20161115

 

文禄・慶長の役 
●起因

 秀吉の大陸侵攻の野望は、天正十四年の九州平定の頃からである。九州平定後、対馬の宗義智に命じて、朝鮮国の来朝を要求させた。天正十八年(1590)七月、関東・奥羽を平定し、天下統一を成した秀吉のもとに、朝鮮国の使節がやってきた。そこで、秀吉は朝鮮王に対して、「明国(中国)侵攻のための道を朝鮮に仮()りたいので、貴国は率先して道案内をせよ」(『仮道入明』)という、とんでもない要求を突きつけた。朝鮮は明国の封をうけていて、いわばその属国であったから、当然、こんな要求に応じるわけがなかった。明・天竺(インド)までも征討して東亜の盟主になろうという、秀吉の誇大妄想的な野望はこうして始まったのである。

文禄の役
 
 ○日本軍の進撃
 天正十九年八月、秀吉は諸大名に「唐入り(からいり)」、すなわち明国征討を発表し、玄海灘にのぞむ名護屋(佐賀県松浦郡鎮西町)の地を遠征軍の本営と決定した。本営の工事には黒田長政、小西行長、加藤清正ら九州の諸大名を動員して、同年十月着工、わずか五ヶ月余りで完成した。全域17万平方メートルという壮麗広大なもので、当時、大坂城につぐ規模の本格的城郭であった。
 翌文禄元年(1592)、遠征軍の出発を三月下旬ときめ、陸海諸部隊の名護屋集結を命じた。一番隊は小西行長、松浦鎮信、有馬晴信ら一万三千七百人、二番隊は加藤清正、鍋島直茂、相良長毎ら二万二千八百人、以下、十六番隊と番外二隊あわせて約二十五万人、船手衆約四千人、秀吉の旗本三万人、総計二十八万数千人という編成である。

・・・・・・・・・・

 

○京城無血入城

 京城(漢城・ソウル)に日本軍来襲が報らされたのは四月十六日、国王はただちに李鎰(りいつ)を慶尚道巡辺使に任じて、日本軍の北進を防がせようとしたが、軍官六十余人に農民兵一千人ではなすすべもなかった。忠州の郊外・弾琴台には都巡辺使の申立将軍が八千の兵で待構えていたが、これもまた日本軍の敵ではなく、申将軍は水に投じて死に、斬首された者三千余人、捕虜数百人、漢江に落ちて溺死する者無数という惨敗であった。

 京城内は恐慌状態となり、国王は二十九日、城門を出て開城に退避した。京城の防衛を命ぜられていた留都大将李陽元、都元帥(全国軍事の総督)金命元も、日本軍が近づくと一戦も交えずに王都を捨てて逃げ去った。かくして五月二日、日本軍は京城に無血入城した。

 

・・・・・・・・・・

 

○平壌占領

 九日、一番隊は平壌の前面にある大同江の南岸に達した。日本軍の急追に、十一日、朝鮮王はまたしても平壌を捨てて寧辺へ向った。平壌防衛に尹斗寿を城将として留め、金命元とともに一万の兵をあたらせた。十五日早朝、宗義智の陣を襲撃した一隊が、行長や黒田長政の援兵に背後から攻撃されて大敗し、残兵はからくも城内へ逃げ込んだ。その際、浅瀬のあることが分かったので、同日、この渡河点の対岸を占拠した。これで平壌防衛が困難と弱気になった尹斗寿、金命元は、その夜、ひそかに城内の軍民を外に出し、順安に遁走した。

 

 十六日、日本軍はまたしても無血で平壌に入城した。このとき城内の十万石の貯蔵食糧を確保している。こうして京城・開城・平壌の朝鮮の三大都市はすべて日本軍の手中に帰したのである。黒田の三番隊は担当守備である黄海道へ転進し、小西の一番隊は城内に土塀をめぐらした日本式の城塞を構築し、しばらくここに駐屯する態勢をとった。

 

・・・・・・・・・・・・

 

○李舜臣、日本水軍を撃滅

 陸上で快進撃をつづける日本軍の背後で深刻な事態が起った。日本水軍は開戦当初、慶尚道の朝鮮水軍を撃滅したが、その後は、もっぱら釜山・対馬間の警備にあたって、全羅道方面へ進出しなかった。全羅道左水使の李舜臣は日本水軍との戦いを決意し、五月四日、八十五隻の艦船を率いて、根拠地の麗水を出航。巨済島の東方に進出し、玉浦に停泊していた藤堂高虎らの五十隻の船隊を外洋に誘き出し、これに潰滅的な打撃を与えた。この海戦で李舜臣は、日本の艦船二十六隻を火箭(ひや)で焼き沈めている。

