『温故塾』南北朝の動乱

【両統の迭立】

南北朝の動乱の主因は皇統の分裂にあった。88代後嵯峨天皇には二人の皇子があり、89代に後深草天皇が即位したが、後嵯峨上皇は亀山天皇を溺愛して、後深車に譲位を迫り、90代に亀山天皇が継承した。ここに皇統が二つに分立したことになる。すなわち、後深草系の「持明院統」と亀山系の「大覚寺統」である。亀山天皇のあと、亀山の皇子後宇多天皇が即位したのに対して、後深草上皇は自分の直系で皇位継承を望んでいたので、これを鎌倉幕府へ訴え出た。幕府では公家の問題に関与することを避けていたが、やむなく両統間の調停に奔走し、〃両統迭立〃(交互に皇位に就く)が成立した。しかし、その実行には不都合も生じ、そのつど幕府・北条氏は責任を問われることになった。

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【赤坂城の戦い】

笠置山が陥ちて安堵した矢先、赤坂城で楠木正成が挙兵した。幕府方はただちに笠置山を陥とした軍勢を差し向けた。赤坂城は方一、二町の小城である。寄手の幕府軍は「あな哀れの敵の有様や。この城、われらが片手にのせて投げるとも投ぐべし」と嘲笑った。小癪な奴と攻め掛かったが、恐ろしく強い。近づくと熱湯を浴びせ、崖をよじ登れば岩石・大木を投下してくる。いたずらに死傷者の山を築いた。仕方なく遠巻きにしていたところ、一夜、城が炎上した。突入してみると、だれとは知れぬ焼死体が穴に埋まっていた。幕府軍は「正成はや自害したのであろう」と安心し、引き揚げていった。むろん、正成の計略である。

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【六波羅府・錯倉幕府の滅亡】

足利高氏は上洛した。すでに船上山の後醍醐帝の倫旨(天皇の文書)を手にしていた。丹波国は高氏の生地であり、母親清子の上杉氏の本貫地であった。その地の篠村八幡宮に願文を納める。「北条氏の悪逆に誅伐を加えるは、天の理である。神まさに義戦に与して、霊威を耀かし、剣に代りて一戦のうちに勝つことを得しめよ」。高氏は決然として打倒北条氏へ踏み出した。

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【建武の中興】

元弘四年一月、建武と年号を改める。後醍醐天皇のいわゆる〃建武の新政〃が始まった。その理想は延喜・天暦の治(醍醐・村上帝時代)の再現、つまり万機天皇親裁の政治である。だが、現実には武家の存在が大きく、その実力を無視することはできない。記録所、雑訴訟決断所、侍所を設置したが、その機能は必ずしもうまく行かない。

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