20150317

温故塾 【江戸の三大改革】


 江戸幕府の財政再建の改革として、教科書で称賛されているが、途中で改革は頓挫して、当人も失脚している事実をどう解釈するのか?

 現在の日本の財政の危機的状況と似ている江戸時代の財政立て直しの改革は、どのようなものだったか?温故知新塾の今井塾長の解釈を楽しみました。

【改革という錯覚】

 改革とは、世の中が行き詰まり、停滞し、閉塞感にとらわれた状態を打ち破って、新しい活力を生み出すべき意義がなくてはならない。それは誰もが〃改革〃というものに抱く期待感であろう。現代においても、〃改革〃という字句は氾濫している。いわく、政治改革、農業改革、行政改革、年金改革などなど。それらのすべてが、現在よりも正しいもの、すぐれたものに改められるとは、いまや誰も考えてはいないだろう。

 では改革とは、いったい誰のために、何のための改革なのか、改革という美名に隠された改革主導者の意図は何であったのか。江戸の三大改革といわれる、享保の改革、寛政の改革、天保の改革を見直し、検討を加えながら、それらの改革の真相を追ってみよう。

 すると、面白いことに、これら三大改革はすべて「倹約政治」であり、いずれも失敗に帰していることであり、その改革主導者がみな失意の晩年を送っていることである。これは大いに考えてみなければならないことだろう。

 

【享保の改革と水野忠之】

 八代将軍吉宗が行なった享保の改革は、その後の改革の手本になった〃善政〃といわれている。しかし、その中身を検討すると、そう手放しで褒められたものではない。吉宗の改革の狙いは、幕府財政の建て直し、武士階級の経済救助、および綱紀の粛正にあったといえる。

 吉宗は「倹約令」を発布し、極端な経費節減をはかった。吉宗は質素倹約を最高の美徳と信じ、身をもって実行して紀州藩の財政建て直しを成し遂げた。その成功体験を幕府財政の建て直しに持ち込んだのである。

 次に財政の基盤となる「米租(年貢)の増徴」である。天領(幕府直轄地)の年貢率を引き上げ、新田開発を促進して増収をはかった。享保七年には諸大名に領地一万石につき、百石の割合で「上米」(あげまい)を命じ、これを九年間も続けた。この年貢米増徴に活躍したのが、有名な「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」と放言した勘定奉行の神尾若狭守春央である.

 

いま一人忘れてならないのが、水野和泉守忠之である。水野は勝手掛兼任の老中として、吉宗の享保改革の実質的執行者であった。吉宗と忠之のコンビで改革を推し進めた結果、幕府の財政はようやく好転し始め、享保十七年(1732)以後の十年間に、米四万八千石、金三十五万四千両、寛保二年(1742)以後の十年間に米七万五千石、金九十六万両という黒字を計上するにいたった。

 たしかに財政再建には成功したが、これは年貢率引上げによる農民からの苛酷な収奪の結果であり、幕府への一方的な富の集積であった。そのうえ、厳しい倹約令を一般市民まで徹底させて、豪奢な家作や衣服、贅沢品などを禁止し、風俗の矯正まで踏み込んだのだから、世の中に金がまわらず、不景気になるのは当然であった。

 水野忠之の精勤もあって、享保十三年には将軍の日光参詣の費用も出来る余裕も出来た。然るに享保十五年、水野は突然、吉宗から御役御免を言い渡される。原因は諸説があるが、財政建て直しの成功が水野一人の手柄に見られるのが、吉宗には面白くなかったらしい。

 

吉宗の政治には、足高の制、刑法の制定、人材登用、防火組織の整備、養生所設置、洋書の輸入の緩和、実学の奨励等々、見るべき点が多い。しかし、基本的には復古理想主義であり、経済面では米中心の重農主義で、目覚しく発展する商業活動を抑圧した。「倹約令」を武士社会ばかりでなく、農・工・商の市民社会にまで強制し、とてつもない不景気をもたらしたのである。

 

【田沼意次の政治】

 田沼時代は明和四年(1767)から天明六年(1786)の約二十年間をいう。今日、高等学校の教科書をみると、積極的な商業資本を利用した結果、一般に賄賂が横行した「賄賂政治」の時代と説明されている。では、田沼はどんな政治を行なったのか。

