温故塾 『加賀百万石』 2012年6月19日

 加賀百万石の前田家の出自についておもしろい逸話がある。

三代将軍家光の命によって諸大名の世系出自を呈上させ、調査・編集する事業が行なわれることとなった。いわゆる『寛永諸家系図伝』である。奉行は太田資宗、総裁は林羅山であった。その系図伝の事業の進行中であったのだろう。


 利常に「前田氏の出自はいろいろ言われてますが、いったいどれが本当でしょうか」と訊ねた者がいた。加越能百万石の大封とはいえ、その出自はあいまいであったから、かなり意地の悪い質問であつた。すると利常はこう答えた。
「さあ、先祖がなんであったやら、藩祖利家公以前については、とんと知り申さぬ。よって、ただいま林羅山に研究させてあります。なんとかうまく創ってくれるでしょう」と。

 

●藩祖・利家

利家は天文七年(1538)に尾張国愛知郡荒子村の土豪前田利春(利昌)の三男に生まれた。幼名犬千代、のち孫四郎、又左衛門といった。天文二十年、織田信長に仕えた。血の気の多い青年で異様な風体を好み、喧嘩早いので有名だった。派手好みの槍を振り立て、遠くからも〃又左衛門の槍〃とわかると、みなコソコソと逃げ出したという。

 

後年、利家は盟友秀吉の天下統一事業を扶け、五大老に列して徳川家康に結抗する大大名として豊臣政権で重きをなした。だが、秀吉が没した翌る慶長四年間二月三日、利家は六十二歳で生涯を閉じる。 

 

●二代利長

利家の購男として永禄五年(1614)に生まれ、一時、利勝とも名乗った。父利家とともに信長、秀吉に従い、多くの戦場で武功をあげた。利長は利家の死によって遺領を継いだ直後、加賀に在国中、謀反の風聞を立てられ、徳川家康に攻められることになったが、母の芳春院を江戸へ人質に出して危難を逃れた。

 

●三代利常

利家の四男。文禄二年(1592)に生まれ、長兄利長の継嗣として慶長十年(1605)に襲封し、加賀藩三代藩主となる。時に十三歳。正室は秀忠の娘珠姫で、この婚儀は慶長六年のことで、利常は九歳、珠姫はまだ三歳だった。

 利常の治世で特筆すべきは、加賀藩の農政大改革「改作法」であろう。これは大雑把に言えば、藩領の農地・農民を一括して藩が完全に掌握し、家臣団をサラリーマン化することである。

 

●利常の文化攻策

利常は豪邁な壮心と深謀遠慮の慎重さを兼ねる人物だった。世間は〃大名らしい大名〃と称えたが、幕府からは常に〃油断のならぬ人〃と警戒された。

 

利常は「御道具買物師」という役人を京都。大坂に常駐させ、逸品を買い求めさせた。買物師は長崎にも出張し、駐在している。

 

●綱紀の文化事業

加賀の文化事業を一段と高め、推進したのは利常の孫で五代藩主綱紀である。

網紀は聡明な人物で、自らも学者であり、利常の文化事業を引き継いで、さかんに図書収集を行なった。朝廷・幕府・公卿・古刹古社・諸名家などから、あらゆる種類にわたって和漢の刊本、写本、絵巻物、令状、古書簡類を収集した。その総点数は不明だが、八棟の書庫に詰まっていたといわれ、維新後も前田家尊経閣になお数十万部が蔵されていたという。

 

 

加賀百万石・前田太平記
加賀百万石を作った前田利家、現在まで残る加賀の工芸品の礎を作った三代利常の文化政策など。後世に残る日本の宝を作った前田家の歴史を確認ください。
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温故塾 「続加賀百万石」 2012年7月17日

加賀騒動はなぜ起こったか ?

加賀藩の極盛期は五代網紀時代、その綱紀が享保八年(1723)に隠居し、吉徳が六代落主に襲封した。この頃、藩財政は困窮の一途を進んでおり、吉徳は藩士の除地(削封)、商人からの借財でなんとか凌ぎながら、軽輩ではあるが理財の才に長じた大槻朝元を重用して、その対策に当たらせた。


大槻は足軽の子で、始め御居間坊主であったが、聡明で利発なところを吉徳に気に入られ、享保十一年五十俵取の御徒士並の士分に上げられた。以後、大槻は波状的に加増を受け、その回数二十一回におよび、ついには知行三千八百石を得て、藩士としては最高位の人持組に上り詰めた。


