江戸町人の生活

 江戸の商売を紹介するには、やはり飲食関係から始めるのがおもしろい。

江戸時代の食文化といっても、べつに現代の我々と変わったものを食べていたわけではないが、その嗜好や考え方法ずいぶん違っていた。


●カツオとマグロ

 カツオは江戸つ子が好んだ代表的な魚で、特に初カツオは″女房を質に入れても食す″とまで言い、見栄つばりの江戸つ子は競って初カツオを求めた。もっとも初ものに目がないといっても、市場に揚がった初カツオはおそろしく高価であった。
文化九年(1812)二月二十五日、魚河岸に入荷した初カツオは17本。うち六本は将軍家のお買い上げ、三本は料亭八百膳が一本二両一分で買い、残り八本を魚屋が仕入れた。そのうちの一本を中村転右徳門が三雨で買って、大部屋の役者にふるまったという。


 出回りの初カツオは一本一分、安ければ二朱ほどだった。盛期には二百五十文位に下落した。この値段ならば長屋ぐらしの八ッつあん、熊さんも無理を承知で食べることができた。高値の初カツオを買ったりすると、「初鰹女房に小一年いわれ」「意地づくで女房鰹をなめもせず」などの川柳のタネにされた。

当時、一面は六貫文(6000文)の相場だから、一本三両の初カツオはべらぼうな高値である。一分は四分一両だから1500文だ。


カツオとくらべてマグロは下等な魚とされ、江戸中期までは食べられなかった。カツオがあっさりとした淡泊な味であるのに対して、マグロは脂分が嫌われたらしい。それでも天保年間、赤身を醤油づけにした″づけ″が食べられるようになったが、マグロを食べたことを人には耳元へ小声で話したという。今日、もっとも人気のトロなぞはネギマ鍋で食べられたが、貧民の食物だった。
天保三年(1832)の冬、マグロが大漁で、二尺五寸から二尺のものが、河岸で二百文、立ち売りで片身百文だった。マダロが鮨のタネになったのは、安政年間(1854-59)からで、ナマではなく醤油づけのマグロだった。 

 

●天麩羅と鮨

 てんぷらも鮨も江戸時代はいやしい食物だった。てんぷらは今のような衣揚げではなく、魚肉をすりつぷして胡麻揚げしたもので、関東でいう薩摩揚げであった。

てんぷらのタネが一変したのは、享保の未頃で、寛政以後(1789)は、魚の衣揚げをてんぷらといい、野菜を揚げたものを精進揚げと呼んだ。タネは蛤の剥き身、貝柱、穴子、こはだ、するめいか、海老が好まれた。店を構えた商売ではなく、橋のたもとの屋台で売っていた。串刺しにして揚げていたという。


 鮨は初めは箱に諾めた押し鮨で、一箱を十二箇に切って、一つ四文を売つた。江戸ではこどもが箱を担いで、売り歩いたという。

 にぎり鮨の始まるのは寛政以後で、タネは鮑・海老。こはだ。小鯛・白魚・蛸・卵焼きなどのほか、いろいろなものをつくった。鮨一つ四文から五十文、六十文もするものがつくられ、天保 の改革の時、高価な鮨を売る者三百余人を捕らえて手鎖の刑に処した。その後じばらく四文、八文の鮨ばかりになったが、改革がゆるむと、また高価な鮨がつくられるようになった。
稲荷寿司は天保の末、江戸で始まった。行灯には鳥居を描き、もっばら夜売り歩いた。お店の奉公人などの夜食には手ごろな食物だったろう。 

 

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温故塾(江戸町人の生活)20111018.PDF.pdf
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