 

 同二十九日、泗川の停泊地で輸送船十三隻を全滅させ、六月一日、弥勒島の亀井玆矩の艦船二十一隻を襲い、大半を焼き沈めた。さらに唐項浦に集結していた加藤清正の水軍(輸送船)の大小三十三隻を襲撃して、これを焼き尽くし、ついで六日には、巨済島の南端の海上で、来島道久の水軍を全滅させた。その戦果は甚大で、日本軍は制海権を消失し、陸上部隊への補給ルートを断たれるという危機を迎えた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

日本の船隊は「安宅船」と「関船」が主力で、安宅船は二層の櫓を備えた大型船(全長三十メートル)で、いわば戦艦。関船は中型で巡洋艦であるが、堅牢な朝鮮の艦船にくらべて燃えやすく、脆弱であった。李舜臣の戦術・操船の巧みさもあったが、朝鮮水軍の発明した亀甲船が無類の威力を発揮したことである。亀甲船とは、船の上に亀甲のように板を敷き、尖鉄を植え、甲板下には両舷に各六挺、舳艫に各一挺の大銃を備え、櫂を操る水夫も甲板下においたもので、船の前後進退はたいそう軽快であった。

 

○平壌、奪回さる

 八月下旬、平壌の小西行長のもとに、明の沈惟敬なる者が和議の話を持ち込んできた。行長は和議の成立を望んでいたから、これを応諾した。惟敬は明の北京との交渉には五十日はかかると言って去った。十一月下旬、ふたたび平壌を訪れた惟敬は、いつわって明の講和使がまもなくやってくると言って去ると、行長はこれを真にうけて、さっそく開城で諸将と和議の意見交換をしている。こうして、戦意がゆるんできた日本軍に、突如、明の大軍が襲いかかった。

 

 文禄二年(1593)一月五日、李如松が率いる十万の大軍が、平壌の三方から包囲した。日本軍は一万五千で防衛についた。七日、明軍の総攻撃が開始された。攻城軍は大将軍砲、仏郎機(フランキ)砲、霹靂砲など、日本人が見たこともない大砲で城門を砲撃し、火箭も射かけた。城壁をよじ登ってくる明兵を日本軍は得意の鉄砲で狙撃し、累々たる死体の山を築いたが、明軍は屈せずに次から次へと繰り出してくる。

 

日本軍は食糧庫と兵舎を焼かれては、とうてい持ちこたえるができず、その夜、ひそかに大同江の氷上を渡って、南方に敗走した。

 

・・・・・・・・・・

 

 ○講和・日本軍の京城撤退

 京城の日本軍と開城付近の明軍は対峙したままであった。三月下旬、またも沈惟敬が小西行長を訪ねてきた。すでに提督李如松は戦意に乏しく、本国の兵部尚書(兵部長官)の石星も如松の意見を入れて、講和使を日本に派遣することを同意していた。行長は惟敬と、明より講和使を日本に派遣する、日本軍は京城を撤退し、明軍も遼東へ引揚げる、二王子は朝鮮に返還する、等の諸条項を約定し、秀家や三奉行もこれを承諾した。

 

 四月十八日、日本軍は二王子と明使の謝用梓・除一貫を伴って、京城から撤退した。

 

和議の進展
 和議問題の代表者は日本側が小西行長で、明国側は沈惟敬であった。両人の交渉は文禄元年八月に平壌で会見して以来、日本側から明国に「封貢」を求めるという妥協案で進行していた。「封」とは、明国に秀吉が日本国王と認めてもらうことで、「貢」とは貢物をして交易を許されることである。もっとも、これは小西行長の一存で進めている交渉で、明国も秀吉が封貢だけで納得するのかという不安があった。
 じっさい、秀吉の講和の条件は次のようなものであった。
 一、明王家の娘を迎えて、わが国の后妃とする。
 二、勘合貿易を復活し、官船・商船を相互に往来させる。
 三、日明両国の大臣はお互いに誓紙を交換して通好が続くことを誓う。
 四、朝鮮の四道(慶尚・全羅・忠清・京畿)を日本に割譲し、他の四道と京城      は朝鮮に返還する。
 五、朝鮮王子と大臣一、二人を日本に人質とする。
 六、生け捕りにした二王子は朝鮮に返還する。
 七、朝鮮の大臣はいつまでも日本に叛かぬことを誓う。
 秀吉は日本軍が連戦連勝であるから、明国ではこのくらいの条件は認めるだろうと思っていた。真相を知らされていないのだ。むろん、小西は秀吉の条件などは明国には一切隠し、二の条項の勘合貿易の件、つまり「封貢」の一本槍で交渉を押し進めようとしていた。

