20161018

第63回 温故塾

 

<関ヶ原戦記>

 

東西両軍二十万が激突した関ヶ原の実相を探る。

 

秀吉の死後

慶長三年(1598)八月十八日、豊臣秀吉は享年六十二で死去した。豊臣政権は秀吉の遺言で五大老に託されたが、次期政権の担い手として五大老筆頭の徳川家康に対する声望が大きかった。五大老とは、家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家であったが、その封地といい、戦歴・経験・実力といい、誰一人、家康に対抗できる大名はいなかった。

 

●石田三成・五奉行

 秀吉の生存中、その信任をうけて政権運営に携わったのは五奉行という執行機関だった。その筆頭は石田三成で、ほかに長束正家、増田長盛、前田玄以、浅野長政かいた。石田、長束、増田の三人は共に近江出身であり、算勘・数理に明るい吏僚派である。自然、浅井氏の血を引く秀頼の生母淀君を中心とする近江閥を形成していた。

 一方、加藤清正、福島正則、浅野幸長らは尾張出身であり、みな歴戦の武闘派である。かれらは育ての母ともいえる秀吉の正室高台院(ねね)を取巻く尾張閥をつくっていた。

 

ここで五大老の封地を比較すると、家康は関八州二百五十万石、前田利家は加賀・能登・越中を入れても七十六万五千石、毛利輝元は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲で百十万五千石、上杉景勝は会津九十一万九千石、宇喜多秀家は備前五十七万四千石であった。ほかの有力大名では、常陸の佐竹義宣が八十万石、奥州の伊達政宗が六十万九千石、薩摩・大隈・日向の島津義弘が六十三万石であった。

 

●石田三成の戦略

 三成の狙いは豊臣恩顧の大名を糾合し、反徳川の包囲網を築いて家康の野望を打砕くことである。三成に同意したのが盟友の上杉景勝の家老直江兼続であった。近江閥の増田、長束もそれに引きずられた。加藤・福島と不仲の小西行長、宇喜多秀家も賛意を示した。毛利輝元を大坂城に入れて総大将に担ぎ、その軍事力に期待した。四国の長曾我部盛親、薩摩の島津義弘も巻き込むことに成功した。その計画は、会津の上杉景勝が再三の大坂城参内を拒んだので、大老筆頭の家康が征討軍を率いて関東へ下る。その隙を衝いて大坂にいる諸将の妻子を人質にし、京坂地区の徳川方勢力を討ち滅ぼし、秀頼の命令を下して徳川家康討伐の帥を発し、上杉軍と家康を挟撃するというものであった。

 

家康は大老の毛利輝元、宇喜多秀家などと相談し、景勝が上洛に応じないため、ついに会津討伐に踏み切った。六月十八日、伏見を発向した家康は、近江、伊勢をへて東海道を下り、七月二日、江戸城に帰った。家康の江戸下向を待って、ついに石田三成が行動を起こした。

 

西軍の主なる大名は、毛利輝元、毛利秀元、吉川広家、宇喜多秀家、島津義弘、小早川秀秋、鍋島勝茂、長曾我部盛親、小西行長、蜂須賀家政、生駒親正、脇坂安冶、高橋元種、秋月種長、相良頼房らで、総勢九万三千七百人。たいそうな人数だが、この中には領国の地形上、仕方なく西軍に投じた者や、形勢を観望して、当面を誤魔化した者もあり、二股を掛けた者もあり、敵に内通している者もあった。十万近い人数があっても、いわば烏合の衆であった。

 

●小山会議

 西軍の活発な動向を知った家康は下野小山において、諸将を招集し軍議を開いた。席上、家康は「西上して石田、大谷らの逆徒を討たんと思う。諸候には大坂の妻子が気掛かりな者もあろう。それぞれ思いのままに行動されても些かも恨みには思わぬ」と告げた。そのとき、福島正則が立ち上がり、「わしは身命を投げ打って、内府(内大臣・家康)にお味方つかまつる」と宣言した。豊臣恩顧の大名中、猛将で知られた正則の一言で、黒田、浅野、細川、池田ら諸将の旗幟(きし)は決った。続いて、山内一豊が「わが掛川城を内府へ明け渡す。心置きなく東海道を上られよ」と言った。これで東海道に居城のある大名は次々と家康に城を差し出すことになった。従軍のほとんどの諸将が家康の指揮下に入ったが、真田昌幸・信繁父子は長男の信幸と別れて、上田城へ帰った。

 

●決戦、関ヶ原

 関ヶ原は中山道が東西につらぬき、北へ北国街道が北上し、南へは伊勢街道が南下するという諸街道の結び目のようになっている。こうした地形を古来兵法の術語では「衢地」(くち)といい、大合戦のおこなわれる場所とされてきた。