大槻の異常な出世の裏には、吉徳との男色関係にあったといわれるが、それだけではこのような昇進ができるわけがない。大槻は吉徳の期待に応えて、財政再建に取り組み、いちおうの成功を収めている。かれの施策は倹約を推進し、大坂御金御用の笠問安右衛門らの能吏を金融に当たらせると共に、横目(諜報機関)を掌握して諸役人の勤怠・動静を探らせ、町人を代官下役に任じて、新種の税目を立てるなど、次々と新手を案出して収入源の増加を図つた。


倹約では硬直化した藩の出費の節減をはかって効果をあげたが、こうした政策が一部の猛反発を買うことになる。とくに大槻の異例の出世を喜ばぬ老臣たちが多く、その先頭が前田土佐守直躬と学者の青地礼幹であった。

 

デッチあげの『加賀騒動』 
延亭二年(1745)六月十二日、吉徳が死去し、宗辰(むねとき)が相続すると局面は一転し、大槻は近習から表向御用に押し出され、翌三年七月には蟄居・閉門を命じられた。

さらに翌四年十二月、越中五箇山へ流刑にされた。ところが、不思議なことに大槻の罪状を明確にする史料は何もないのである。ただ、吉徳の病気中の仕方が「数年の御厚恩を忘れ、不屈至極」というだけで、これには大槻は不服で大いに抗弁した。吉徳の病床で大槻は大小便の世話までしている。とても病中の仕方云々は承知できなかったろう。・・・・・・

 

銀札発行と借知

そこで、銀札発行にふみきった。つまり流通市場から正銀をひきあげて、正銀使用を停止したのである。銀札発行は家中藩士の要望でもあった。藩は貸銀の払底から銀札をつくり、藩士に貸し出したのである。銀札が額面どおりに通用すれば問題はなかったが、そうは世間はあまくない。正銀との交換規定はあったが、それは実行されず、たちまち信用を失って、諸物価の暴騰をもたらした。平年は米一石が銀五十目ぐらいだが、五月には二百五十日、六月には六百五十日、七月に入ると一貫三百日、さらに月末には二貫目となり、なんと約四十倍という高値につり上がったのだ。・・・・・

 

●兼六園と赤門

十一代藩主治脩(はるなが)の跡を継いだのが、斉広(なりなが)である。
 斉広は十村制度を廃し、名称を総年寄。年寄と改め、改作奉行も廃して郡奉行一本にした。領民には増税を強いながら、斉広は文化五年一月の火災で焼失した二の丸を再建し、豪壮華麗な「竹沢御殿」を造営して隠居所とした。そのため領内に五千貫日の冥加金を献納させている。御殿の庭園には辰巳用水を引いて泉石の妙を尽くし、その規模・風光をもって『兼六園」と名付け、松平楽翁(定信)筆の「兼六園」の扇額を正面に飾ったという。
 竹沢御殿が完成して五年後、十三代斉泰が将軍家斉の二十二人目の娘溶姫(景徳院・母親はお美代の方)を正室に迎えたと。このとき江戸本郷邸に壮麗な御主殿門を建てたが、これが現在の東大の「赤門」である。いうまでもなく新御殿も建設されたが、兼六園同様に往時を偲ぶものはない。

 

●銭屋五兵衛の登場

 銭屋は元々屋号のごとく金銭両替商であつた。文政七年(1810)に、質流れの百二十石積の船を買い取つて回漕業をはじめた。これが五兵衛の海商としての第一歩であった。(以下、五兵衛を銭五という)
 銭五の成功は蝦夷松前から干鰊(ほしか)を買い入れて領内に輸送し、巨利を得たのがきっかけとなった。銭五の海運業は国内の産業・交易が急速に発達した時代の波が追い風となり、瞬く間に拡大成長をとげた。
 銭五は全国に三十四ヵ所に支店をもち、金沢はじめ三ヶ国だけでも奉公人百六十八人、持船大小合わせて三百三十捜、資産約二百万両を有したという。当然、加賀藩は銭五にしばしば御用金を上線させている。

 

 幕末に至って、尊皇嬢夷運動が燃え盛る京都近くに位置しながら、加賀藩はまったく反応が鈍かった。数少ない勤王派もみな処刑してしまい、明治維新に海内無双の大藩は何も出来ずに時流に乗り遅れた。

 京雀たちは「剣付鉄砲 槍鉄砲 京の煙で蚊が(加賀)逃げた」とうたいはやしたという。維新後は新政府から軽侮され、加賀人はある時期まで軍・政・官界での出世は妨げられた。

続加賀百万石・加賀騒動
加賀百万石のお家騒動と貨幣経済に対応できなかった大藩の悲劇を振り返るものです。
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