・・・・・・・・・・・・・・

和議決裂
 文禄四年(1595)一月十三日、明の使節一行は北京を出立した。冊封正使李宗城、副使陽方亨は四月二日京城へ到着したが、日本軍撤退の交渉に時をついやし、釜山へ着いたのが十一月二十二日。明使は日本軍撤退を待って、翌慶長元年の四月三日、いよいよ日本へ渡るという前日、正使李宗城が脱走してしまった。そのため明では陽方亨を正使に、沈惟敬を副使として、六月十四日、日本船で釜山を出航、閏七月四日堺に到着した。
 九月一日、秀吉は大坂城で明の使節を謁見した。秀吉は使節が冊封使とは知らず、全面講和使と信じていたから大いに歓待し、明から贈られた衣冠を着けて、印章や国書を受け取った。が、秀吉には明の国書が読めない。翌日、僧承兌らに読ませたところ、それには「特に爾(なんじ)を封じて日本国王となし、これに誥命(こうめい)を錫(たま)ふ」とあったから、秀吉は烈火の如く怒り、ここに和議は決裂し、翌日明使は堺から追い返され、ふたたび朝鮮出兵を決意した。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

●慶長の役

 慶長二年二月二十一日、秀吉は朝鮮再征を決意し、軍を攻撃部隊と守備部隊に分け、次のように部署を命じた。

 

 攻撃隊の先鋒は、一番隊・加藤清正一万人、二番隊・小西行長一万四千七百人、三番隊・黒田長政一万人、四番隊・鍋島直茂一万人、五番隊・島津義弘一万人、以下八番隊まで、十二万七千人。守備隊は二万四百人、釜山浦城、安骨浦城、加徳城などに配置した。総勢十四万八千余人で、文禄の役よりも少なかったが、今回はいわば復讐戦で、秀吉は「赤国残らず悉く成敗せよ。青国その外の儀は成るべく相働くこと」と軍令を下した。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

蔚山城の死闘
 慶長二年十二月二十二日、未完成だった蔚山城は、突如、明軍五万七千人、朝鮮軍一万二千五百人の大軍に包囲された。加藤清正は西生浦城にいたが、すぐに駆けつけて城に入った。城内の食糧は二、三日分しかなく、守城の準備はまったくできていなかった。明軍の攻撃は凄まじく、千人以上の戦死者を出した。そのうえ、寒気に襲われ凍傷で手足を失うもの、凍死するものも少なくなかった。清正は疲労困憊の士卒を励まし、籠城兵の士気は少しも衰えなかった。明鮮軍もその頑強な反撃に驚愕し、明国の記録にも「清正、全然懼れず、惟だ死守して以って釜営(釜山)の救いを俟つのみ」と、その勇戦ぶりを称賛している。清正の才幹についても「酋(敵将)中において最も強悍、厳厲(げんれい)にして謀あり」「才能は行長に勝ること数倍なり」と評価している。

・・・・・・・・・・・・・

 

九月二十日、蔚山城攻撃の東路軍は、城兵を郊外に誘き出そうとしたが、清正はその手に乗らず、膠着状態になった。十月六日、泗川城を攻撃した中路軍が勇猛な島津軍に潰滅されたと知って、慶州へ退却していった。島津軍が挙げた首級三万八千七百余という。西路軍は順天城に迫り、水軍五百隻もこれに呼応して攻撃したが、どうしても落せず、陣地を撤収し、水軍も封鎖を解いて去った。こうして明鮮軍の大攻勢はことごとく失敗におわり、大いに気をよくしていた日本軍に、秀吉死去の訃報がもたらされた。秀吉は明鮮軍の総攻撃以前の八月十八日、すでに伏見城で死去していたのである。


 在鮮軍の撤退は、秀吉の遺言として徳川家康ら四大老の名で行なわれた。秀吉の死を知った明鮮軍の水軍は、順天にいた小西軍の撤退を拒もうとしたため、島津義久・宗義智の兵船と、露梁海峡で交戦。この海戦で明鮮水軍は敗れ、救国の英雄と仰がれていた李舜臣提督はあえなく銃弾に倒れた。

 こうして、足掛け七年におよんだ文禄・慶長の役は、朝鮮の国家と人民に甚大な惨害をあたえたのみならず、明国にしても日本にしても何ら得るところなくして、この無謀な侵略戦争はその幕を閉じた。明国は度重なる出兵に国力が疲弊し、やがて北方に興った金(清国)に滅ぼされるのである(1662)