20160920

第62回 温故塾

 

信長の合戦

 

革命児・信長

 応仁の乱(1467~1469)以後、百年以上も続いた戦国乱世に終止符を打った革命児・織田信長は、天文三年(1534)五月、尾張の勝幡城に生まれた。父の信秀は、尾張下四郡の守護代織田大和守の三奉行の一人であった。

 

 道三と信長の聖徳寺で会見が有名である。その日、道三は前以って「尾張の大うつけ」と評判の信長を垣間見ようと、街道沿いの家屋に潜んでいると、やがて信長一行がやってきた。「袖をはずした湯帷子を着て、半袴をはき、腰には火打袋などさまざまな袋を吊り下げ、髪を茶筅に結い、赤糸、萌黄糸で巻き立てる」という、〃かぶき者〃である。異風、珍奇好みというか、反俗的性向が異装となって表われ、一種の覇気が漲っている。足軽には三間余の朱槍の長柄五百本、新兵器の鉄砲五百挺を担がせていた。その信長が会見の席上に、すらりと正装して現れて、道三を驚倒させた。会見の後、舅の道三は「わが子供らは、あのたわけが門外に馬を繋ぐべくこと、案の内にて候」と嘆いたという。

 

 信長の行動からある特性が窺われる。

一つは、旧例・古格にとらわれずに行動する。

二つは、織田家旧臣よりも土豪、浮浪人、闇商人との交流している。

三つは、すでに大量の鉄砲を揃え、三間余の長槍部隊を持っていたことである。

    (鉄砲が諸大名に普及するのは永禄年中である)

 その財力の源は、伊勢湾の交通路の要地・津島神社の経済力である。いったい尾張地方は、農業経済よりも商工業が盛んで、流通経済が発展していた。商工業社会では、なによりも〃銭〃の力がものを言う。

 

それに信長の兵制改革は、意図的に銭で雇う兵士、つまり、傭兵専業軍団を創りあげたことだ。当時、まともな人間はすべて何らかの組織(集団)に属していた。農民は村落共同体に、商人は座に、僧侶は寺院に、といった具合である。各地の大名の軍隊は、それぞれの領地の主が軍役に応じて、その支配する村落共同体から壮丁(兵)を動員して連れてくる集合体だった。

 

●桶狭間の合戦(永禄三年五月)「正確な情報こそ、戦功一番」

1560年 五月、駿河の太守今川義元が上洛の軍勢を催した。総勢二万五千。これに対し、信長が動員できる兵力は四千人前後しかない。義元は十二日駿府を出発し、十八日には沓掛に達し、鷲津、丸根の織田方の諸砦を攻め落し、十九日には桶狭間に進出、本陣は田楽狭間に休止した。

永禄三年五月十九日午の下刻(午後一時)、信長は敵の先手を回避し、ただ今川義元本陣を目掛けて、主力部隊の二千人を一挙に突入させた。

戦後、論功行賞があった。義元に一番槍をつけた服部小平太は五百貫、首をあげた毛利新介は一千貫であったが、〃戦功一番〃と賞されたのは、義元の本陣の位置を正確に伝えた梁田政綱で、沓掛城と三千貫の土地が与えられた。つまり、信長は正確な情報こそ、合戦の死命を決することを織田軍全体に知らしめたのである。

 

●姉川の合戦(元亀元年六月)「律儀な盟友、徳川家康」

 1570年、信長はしきりに鉄砲を調達する一方、美濃と近江の国境を守る浅井方の部将たちを誘降した。六月、信長は浅井氏の小谷城城下を焼き払い、支城の横山城を囲んだ。すると長政は援軍の朝倉景健と出陣してきた。約一万八千余である。信長軍は駆けつけた家康軍と合わせて三万四千。両軍は姉川をはさんで対峙した。〃姉川の合戦〃である。

 戦いは同月二十八日早朝から始まり、織田軍は十七段構えの陣を十一段まで破られる苦戦におちいったが、徳川軍が川を押し渡って力戦し、浅井・朝倉軍に大勝した。

 

●三方原の合戦(元亀三年十二月)「復讐に情けは無用なり」

 1572年 十一月、信玄が甲府を出陣し、遠江へ入り、家康の居城浜松城に迫ったのが下旬である。信長は三千の援兵を送り、「戦ってはならぬ」と伝えた。だが、家康は目の前を武田軍が通過するのを看過できなかった。短気な家康は突出し、三方原で戦いを仕掛けて無惨な大敗を喫した。

