20171017

第73回 温故塾「火付盗賊改」

 

 2017年10月17日、今回は今井塾長の得意分野で、話し出したら止まらない。その一端を紹介します。

 

●火付盗賊改とは?

 池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵の役職として有名になっている。

火付盗賊改は、正規の幕府職制上の役職ではなかった。その役は主として先手頭(さきてがしら)の役職にある者の中から出役させたので、先手頭の「加役」とよばれ、やがては火付盗賊改を加役とも称するようになった。火付盗賊改の名称も、盗賊考察、盗賊改、火賊考察、火賊捕盗、博徒考察、博奕改、捕盗、捕盗加役などのさまざまな名称が使われ、いつのころか「火付盗賊改」が通称となった。火付盗賊改が幕府の職制上、正式な地位を与えられたのは幕末の文久二年(1862)のことで、このとき始めて専任の役職となったのである。

 

 

●職務と権限

 火付盗賊改を略して〃火盗改〃という。その任務は江戸市中を巡回し、放火犯、盗賊、博徒を見つけ出し、または探索して隠れ家に踏み込み逮捕することである。先手頭は若年寄支配であるが、火付盗賊改となると老中支配に代わった。役高は千五百石、役扶持百人扶持。配下として与力十騎、同心三十人がついた。布衣を許され、席順は先手頭の上席であった。

 

 火付盗賊改は火付、盗賊、博奕の刑事専門の特別捜査機関であった。その権限は大きく町人地、武家地、寺社地のほか江戸近郊にまで及んだ。犯罪者が武家地や寺社地に逃げ込むと、町奉行では手が出せなかったが、火盗改は場合によっては旗本屋敷へ踏み込んで逮捕することもできたし、相手が刃向えば容赦なく斬り捨ててもよかった。

 

 

〃鬼平〃長谷川平蔵宣以は実在の人物

 ●青年時代 

 延享二年(1745)平蔵宣雄の長男に生まれ、初名を銕三郎、諱を宣以(のぶため)といった。十五歳で元服したが、将軍に御目見えしたのは明和五年(1768)の二十三歳であった。御目見えが遅れた理由は宣以の生母が家女(武家の娘でなく農民の出身)であったという事情に関係していたとみられる。これが平蔵(以後は宣以のこと)の素行が修まらなかった一つの原因である。

 二十九歳の時、父宣雄の京都西町奉行就任に同行し、平蔵はその名裁判ぶりを直に見聞したであろう。父の没後、家督を継ぎ小普請入となった平蔵は、父親が「貯え置きし金銀を遣いはたし、遊里へ通ひ、剩(あまつさ)へ悪友と席を同じうして、不相応の事など致して、〃本所の銕〃と仇名される遊蕩児」だったと『京兆府尹記事』にある。

 

 安永三年(1774)四月、平蔵は西の丸書院番となり、翌年進物番になった。進物番は容姿端麗、行儀作法にすぐれ、堂々と押し出しがよい者でなければ勤まらない。男前で挙措動作にすぐれ、口も腕も達者な平蔵には、さぞ適役であったにちがいない。天明四年(1784)、西の丸徒頭(かちがしら)となり、家禄四百石に足高六百石が加えられる。

 二年後の天明六年(1786)七月、番方の最高位の先手弓頭に進み、翌七年九月、火付盗賊改の加役を命ぜられる。平蔵四十三歳であった。加役には百人扶持を給せられたが、費用のかかる役職にしてはあまりにも少なく、よほど財力に余裕のある旗本でなければ務まらなかった。普通の任期は、一、二年であったが、平蔵は火付盗賊改に八年間も在職した。これは火付盗賊改としては最長で異例なことであった。

 

●人足寄場の経営

 打ち続く凶作や災害で地方の農村は荒廃し、多くの人口が大都市の江戸へ流れ込んできた。しかし、職に就ける技もない者はしぜん無宿者となり、あれこれ罪を犯しかねない。また、軽犯罪を犯して、入墨・追放した者も手職がなければ再犯者となりかねない。そうした無宿者・犯罪者の更生施設が「人足寄場」であった。建議者は長谷川平蔵である。

 

●松平定信の平蔵ぎらい

 平蔵が苦心惨憺して「人足寄場」の経営を軌道にのせた寛政四年(1792)六月、平蔵は人足寄場の役を外され、火付盗賊改に専念させられる。その功労にはたった金五枚の賞賜であった。人足寄場経営の成功をみて、定信は平蔵から取り上げたのである。寛政五年(1792)七月、定信は老中を罷免された。定信は平蔵の火付盗賊改の功績、人足寄場の労苦に何ら報いることがなかった。定信は平蔵の田沼意次的な感覚(貨幣経済主義)を嫌ったらしい。

 

寛政六年十月、幕府は平蔵の長期にわたる火付盗賊改の功労を賞して、時服を賜与した。そして、翌寛政七年(1795)五月十日、不帰の客となったのである。平蔵が突如として病に倒れると、十一代将軍家斉から御側衆加納遠江守を遣わされ、貴重薬瓊玉膏を賜ったと『寛政重修諸家譜』にある。享年五十一。