旅順攻防戦

第1回旅順総攻撃
明治三十七年八月十九日午前六時、徒歩砲兵第一連隊第四中隊が盤竜山東堡塁に向けて初弾を発射したのを合図に、わが攻城砲兵各隊はいっせいに砲撃を開始した。ロシア側は約十五分後に応戦してきたが、わが砲兵陣地の位置確認が不充分で、その弾着はすこぶる散漫であつた。砲撃は二時間ほど続けられたのち、いったん中止した。


八時三十分ごろ、椅子山、大案子山、小案子山の堡塁・砲台がわが陸戦重砲隊に、盤竜山の砲台、東鶏冠山の各砲台がわが砲兵陣地へ向かって、盛んに集中砲撃を加えてきたので、わが軍も負けてはならじとこれに応じ、一大砲撃戦が展開された。
この日の日本軍の砲撃で、ロシア側は少なからぬ損害を被った。盤竜山東・西堡塁の海軍砲や火薬庫爆発。二竜山堡塁、望台放台、東鶏冠山北・第二・第二の堡塁、自銀山北砲第などで火砲の損壊、胸塔破壊・破損、守備兵全滅の堡塁もあった。

 

さらに午後七時、自玉山西麓に大爆発が起こり、その火柱は夕空におそろしいまでに燃え上がった。第一線の将兵は意気さかんで、これくらい砲弾で叩いたのだから、堡塁の内部まで破壊しているに違いない。「これなら強襲でやれる」と自信をもったのも無理はない。これは、まったく一大錯覚で近代要塞戦の恐ろしさを身を以て知らされるのである。


旅順要塞に対する第三軍各師団の主な攻撃目標は次のとおりであった。
第一師団(東京) 鉢巻山から水師営南方の諸堡塁
第九師団(金沢) 盤竜山東・西堡塁、望台。
第十一師団(善通寺) 東鶏冠山北堡塁と同、東・西堡塁。

 

旅順要塞は、旅順旧市街を囲む松樹山、二竜山、盤竜山、望台、東鶏冠山と連なる山々に構築した堡塁砲台を連繋させた本防禦線と、旅順新市街を囲む大案子山、小案子山、椅子山の堡塁砲台からなっていた。(旅順要塞図参照.. )
この要塞防禦線の要は東鶏冠山で、四個の強堡塁(北・南・第一。第二)と二つの砲台(第一。第二)で厳重に固めていた。


第二軍司令部の作戦は、要塞の正面というべき二竜山と東鶏冠山の間の諸堡塁を抜いて、ここを突破口に一気に旅順を陥れる、というものだった。まさに、真っ向から勝負を挑んだのだ。戦況を視察する乃木将軍の脳裏に、十年前の記憶が想いうかんだに違いない。日清戦争では「難攻不落の東洋一の大要塞」とうたわれた旅順を、わずか一日で落とした時と、同じ作戦だったのだ。

 

八月二十一日、乃木はこんな歌を二首詠んでいる。
弓張の月も射るなりいざ撃たん 世に仇なせる荒鷲の巣を
思ひきや十年(ととせ)の昔し龍を新り 今又此所に驚を撃つとは


十九日の砲撃開始とともに第一師団右翼隊が大頂子山を攻撃し、左翼隊は寺児溝の敵を撃退して水師営南方高地を攻撃した。第九師団でも、平佐少将率いる右翼隊が、龍眼北方堡塁(通称クロバトキン角面堡)を攻撃。龍眼北方堡塁は旅順要塞防禦線の各堡塁の中で最も前面に突出しており、ここが攻撃を受ければ、背後の二竜山、水師営の砲台が援護す
るという迎撃態勢にあった。.. 

 

もっと知りたい方は、下記温故塾で使用したテキストをご覧ください。さらに興味を持った方は、温故塾にお出でください。塾長の語りを一緒に楽しみましょう。

 

 

旅順攻撃
旅順攻撃の様子を記したものです。
温故塾(旅順攻撃).PDF.pdf
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旅順資料1
日露両軍の兵力と配置の資料です。
温故塾(旅順資料)20120116.PDF.pdf
PDFファイル 3.8 MB
 二〇三高地攻撃
二〇三高地攻撃の様子と堡塁断面図
温故塾(旅順資料2)20120116.PDF.pdf
PDFファイル 3.4 MB