 一、専売制度の拡張(銅・鉄・真鍮などを幕府専売とし、特定商人に座を組織させた)。

 二、株仲間の積極的公認(運上金・冥加金の徴収)

 三、長崎貿易の制限緩和(俵物などの輸出)

 四、南鐐二朱銀の鋳造(秤量貨幣から表示貨幣へ、経済の潤滑化)

 五、印旛沼、手賀沼の干拓計画

 六、蝦夷地開発計画(鉱山資源の発掘)

 以上が主な政策である。専売制度や株仲間の公認は無用な業界の競争を抑えて、価格の安定化をはかり、商業資本を活発化させて運上金・冥加金の増収をはかったものである。


田沼の政治は商業活動を促進した重商主義といえよう。この商業重視の関係から〃賄賂政治〃を横行させたといわれるが、それを証明する根拠は甚だ希薄であり、その多くは後世の偽作や創作が多い。よく例に挙げられる松浦静山の『甲子夜話』は六十年後に書かれた記事だし、田沼失脚当時、多く出された川柳・狂歌の類は、田沼の政敵・松平定信一派が意図的にバラ撒いた観がある。

 

天明四年、意次の嫡男で若年寄山城守意知が城中で暗殺され、同六年田沼の最大の庇護者十代将軍家治が死去すると、一気に田沼排斥の狼煙が上がる。十一代家斉の擁立に協力した田沼は、家斉の父一橋治済(はるさだ)の裏切りにあい、八月、ついに老中を罷免され失脚した。相良城は破壊され、五万七千石は没収。田沼家を継いだ孫の意明にはたった一万石が与えられただけであった。

 

【寛政の改革と松平定信】

 田沼の排斥に成功した松平定信だが、老中就任は翌天明七年六月になってからであった。定信の改革は吉宗の改革を目標とした復古理想主義にあり、商業活動を抑圧して、農業を主体とする重農政策であった。そして、またもや「倹約政治」の復活でもあった。

 一、倹約令 (贅沢品の取り締り、祭礼の縮小など)

 二、棄捐(きえん)令 (旗本御家人の借金帳消し)

 三、旧里帰農令 (帰村する農民へ旅費支給・農村人口の確保)

 四、囲米の制 (社倉・義倉の設置)

 五、七分金積立 (町費用を倹約して積立)

 六、寛政異学の禁 (朱子学以外は禁止)

 七、人足寄場 (無宿人・軽犯罪人の更生施設。長谷川平蔵の提案)

 八、文武の奨励

 以上である。倹約令はともかく、ひどいのは棄捐令である。これは旗本御家人の札差からの借金を帳消しにする乱暴な法令で、このため札差は貸金を拒否するようになり、かえって旗本御家人を苦しめることになった。

 

定信の意気込みとは裏腹に改革は失敗し、就任六年で老中罷免。この時の狂歌が「それみたか 余り倹約 なす故に おもひがけなき 不時の退役」と痛烈である。いかに民衆が定信を嫌っていたかうかがえる。以後、幕閣に残った定信のブレーンが政権を担当したが行き詰まり、なんと田沼政治(株仲間の復活・運上金など)のことごとくを復活させている。

 

三十六歳で隠居した定信は、晩年の文政十二年三月の大火事で、上屋敷、中屋敷、下屋敷を焼失し、仕方なく本家筋の松山候(伊予・松平家)の屋敷に居候の身となり、同年五月そこで死去した。七十二歳だった。世間では「十万石の宿なし」と酷評した。大名の隠居で親類の家で死んだというのは、この定信のほかにいない。

 

【大御所政治と水野忠成】

 十一代家斉はすこぶる強健で、将軍在位は天明七年(1787)から天保八年(1837)の五十年間におよび、なお隠居して西の丸で四年、大御所として君臨した。妻妾四十三人、五十五人の子供(半数近くは早世)を儲け、家斉時代は江戸の爛熟期といわれたほど、異常な繁栄ぶりをみせたが、けっして政治が立派だったというわけではない。

 

文化・文政・天保の時代、家斉を取囲む彼ら寵臣たちによって、幕政が執り行われたが、情実・縁故・賄賂によって人事が動かされ、綱紀は紊乱し、その腐敗は甚だしいものがあった。

