20170418

第68回 温故塾

「一向一揆とは?」

 

4月18日(火)午後2時から今井塾長の雑談からスタート。今回のテーマは各種資料を読み込んで、分かりやすく説明するのに苦戦したとのことであった。

教義の解説をするのではなく、その発展経緯、信長との攻防などの歴史的な出来事を解説した。また、4月7日に実施した歴史ツーリングで高田派本寺 専修寺を訪れたのはタイムリーであった。

一向一揆とは何か?

親鸞開祖の浄土真宗(真宗)はいくつかの諸流に分かれた。主な本願寺歴代宗主の

略歴はつぎのとおりである。

 

○開祖親鸞(しんらん) 承安三年~弘長二年(1173~1262)

九歳で得度し、比叡山で堂僧を勤めていたが、二十九歳のとき山を下りて京

都六角堂に参籠。聖徳太子の夢告を得て、法然の門下に入り、専修念仏の道を

歩む。三十五歳の折り、〃承元の法難〃にあい、越後へ流罪となる。このとき

愚禿(ぐとく)と称し、非僧非俗を自らの信条とする。五年後赦免となったが、京

都へは帰らず、常陸国稲田(笠間市)を拠点して、以後二十年間、関東・東北の各

地に布教した。結果、多くの門弟が生まれ、高田の真仏、鹿島の順信、横曽根

の性信坊らは、のちに高田派門徒、鹿島門徒と呼ばれる原始教団を形成した。

この間に親鸞は『教行信証』を著し、その思想体系の樹立に努めている。

三世覚如(かくにょ)1271~1351年

父は親鸞の娘覚信尼の子覚恵。親鸞墓所(御廟)の留守職となり、ついに本願寺を創立し、後世、飛躍的に伸張する本願寺派の素地を築いた。

 

八世蓮如(れんにょ)1415~1499年

 蓮如は琵琶湖西岸の堅田門徒を足がかりに、湖東・湖南の教化に乗り出したが、危機感を抱いた山門衆徒(比叡山)が1465年1月、突如、襲い掛かって大谷本願寺の堂舎をことごとく破壊した。蓮如は1471年、北陸門徒の拡張を目指し、越前と加賀の国境である吉崎の地に入った。吉崎には門徒が群集し、一、二年で二百軒近く立並ぶ大寺内町が出現した。吉崎御坊である。

 しかし、1474年、加賀一向一揆が蜂起すると、蓮如は難を避けて翌年、吉崎から河内(大坂)へ移る。1479年「さながら仏国の如し」と称えられた華麗な山科本願寺を建立した。1488年6月、加賀国では一向一揆が守護の富樫政親を攻め滅ぼし、ついに「百姓のもちたる国」となる。

 1497年、石山坊舎(のち石山本願寺)を完成。1499年、山科に帰り、八十五歳で歿した。蓮如は戦乱の時代に本願寺教団を統括して強大な組織につくり上げた。

 

十一世顕如(けんにょ) 1543~1592年

 諸大名とは融和方針をとり、武田信玄、六角義賢、朝倉義景らと盟約を結んだ。1570年、信長の近江侵攻から対立し、その後、天正八年まで十五年間にわたって激しい闘争を繰り広げた。

長島一揆、越前一揆、石山合戦は苛烈をきわめ、信長をしばしば危地に陥れた。しかし、盟約を結んだ信玄の死、朝倉氏滅亡によって、信長包囲網は破れ、長島、越前・加賀の一揆勢は壊滅した。最後の砦・石山本願寺も、1580年三月、天皇の勅命による講和という形をとって降伏し、顕如は大坂を立ち退き、紀州へ移った。

息子の教如は徹底抗戦を呼びかけて檄文を発したが、地方一揆のあいつぐ鎮圧に力尽き、八月初め、本願寺に火を放って放浪の旅に出た。

 その後、信長・秀吉は本願寺教団を弾圧せず、そのまま従属化させる政策をとった。顕如の跡は准如が十二世となって本願寺を継承したが、教如はのちに家康と結びついて、慶長七年、京の東六条に信浄院を興した。これが東本願寺である。