20170221

温故塾 第66回

「鎌倉公方九代記 上」

 

足利尊氏は室町幕府を開くと、重要地域である関東鎮圧の必要性から、二男

の基氏を鎌倉へ下向させて、〃関東管領〃に任じ、上杉憲顕をその執事として

補佐させた。

 

 始めは関東管領と称していたが、基氏、氏満、満兼、持氏と続くうちに、しだいに〃鎌倉公方〃とか〃関東公方〃と呼称されるようになり、それに従い、鎌倉府の執事が〃関東管領〃と呼ばれることになった。

 

 鎌倉府は室町幕府の関東における出先機関で、武蔵、上野、下野、下総、上

総、安房、常陸、相模、伊豆、甲斐の十カ国を支配した。執事つまり関東管領

には、初期の基氏時代、高師冬、畠山国清が就いたが、その後は歴代上杉氏が

就任した。

 上杉氏は尊氏の生母清子の実家であり、上杉憲顕は清子の兄憲房の子である。上杉氏は山内、犬懸、宅間、扇谷の四家に分かれたが、山内、犬懸の両家に勢力があり、交互に関東管領に就任した。

 観応二年(1351)、足利家において尊氏の弟直義と執事の高師直が抗争し、直義が出家(恵源と号した)し、高師直・師泰兄弟が討滅されるという事件が起こる。

ついで尊氏と直義が不和となり、尊氏は直義を殺害(毒殺)し、鎌倉から直義党を一掃した。この時、直義党の憲顕は越後へ落ち延びた。この一連の騒動を観応の擾乱という。

 

 足利家の内紛に乗じて、新田義宗らの南朝勢力が武蔵・上野に兵を挙げ、尊氏軍と武蔵金井原・小手指原に戦ったが敗れた。その隙をついて新田義興・義冶が鎌倉へ乱入し、基氏は逃れて尊氏の石浜の陣に合流した。同年二月二十八日、尊氏は宗良親王を奉じた新田義宗と笛吹峠で合戦し、これを撃破し、義興・義冶も追撃して四月八日、鎌倉を回復した。

 延文三年(1358)十月、基氏は新田義興を謀略にかけて武州矢口ノ渡にて殺害。入間川に陣所を構えて、以降六年間も滞在し、関東諸将から〃入間川殿〃と称される。

 

貞治元年(1362)、基氏は越後に逼塞していた上杉憲顕を越後国守護とし、翌年には上野国守護に任じ、さらに関東管領に復職させた。この人事には越後守護職の宇都宮氏綱、守護代の芳賀禅可高名が激怒し、憲顕が鎌倉へ向う途中を襲撃せんと上野国板鼻に布陣した。その報に接した基氏はただちに禅可らを討滅せんと鎌倉を発し、禅可の子高貞・高家の軍勢を比企郡岩殿山、苦林野で激戦のすえ討ち破り、敗走する芳賀勢を追って下野に進撃し、ついに宇都宮氏綱を降伏させた。

 

●足利氏満 延文四年~応永五年(1359~1398)

 幼名を金王丸。九歳で基氏の跡を継いで鎌倉公方となる。上杉憲顕が引続き管領として補佐した。応安元年(1368)一月、京都三代将軍に義満が就位し、憲顕が氏満の名代として上洛した。その隙を衝いたように平一揆(へいいっき)が川越城に立て籠もって蜂起した。平一揆とは平氏の流れをくむ河越氏、高坂氏を中心とした一揆である。これに呼応して宇都宮氏綱もふたたび兵を挙げた。憲顕は急遽、鎌倉へ帰ると、上杉一族を結集し、上杉朝房を河越へ、上杉憲春を下野へ兵を進めて、ことごとく反乱を鎮圧した。

 