 九月十四日の夜、大垣を出発した西軍は、十五日午前一時ごろから未明にかけて、各諸隊は関ヶ原に布陣した。石田三成は笹尾山の麓に陣取って、北国街道を押さえ、前衛に島勝猛、蒲生郷舎を配した。兵数七千(秀頼の黄幌衆を含む)。島津維新隊は、石田陣から一丁半(150m)ほどの右に陣取り、兵一千三百を四段に構えた。小西幸長隊は兵を前後の二段に分け、島津隊の右隣に陣を布いた。兵四千。大部隊の宇喜多秀家隊は最後に到着し、中仙道を押さえる位置に布陣した。兵一万八千。大谷吉継隊は宇喜多隊の右に陣を布いた。兵二千。兵数が少ない木下頼継、平塚為弘、戸田重政隊は大谷隊に合流。さらに松尾山下に脇坂安冶、赤座直保、朽木元綱、小川祐忠の四隊を配した。兵五千。

 松尾山の小早川秀秋隊は一万三千。南宮山の山頂に毛利秀元、吉川広家の一万六千。南宮山の東下に長束正家の一千五百、安国寺恵瓊の一千八百、長曾我部盛親の兵六千六百があった。兵数総計七万九千という。

 一方、東軍の配置は、石田隊に対して右翼の黒田長政、細川忠興、田中吉政、加藤嘉明、戸川達安、生駒一正らの二万六千余、宇喜多隊には松平忠吉、井伊直政、藤堂高虎、福島正則、寺沢広高、京極高知らの一万八千余。家康は旗本三万を率いて桃配山に陣取った。背後の南宮山の毛利秀元、吉川広家に備えて池田輝政、浅野幸長、山内一豊らの二万六千。この二万六千を除けば、関ヶ原に出た東軍の総数は七万四千となる。

 

・・・・・・・・・

 

奇妙な行動に出たのは島津隊である。西軍が敗走する中、島津隊は少しも陣所を動かず、もはや周囲は東軍の兵で取り囲まれていた。維新(義弘)は戦死を覚悟し、「これより敵中を突破し、島津の武名を後世に伝えん」と一千三百の兵に檄を飛ばした。島津隊は十重二十重の包囲の中に死に物狂いで突進した。福島、小早川、本多、井伊の諸隊がこれを追った。島津豊久は乱軍の中で本多の兵に討ち取られ、島津兵の多くが戦死し、維新に付従う者わずかに八十余名であった。維新らは牧田川を越えて、多良方面へ向って去った。

 

この合戦で家康麾下の旗本三万は働いていない。徳川の譜代大名では井伊直政、松平忠吉、本多忠勝が参戦しただけであり、忠勝は五百の兵しか率いていなかった。中仙道を進んでくるはずだった秀忠の三万八千は、上田城の真田昌幸・信繁父子に足止めを喰らって、関ヶ原合戦には間に合わなかったが、まったく手つかずであった。

 関ヶ原で戦ったのは、互いに豊臣恩顧の大名たちであったのである。

 

●関ヶ原合戦とは何だったのか?

 全国の大名を東西の二つに分けて、二十余万の将兵が「天下の覇権」を賭けて争ったといわれる〃関ヶ原合戦〃は、わずか六時間ばかりで決着がついてしまった。いったい何故だろうか?

 

 一つは、秀吉死後の豊臣政権の継続に、多くの大名が拒否反応を示しており、次期政権に徳川家康を待望していたことである。西軍に属しながら、家康に内応、裏切りを通知する大名がいかに多数であったかで分かる。

 

 二つは、この合戦は豊臣恩顧の大名同士の戦いであったことだ。石田三成、増田長盛、長束正家、安国寺恵瓊の吏僚派と福島正則、浅野幸長、黒田長政、細川忠興らの武闘派の対決だった。

また一面、秀頼生母の淀君と秀吉の正室高台院(ねね)の確執もあり、吏僚派は淀君、武闘派は高台院を軸にして派閥を形成していた。加藤清正、福島正則は秀吉死後、高台院から「今後は内府(家康)を頼みとせよ」と諭されているし、去就に迷った小早川秀秋も「家康殿に味方せられよ」と言われていた。

 

 三つは、石田三成の思い上がり、錯覚である。秀吉死後の流れを読めず、五奉行の権力を振るおうとしたこと。三成は秀吉あっての秘書課長であり、亡き後は一大名にすぎない。副社長や専務・重役に向って指図するようなもので、当然人々の反感を買った。その性格も問題だ。島津義弘に対する対応をみれば分かる。とても大軍を指揮する器量はない。関ヶ原合戦では幼君秀頼の威光を借りて、西軍の諸将を勧誘したが、三成の人望に引き込まれたのではない。

 

 四つは、三成と呼応して挙兵した上杉景勝、直江兼続の消極的な戦いぶりである。伊達、最上勢に背後から衝かれるかもしれないが、乾坤一擲の勝負を挑んだならば、なぜ、江戸を目指して攻撃しなかったのか? 結局、伊達・最上勢と小戦闘をやっただけで、百二十万石を三十万石に減封されている。