天文8~慶長5(1539~1600)

 慶長五年の関ヶ原合戦では、松平家忠らと伏見城に籠城し、同年八月、同地で戦死した。いわば関ヶ原合戦の勝利の捨石となったのである。

 

鳥居直忠 (生没年不詳)

米津常春 ?~慶長17(~1612)