応永十八年(1411)、山内上杉憲定に代って犬懸上杉氏憲(禅秀)が関東管領に就任した。が、禅秀はわずか四年で辞任する。

○禅秀の乱

 応永二十三年(1416)十月、禅秀は突如挙兵した。この乱の背景には、将軍義持の弟義嗣(よしつぐ)がからんでいた。義嗣は父義満に溺愛され、次期将軍と目されていたのに、兄義持が実権を握ったことに不満で、秘かに禅秀に叛乱を勧め、東西呼応して立ち上がる計画であった。応永二十四年一月、武蔵・相模での防戦に失敗した禅秀・満隆らはたちまち追詰められ、鎌倉鶴岡八幡宮の別当宝性院で一族・従者百余人とともに自殺した。

 

○永享の乱

 正長元年(1428)、将軍義持が歿した。義持の嫡男義量は早世していたので、後継者がおらず、幕府は義持の弟たちの中から青蓮院義円を籤引きで選び、還俗させて「義教」と名乗らせ六代将軍に就けた。

足利持氏は義教を〃還俗将軍〃と侮り、将軍就位の祝賀式に使者を送らず、正長二年九月に改元された永享の年号も用いず、義教への敵意をあらわにした。

 持氏は一色直兼に憲実追討を命じ、自らも武蔵国府中の高安寺に出陣した。憲実の通報を受けた幕府は、いちはやく駿河の今川、信濃の小笠原らに出兵を命じ、陸奥の伊達、芦名、結城らの諸将にも動員令を下し、後花園天皇から追討の綸旨と錦の御旗を申し受けて、ここに永享の乱の火蓋が切られた。

 追討軍の総大将は上杉持房(持憲ともいう)である。持房は犬懸禅秀の子で、父敗死後、京都へ逃れ、将軍義持・義教に仕えていた。いわば敵討ちの当事者を幕府は差向けたのである。

憲実は持氏の助命を幕府に嘆願したが、義教は許さずに処刑を命じた。永享十一年二月十日、憲実はやむなく扇谷上杉持朝、千葉介胤直らに永安寺を攻めさせ、持氏は稲村御所満貞ら近臣三十余名とともに自害。続いて嫡子の義久も自害し、鎌倉公方は断絶状態となったのである。

 ○結城合戦

 永享の乱は、関東の諸豪族の間に拭いがたい亀裂を生じさせた。とくに関東管領の上杉憲実が幕府軍を引き入れて、関東公方持氏を滅亡に追い込んだことは、関東旧豪族の大きな反撥を招いた。反幕府、反上杉の狼煙を揚げたのは、下総北部の結城氏朝・持朝父子である。

永享十二年三月、持氏の遺児春王、安王を結城城へ迎え入れ、持氏の旧臣に挙兵を呼びかけると、宇都宮等綱、小山広朝、那須潤朝、岩松持国、桃井憲義ら北関東から信濃にかけての諸豪族が次々と応じて参陣した。その数二万余という。驚いた義教は、直ちに結城一党の討伐命令を下し、総大将上杉持房と副大将上杉清方とした先鋒部隊を差向けた。

 

翌嘉吉元年(1441)四月十五日、焦燥にかられた上杉清方は一気に勝敗を決すべく、総攻撃に転じた。幕府軍に内応して城内に火を放った者があり、ついに結城城は炎上し落城した。氏朝は落城が近づくと、春王・安王を女装させて脱出させたが、見破られて捕えられた。氏朝・持朝父子は落城とともに自刃して果てた。

春王と安王は、京へ護送されることになった。春王十三歳、安王十歳といえ、関東公方持氏の遺児であり、あの冷酷な将軍義教が許すとは思われない。幼な心にも二人は覚悟を決めていた。護送隊が箱根を過ぎたころ、義教から「春王・安王の兄弟を途中で殺せ」という命令が届いた。二人の首は京へ運ばれて首実検の後、処刑地の美濃国垂井の金蓮寺に葬られた。いま一人の持氏の遺児で四歳の永寿王は、信濃国に匿われていたが、発見されたのが同年六月二十四日、義教が赤松満祐邸で暗殺された後だったので、からくも一命は救われた。(加須市龍興寺に持氏・春王・安王の供養墓がある)

 この永寿王が数年後、鎌倉公方として迎えられるのである。