温故塾 『山岡鉄舟』 2012年5月15日

高士山岡鉄舟

山岡鉄舟はよく「剣」「禅」「書」の人といわれる。

 剣は一刀正伝無刀流の開祖であり、日本剣流の本流である〃伊藤一刀斎〃の道統を明治の世に伝えた剣客であった。

 

 禅は剣の修行と同じように必死に打ち込み、ついに天龍寺の滴水禅師の印可を得て「剣禅一如」の境地に到達した。


 書は少年時代、岩佐一学について入木道の書を学び、その後、弘法大師や王義之の筆跡を習い、剣禅一如の精神による自らの心を写す鉄舟流ともいうべき書の世界を立てた。入木道では「身心ともに忘れ、おのずから天地万物、一筆に帰するが妙」がなければ「書道を得た」とは云わないとされた。鉄舟は少年時代から剣・禅・書の三位一体の修養を積んだことになる。

●江戸無血開城の立役者

 慶応四年一月、鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は江戸へ帰るや「朝敵」の汚名を恐れ、上野寛永寺に入って専ら恭順謹慎して朝命の下るのを待った。一方、徹底抗戦を叫んで彰義隊が上野山内に集結し、江戸の町は甚だ不穏な情勢下にあった。

 そんな中、慶喜は警護に当たる遊撃、精鋭の二隊を率いる高橋泥舟を招いて、「自分の恭順の気持ちを大総督府へ伝えてほしい」と頭を下げて頼んだ。泥舟が出立の仕度をしていると、慶喜は「お前がいなくなったら、主戦派の旗本連中を押さえる者がない。誰か、代わりに行ってくれる者はいないのか」と相談した。泥舟はあれこれ考え「この大役を果たせる者は義弟の出岡鉄舟のほかにありませぬ」と答え、すぐに鉄舟を呼んで、慶喜から直に命令を下してもらった。鉄舟は慶喜の「二心はない。朝命に絶対にそむかぬ」とその心底を確かめると、勇躍、その大役を引き受けた。


 鉄舟は出発に先立ち、勝海舟を訪ねた。勝とは初対面だつた。勝は「成功は難しいだろう。お前の存念はどうだ?」と問うと、鉄舟は大喝一声「御身は軍事総裁ではないか。ここに至って何をくずぐず考えいるのか。今日のわが国において幕府も薩州の差別はない。挙国一致だ。四海一天だ。天業回古の好機は今だ」と訴えて、勝を同意させた。そこで、海舟が「官軍の営中へはどうして行くか」と聞くと、鉄舟は「臨機応変だ」と答えたという。


 鉄丹は同行を乞うた旧友益満休之助(尊皇攘夷党)と東海道を西へ向かった。六郷を渡ると官軍の先鋒部隊が屯していた。鉄舟はその中を平然と通行したが、
誰一人誰何する者はなかった。まったく無心のまま、すいすいと進んでいく。途中、隊長の宿営らしい家に案内も乞わずに立ち入り、隊長(篠原国幹)に会うや、大声で「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へ通る」と断わったところ、徳川慶喜、徳川慶喜と二度ほど小声でつぶやいた。そこに百人ばかり詰めていたが、誰も声を立てなかった。まきに剣の気合であろう。
さらに進んで、神奈川宿辺にくると長州の兵が固めていた。そこでこんどは益満が先に立ち、「拙者は薩摩藩士でごわす。所用あつて駿府の大総督府へまかり通る」というと、どの隊でも礼を厚くして通してくれた。
こうして二人は昼夜兼行で駿府に到着したのは三月九日。すぐに本営へ赴き、西郷隆盛に面会を求めた。

 

 鉄舟は全生命を投げ出して、慶喜の恭順謹慎を告げ、朝敵征討の回避を訴えた。西郷は黙って聞いてるだけで、容易にはウンといわなかった。鉄舟は一膝進めてこういった。「慶喜の心をお受け下さなれれば致し方ありません。私は死ぬだけです。そうなると、いかに徳川家が衰えたりとはいえ、旗本八万騎の中で決死の者は鉄太郎一人のみでござらぬ。それでは日本はどうなりますか。それでも江戸へ進撃しますか。それならもはや王師とは申せません。敢えて討伐するなら、天下は大乱となること火を見るよりも明らかでござる」と切り込んだ。


 西郷は「お蔭で江戸の事情もよく判りました。ご趣旨を大総督宮(有栖川宮)へ言上しますから、しばらくここで休息ください」と言って席を立った。
やがて、西郷が戻つてきて、大総督宮からの五箇条の条件を示した。
一、城を明け渡すこと
二、城中の人数を向島へ移すこと
三、兵器を渡すこと
四、軍艦を渡すこと
五、徳川慶喜を備前へ預けること
とあった。鉄丹は一読すると「謹んで承りました。四箇条は異存はありませぬが、主人慶喜を備前へ預ける一条は、何としても承服できません」と抗議した。西郷は語気を強め「朝命ですぞ」と大上段から浴びせた。が、鉄舟は怯まない。
「それならば先生、先生と私と立場をかえてお考え下さい。もし、島津公が誤って朝敵の汚名をきせられ、謹慎恭順しているにもかかわらず、朝命として島津公を他家へ預けて、先生は平然としておられますか。私は君臣の情において到底忍びがたいものです」。西郷はしばし黙っていたが、決然として言った。
「わかりました。徳川慶喜どののことは、吉之助一身に引き受け申した。必ず心痛無用でござる」こうして、慶喜の救済と江戸無血開城は西郷隆盛が鉄舟に約束したのであり、二月十三日、芝高輪の薩摩屋敷での西郷と海舟の会見は、いわば儀式のようなものであった。

 

 のちに西郷の格言に「生命も名も金もいらぬ人は始未に困る。そんな人でなければ、また天下の大事は成らぬものです…」とあるのは、山岡鉄舟を評したものといわれる。(『南洲翁遺訓』) 

 

もっと知りたい方は、下記温故塾で使用したテキストをご覧ください。さらに興味を持った方は、温故塾にお出でください。

 

温故塾(山岡鉄舟)の教材
今井塾長の生家は鉄舟寺から150m、話にも力が入りました。山岡鉄舟は手柄を吹聴する人柄ではなかったので、あまり広く知られていませんが、素晴らしい人格者です。
温故塾(山岡鉄舟).pdf
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