●長篠の合戦(天正三年五月) 「強敵は遠くから鉄砲で殺せ」

 信玄の子武田勝頼は士気旺盛な強みの大将である。遠江高天神城、美濃苗木城を落として、意気盛んである。

1575年 五月、三河長篠城に攻めかかった。城将奥平貞昌は家康に報告し、家康また信長に救援を要請した。信長は麾下の諸将に鉄砲を集めさせ、足軽に丸太を担がせてやってきた。主戦場は連子川をはさんだ設楽原である。信長は丸太で馬防柵をつくり、鉄砲足軽をずらりと並べた。その数三千挺。兵を柵内に止めて討って出ない。

 一方、勝頼は海内無双の騎馬軍団で猛然と突撃してきた。一斉に鉄砲の火が吹き、武田軍はバタバタと倒れた。勇猛な山県昌景、原昌胤、内藤昌豊らの諸将は、敵兵と槍も合わせることなく、名もない足軽の射手の銃弾に撃ち抜かれた。死者一万といわれ、勝頼はわずか六騎で甲府へ逃げ去り、二度と立ち上がれなかった。鉄砲の集中使用という信長のアイデアの勝利であった。

 

●石山本願寺の合戦(天正四年~八年) 「鉄の大船で海戦を制す」

 1576年、信長は琵琶湖畔に安土城を築城した。

この年、石山本願寺が毛利輝元と結んで、積極的に敵対した。背後には備後鞆ノ津に居住する義昭がいる。信長はいよいよ一向一揆の総本山・石山本願寺と本格的戦争となった。本願寺には雑賀衆が加わり、その鉄砲の射撃術に織田軍はしばしば苦杯をなめた。信長は付け城を築かせ、兵糧攻めにした。が、毛利水軍は木津川河口で織田水軍を撃ち破り、難なく兵糧を運び入れた。敗因は毛利水軍の巧みな操船技術と、焼玉、焙烙弾、火舟によるものであった。

1578年 七月、完成した鉄の大戦艦を木津川河口に待機させ、こんどは来襲した毛利水軍六百隻を壊滅させた。雑賀衆が信長に降り、兵糧調達も困難になった石山本願寺は、1580年 八月、天皇の勅命によって信長と和睦(実体は降服)し、顕如上人は紀州鷺の森へ退去した。

 

●本能寺の変(天正十年六月) 「ビジョンなき光秀の三日天下」

1582年 三月、信長は甲州へ出陣し、武田勝頼を攻め滅ぼした。武田討伐の理由があるとしたら、長年かれのために律儀に尽くしてくれた家康に対する「はなむけ」であろう。その家康が御礼言上に安土へやってきた。五月十五日のことで、信長は光秀に供応役を命じた。

 折から、備中高松城を水攻めしている秀吉から救援の要請がきた。高松城の後詰に毛利の全軍が出てきた。信長は〃天下布武〃の成否をかける一戦とみた。自ら出陣して総指揮をとるつもりで、まず光秀に出動を命じ、五月二十九日、僅かな手勢を率いて上洛、本能寺に入った。六月一日、信長は本能寺において茶会を催した。余裕というか、一瞬の油断が生じた。

六月二日早朝、光秀は本能寺を襲撃した。信長は近習に「何者か?」と問い、明智光秀の謀叛と聞くと、「是非もなし」と言ったという。まもなく本能寺に火焔があがった。革命児・信長の最期の瞬間だった。

●信長という革命児

性格

 信長の性格は、決して短気ではなく、じっと辛抱強く耐えることができた。その上、執念深かった。

 

人事

 浮浪人を集めて、戦闘専門の傭兵軍団を組織した信長は、徹底した実力主義、競争主義でどしどし出世をさせた。明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益らはみな出自も定かでない浮浪人であった。傭兵ならば「銭」の力で、いくらでも集めることができる。戦国の世は主家を失った武士や土豪、浮浪人をたくさん輩出したのだ。信長の旗印「永楽通宝」が、なによりも銭の軍団・織田軍を表徴している。

 

軍事

 信長軍の兵は弱かった。弱兵ならば鉄砲で遠くから敵を撃てばいい。一発必中の鉄砲名人は不要だ。百挺の鉄砲で十発当ればよく、一千挺の鉄砲ならば百人を殺せる。これが信長の思考回路である。