家斉や大奥の絢爛豪華な生活は贅美のかぎりを尽くし、その寵臣たちも揃って豪勢で贅沢な生活を享受した。たしかに歪な政治ではあったが、不思議なことに、江戸の町が空前の繁栄にわいた時代でもあった。寺門静軒の『江戸繁盛記』はそんな情景を紹介している。歌舞伎、相撲、寄席、遊郭(吉原)、浅草、縁日や祭礼、両国の花火、食物店の数々、日本橋魚市場等々…江戸市民の活況ぶりが如実に語られている。文化面でも、滝沢馬琴、為永春水、鶴屋南北、式亭三馬が活躍し、『江戸名所図会』(斉藤月岑)や『大日本沿海実測図』(伊能忠敬)の完成もこの時代である。

 

【天保の改革と水野忠邦】

 家斉時代の後半、天保の大飢饉に見舞われ、各地で百姓一揆や米騒動が頻繁に勃発し、幕府の屋台骨を揺るがせた。一方、日本沿岸には外国船が出没。ロシアは通商を求め、米英は捕鯨船の薪炭水の補給地を求めてきた。この外患に幕府は右往左往し、文政八年(1825)に異国船打払令を出した。

 水野忠邦は享保の改革を推進した水野忠之の六代後裔で、早くから幕政に参与したいと願い、多額の賄賂を使って唐津から浜松へ移封し、念願の老中に就任した。天保十二年一月、大御所家斉が死去し、十二代家慶の時代になると、忠邦は家斉の取巻き一派を追放して、〃天保の改革〃に着手した。忠邦もまた享保・寛政の改革を目標とした復古主義であった。その改革の政策とは、

 一、倹約令(贅沢品や初物の禁止)

 二、株仲間解散(物価引下げと在郷商人の統制)

 三、御用金と貨幣改鋳

 四、人返しの法(農民を強制的に帰村させる)

 五、西洋砲術の採用

 六、薪水給与令(異国船打払令の緩和)

 七、出版統制

 八、印旛沼の干拓

 九、上知令(江戸・大坂周辺の土地を幕府領とする)

 ここでも同じように「倹約令」である。彼は贅沢な菓子や衣類など徹底的に取り締った。庶民の娯楽の寄席を削減し、芝居小屋も一箇所に集中。金銀製品や贅沢品の摘発には市中に密偵を放って厳しく取り締った。当然のように、江戸の町は冬枯れの如き不景気風が吹き荒れ、失業者が増大した。

 

忠邦の命取りは、大奥まで「倹約令」を強いたことである。


将軍家慶が食事の時、「新生姜が付いてないが、どうしたことか」と尋ねた。水野に腹を立てていた大奥連中は「それは水野様が大奥の費用を削っているからです」と応え、ついでに忠邦の改革が庶民を苦しめている、と家慶に告げた。こうして次第に水野追放の気運が高まっていった。

 決定的だったのは「上地令」であった。江戸・大坂周辺の土地を強制的に幕府領に組み入れるというもので、これには大名・旗本が猛烈に反対した。

 天保十四年閏九月十三日、忠邦は突然、罷免された。書付には「其の方儀、御勝手向不行届の儀、之有り候に付、御役御免差控仰せ付けられる」とあり、ただの免職ではなく、差控の処分が付いていた。忠邦自身は清廉な男で、悪い人物ではなかったが、その抱負ほどの力量がなかったといえよう。


外交問題で老中再勤となったが、弘化二年九月にまた免職となった。

金座後藤三右衛門が貨幣改鋳にからんで水野への不正(献金)があったとされ、二万石減封の上、隠居謹慎を申渡された。

 

 

『源頼光公館土蜘作妖怪図』(早稲田大学図書館蔵)

 老中・水野忠邦による天保の改革で、質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受けた。江戸っ子歌川国芳は浮世絵でその反骨精神を示したとされている。怪しげな屋敷のなかで、武将源頼光と四天王がくつろいでいる。だが、頼光の背後には土蜘蛛がそのおぞましい姿をあらわし、闇のなかには無数の魑魅魍魎が跋扈する。表向きは土蜘蛛退治の物語を下敷きとしながらも、その実は時の天保の改革で、酷政を断行する為政者たち(水野忠邦も含まれる)とそれに怨嗟の声をあげる庶民たちの姿をやつした、きわどい諷刺画である。